第105話 堤 佑介ⅩⅣの4

文字数 3,372文字



ようやく11日になった。

急に冷え込んでびっくりするほどの寒さだ。でも誕生日を祝ってくれる人なんて十年以上いなかったから、心の中はぽかぽかしていた。

3時半くらいまで仕事をし、スタッフに本部から呼ばれたと偽り、駅前のデパ地下で出羽菊の純米無濾過生絞り720mlを買って、電車に乗った。

田原町というのは浅草のすぐ前の小駅だ。降りて少し戻ったところに改札があった。改札から身を乗り出しているれいちゃんを見つけた。

地上に出るともう真っ暗で、息が白くなった。風は強くはなかったが身を切るように冷たい。れいちゃんは私の腕に縋りついて頬を私のダウンジャケットに埋めた。

お化粧をしていない彼女を初めて見たが、それも可愛かった。普段の生活の匂いがして、いいなと思った。

5分ほどで着いた。エレベーターの中でキスをしたが、口紅を塗ってなくてもその感触に変わりはなかった。

ヘンな話だが、これまで何人もの女性とキスをしてきたうちで、れいちゃんの唇がいちばん官能的だった。中年女性なのに、それは薄くてみずみずしい果肉のような味わい。芙由美のそれも悪くなかったが、彼女のはむしろ厚い豊潤な感じと言ったらよいだろうか。

こんなことを覚えていて比較するなんて、俺はけっこうスケベだなあと思った。でもこうした感覚の違いはもしかすると、自分の側の恋心の程度に依存しているとも言えそうだ。キューピッドはそこまで配慮してくれるのかもしれない。


ドアの中に入ると、白いきれいな世界がぱっと広がった。

癒し系のハーブの香りがほのかに漂う。とてもよく整頓されていて、全体に新築のモデルルームといってもおかしくなかった。

右にお風呂場とトイレ、左にキッチン、水回りの奥に二つの洋間が連続している。手前の洋間に四人掛けの小さなダイニングテーブルと、1人用のソファ、奥の洋間の右側にベッド、左側にクローゼット、そして窓際に置台があって、そこに活け花! 

「うーん、すごい! 可愛くて、すきっとしてて、うまく言えないけど、すごく素敵だよ」

「ありがとう。二つのバラがわたしたちのつもりなの」

れいちゃんはちょっとはにかんだ調子で言った。

「この伸びてる葉の勢いが素晴らしい。これは何ていうの?」

「鳴子ユリっていって、よく使うの」

彼女と私は抱き合いながらいつまでも眺めていた。


私は出羽菊を取り出し、冷蔵庫に入れてもらった。

れいちゃんは灯りを落としてケーキにローソクを二本立てた。ハッピバースデーを歌ってくれた。その声がかすかにふるえていた。見ると彼女の目が涙ぐんでいる。

私は気負って息を吸い込み、ふーっと吹き消した。

「これ、プレゼント。開けてみて」

「わあ、なんだろう」

モスグリーンの幌布の鞄だった。タグのところに「YUSUKE」と名前が刻んである。

「どうもありがとう! こういうの、どこで売ってるの」

「浅草の老舗で、猫印鞄製作所っていうところがあるの。いくつも種類があるんで迷ったんだけど」

「色もいいし、頑丈そうだね。すごく気に入ったよ。こっちの古鞄はもういらないね」

私は子どもみたいに肩から掛けて室内をスキップするように歩き回った。れいちゃんは笑ってそれを見ていた。

それから彼女はキッチンに入った。

カーテンの隙間から外を見た。浅草のネオンがすぐ間近に見える。隅田川を隔てて少し左寄りにライトアップしたスカイツリー。空気がもやっているのか、少しかすんで見える。雨になるかもしれない。

