第38話 半澤玲子Ⅵの3
文字数 1,914文字
あのお店ではほとんど食べなかったので、自宅の最寄り駅についてから、よく入るラーメン屋に立ち寄った。立ち昇る湯気と懐かしいにおいを浴びて、だんだんといつもの自分に戻ってきたのを感じた。お腹がグウと鳴った。
ちょっと明日以降が気になる別れ方になってしまったけれど、まあ、何とかなるでしょう。お互い大人だ。
9時近くに帰宅してから、洗面台の下の棚を開けて、わが社の入浴剤を物色した。こんな時はやっぱりクール系がいい。そこでミントオイルを含んだマイバス6を選んだ。
湯上りに体重測定。47㎏ぴったり。まあ、年齢と同じだわ。この前より1キロ近く痩せた。けっこう仕事のストレスが溜まっているのかしら。
いや、そうじゃないかもしれない。もしかして恋活で緊張したせい? 書き慣れない文章なんか、苦労して書いてるものね。
でも太るよりマシだ。わたしは自分にとっていま、いいことをしてるのよ、と言い聞かせた。そして、今日もテッチャンさんこと、岩倉さんに頑張ってお返事しようと決めた。
《何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。
ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。
哲って男らしくて、思慮深そうで、素敵なお名前ですね。》
と、ここまで書いて、こんなこと書くのはまだ早いんじゃないか、と反省した。会うことになったら、それからでも遅くない。もう少し他人行儀を守った方がいい。好意をあからさまに示さず、それとなく示す。その微妙な呼吸が大切。
そこで、最後の行を消して、続ける。
《何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。
ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。
わたくしは、半澤玲子と申します。
大原流についてのご理解は、とても正確だと愚考いたします。
また、わたくしも他の流派のものは、あまりなじめません。特に蒼華流は奇をてらい過ぎ ているような気がして。
ワレモコウというニックネームは、お察しのとおり、活け花でよく用いますので、そこから 思いつきました。
じつはわたくしの母が、活け花を教えていて、この前実家に……》
いやいや、こんなに饒舌になってはいけないわ。母がお花の師匠をしていることは黙っていよう。もう少し自己抑制をはたらかせなければ。
それに、「わたくし」というのはちょっと気取り過ぎていて、よくないな。実態を知ったら幻滅してしまうかもしれない。
またやり直し。
《何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。
ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。
わたしは、半澤玲子と申します。
大原流についてのご理解は、とても正確だと愚考いたします。
また、わたしも他の流派のものは、あまりなじめません。
ワレモコウというニックネームは、お察しのとおり、活け花でよく用いますので、そこから思いつきました。
野山に群生しているのは、お恥ずかしいことに、まだ見たことがありません。機会がありましたら、一度見てみたいと思います。
すっくと立っている風情がお好きとのこと、わたしも活けられたのを見ると、ああ、あんなふうに生きられたらなあと思うことがあります。
わたし自身はとてもそんなにすっくと立っているわけではなく、ごく普通の会社員として、あれこれ迷いながら毎日を送っております。
でも、そんなふうに例えていただいて、とてもうれしく思いました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。》
これでも字数が多すぎやしないだろうか、削れるところはないか、と読み直したが、えい、これくらい書いておいた方が、次のステップに進むのに相手もやりやすいだろう、と心を決めた。
文章に変なところはないか。誤字脱字はないかなどを慎重にチェックした。「例える」っていう字は、ほんとは「譬える」が正しいのよね。どっちにしようか迷ったけれど、でもやっぱり、簡便なほうにしておこう、と、送信ボタンを押した。
われながらずいぶん入れあげている、と思った。
人を一人振ったそのすぐ後なので、何かに縋りたい気持ちがいっそうはたらいたのかもしれない。こちらに関心を集中させれば、後味の悪さを埋め合わせることができる、と。
とにかく、明日、中田課長と顔を合わせる。
わたしに好意を寄せてくれたこと、思わぬ純情を示したこと、彼についてのそれらの印象をちゃんと織り込みながら、しかしほだされたふうはけっして見せずに接しなくてはならない。
ふう。人間関係は難しい、と改めて思った。
カーテンの隙間から浅草の街の灯がちらちらと煌めいている。あそこでも、きっとこんな面倒な人間関係が盛んに繰り広げられているんだわ、だからわたしも、これしきのことにめげてはいけない。先を見なければ。
岩倉さんに会ってみたい、と思った。