自分のうちにも来てくれないかと誘った。れいちゃんは今年中に行きたいと言った。

28日の仕事納めの日を提案すると、彼女はその日はもう休みだから、早く行けると言った。

「あの幻のポトフ、作ってあげるね」

「幻のポトフか。そういえばあのメールは切なかったな。あれ読んだとき、すごく一緒にいたいって思いがこみ上げてきて」

サラダとカルパッチョが出た。味付けをほめると、れいちゃんはちょっとおどけたように、

「この味がいいねと君が言ったから11日は ゆうくん記念日」

「ハハ……その『ゆうくん』のところを○○としておいて、何か二人にとって大事なことを表す言葉を入れた方がいいかも」

思わず言ったのだが、言ってしまってから、俺はプロポーズしているのかなと思った。ちょっと厳粛な気持ちになった。

れいちゃんも真面目な顔になった。それから何となく逃げるような感じでキッチンに立った。白けさせたかもしれないと感じ、後悔と不安に襲われた。

厚揚げと豚肉の煮物が出た。お料理屋さんみたいにうまかった。


前に勧められた『広い世界の端っこで』の話をした。

戦時中に呉市に嫁いだ18歳のゆきさんの話だが、義理の姉の子、直美ちゃんをちょっと預かって散歩している間に、時限爆弾に当たって直美ちゃんを死なせ、自分の右手を失ってしまう。右手は絵を描き続けてきた彼女の命といってもよかった。そのときのアニメ表現がとても印象的だった。

私よりもれいちゃんのほうがいろいろなシーンをよく覚えていて、その意味をしっかりとらえていた。原作の漫画との違いについても説明してくれた。

このアニメには、広島の原爆投下のシーンも出てくるのだが、その悲惨さをやたら強調するのではなく、爆撃を免れた普通の生活者の目線で描かれていて、そこにとても好感を持った。

私は丸本夫妻の『原爆絵図』や、マンガの『はだしのケン』を例に出して、それらとのコントラストに言及した。れいちゃんはああいうのは好きじゃない、とはっきり言った。

彼女は出羽菊とお猪口を二つ出してきて、私のほうになみなみと注いだ。私も彼女のお猪口に注ぎ、二人で改めて乾杯した。

「このお酒ね、純米無濾過生原酒って書いてあるでしょう。お米の香りがすごくするんだよ。それでひとりで一升瓶買ってきて、毎日少しずつ飲んでるんだ」

「いい香りね。それにコクがすごくある」

「二人で飲むとよけいうまい」

「ほんとね、ウフ……」

「ところで、さっきの原爆の話で連想したんだけどね、広島の原爆慰霊碑に『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』って碑文が書いてあるでしょう」

「うん。あれおかしいね。主語がないのね」

「そう、僕はずっと前からあの文句には憤りを覚えていたんだ。ふつうに見て、まるで日本人自らが過ちを犯したように読めるよね」

それから私は、自分の憤りについて説明した。止まらなくなってしまった。


民間人の大虐殺という戦争犯罪を行なった直接の下手人は言うまでもなくアメリカである。そのアメリカに対する怒りを完全に封じ込められて、自分たちがもっぱら悪い戦争をした結果であるかのように洗脳されてしまった。ここに戦後平和主義の欺瞞が象徴されている。

私は、アメリカに対して憤っているのではない。「日本が悪い」と思いこまされて、それに対して正式な抗議も怒りもぶつけたことのない、大方の日本人や日本政府のふがいなさに対して憤っているのだ。国内での論争や碑文に対する嫌がらせはあったようだが、いかにも内向きだ。

あの碑文が決定したのは、サンフランシスコ条約発効の3か月後である。占領下であれば仕方がないとも言えるが、すでに日本の独立は果たされている。だからこんな碑文を決定する前に、原爆投下責任についての大議論が内外に向けて巻き起こされてしかるべきだったのだ。

ところが日本人は、平和に対する祈りを繰り返すばかりで、正当な怒りを表明しようとしない。「勝てば官軍」の論理にあっさりと丸め込まれてしまったのだ。

これは何も原爆投下だけの問題ではない。戦後ずっと、「アメリカは正しい戦争をし、日本は悪い戦争をした」という認識が定着してしまった。東京裁判史観というやつだ。

けれど、本来、戦争とは対等の争いなのだから、そこに道徳的な善悪の判断を下すことは容易ではない。私は歴史にはあまり詳しくないが、当時の状況をざっと調べていけば、日本は拙劣な戦争をしたかもしれないが、道徳的に悪い戦争をしたわけではなかったことがわかる。

いまでもそうだけど、日本人て、どうしてきちんと自己主張しないんだろう。だから韓国や中国に対しても舐められるんじゃないか。

気づいてみたら興奮していて、れいちゃんにたしなめられてしまった。たしかに自分の誕生日にこんな話を恋人に向かってするなんて、野暮の骨頂だ。恥ずかしくなって頭を掻いた。
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