第66話 半澤玲子Ⅹの1
文字数 3,743文字
2018年11月15日(木)
日曜日に、久しぶりに美容院に行って髪を整えてきた。だいぶ長くなって乱れてきたので、少しだけカットしてもらった。美容師が黒髪の濃いのをほめてくれた。
昨日はよく晴れたさわやかな一日だった。
堤さんに初めて会うので、お化粧も念入りにしてマンションを出た。
数日前まで妙に暖かく、秋の初めに戻ったようだった。でもさすがに少し冷えてきた。寒いかなと思ったが、せっかくの日なので、ボタンデザインの入った白の丸首セーターにモスグリーンのロングスカートとしゃれてみた。ハーフコートははおったけれど。
席に就くなり、隣の藤堂さんが「あら半澤さん、今日は素敵じゃない。もしかして?」と聞いてきたが、「うふふ……別にそんなんじゃないのよ」と言ってごまかした。
じつは仕事のほうはちょっと気もそぞろ。でもちゃんとやりましたよ。
7時ちょっと前にカフェ・グラナダに着いた。ここは前にコーヒーを飲みに寄ったことがある。夜来たのは初めてだった。夜景がぎらぎらしていなくて落ち着きがある。
細長い店なので、最初ちょっと戸惑ったが、堤さんは、奥のほうに来ていて、手を挙げて招いてくれた。
ラフな茶色のジャケットを着こなしよく身につけていた。衿の少し大きめな真っ白のワイシャツがよく似合っている。面長でプロフィール写真で見たのと同じ丸い眼鏡をかけている。気さくな印象だけど、ちょっとデリケートかな。
でも想像したのとほとんど違っていなかった。まだわからないけれど、少なくとも見た目には素敵な感じだった。
「初めまして。半澤です。よろしくお願いいたします」
「初めまして。堤です。こちらこそよろしく」
やや高めだが、よく通る声だった。
「お食事はまだなんでしょう?」
「はい。お腹すいてます」
はっきり言ってしまった。
「僕もです」
彼もはっきり言った。思わず二人から同時に笑いがこぼれた。
堤さんは、メニューを差し出しながら、「どうします? 一品ずつ頼みますか。それともディナーコースで」と聞いた。
「ではコースで」
「飲み物は何にしますか」
「じゃ、グラスワインの白を」
「あ、それじゃ、ボトルをとりましょうか。飲みきれるかな」
「わたし、あんまり強くないんですけど」
「残ったら私が片付けますよ」
堤さんはにっこり笑って、ワインメニューを示し、わたしに選ぶように促した。わたしはよくわからないままに、適当にフランスワインを指さした。
メインディッシュは、堤さん、国産サーロインのタリアータ、わたし、真鯛のグリル トラパニ風。
「ニックネームが変わってましたね」
わたしのグラスにワインを注ぎながら、堤さんが言った。
「ワレモコウは、前に実家に帰った時に、母が活けてたんですよ。それが印象に残ってたので、何となくつけちゃったんです」
「そうだったんですか。もしかしたら、お人柄をあらわしてるのかななんて、勝手に想像しちゃいました」
「フフ……わたし、あんなに逞しくありません。それに自分で自分の性格にちなんでニックネーム選ぶなんて、ヘンじゃありません?」
「ハハ……ほんとですね。逞しい野草と言えば、僕は子どものころからアザミが好きなんです。アザミを活けることなんてあります?」
「ああ、写真で見たことはありますが、わたしはまだないです。でもあの野性味のある強さ、わたしも好きです。活け花では使っていけない素材ってないんですね。でも何と組み合わせるかが難しそう。アザミはあんまり独り立ちしすぎてる感じがして」
「なるほど。僕は、そこが気に入ってるんですけど、ちょっと怖い感じもありますね。よくわかりませんけど、挑戦してみるのも面白いと思いますよ」
「そうですね。やってみようかしら」
「それにしても、あのお花の写真、素晴らしかったですね。白とピンクと濃い緑。色も形の釣り合いもとても決まってると思いました」
「ありがとうございます」
「あれは、ハクチョウゲ、ですか。枝が横にうねるように伸びて」
「そうです。よくお分かりになりましたね」
「昔、実家の裏手に生えていたように思います。よく覚えてないんですが」
「ご実家は横浜、でしたっけ」
「ええ」
「私の妹一家も横浜なんです」
「あ、そうですか。どのあたり?」
「北部です。都筑区。結婚して武蔵野の実家から引っ越したんですよ」
「ああ、それじゃ、東京に近くていいですね。僕は真ん中のほうですから」
「でも浜っ子って、なんかすてきですね。おしゃれで開かれた感じで」
「うん、まあ、けっこうみんなにあこがれられますけどね。でも生まれ育った土地って、本人からすると、愛憎両面ありますね。親兄弟との関係もからまってるし」
わたしはそこで、「ああ」と相槌を打ったきり、その後が継げなかった。誰にでもある翳り。わたしもじつは妹とあまり仲が良くなかった。いまでもそのしこりが残っている。
それからしばらく、わたしが質問した政治の話、好きだと言った画家の話、過去の旅行の話などをした。
奥入瀬は若い頃、自分も友人と歩いたたことがあると彼は言った。やはり夏の夕暮れ時で、生い茂った森のなかにせせらぎの音を聞きながら、時々滝に出会うと、そのたびに心が洗われるようだったことを覚えている、と。
そのうち映画の話に移った。
「『広い世界の端っこで』はご覧になりました? アニメですけど」
「ああ、見てないです。アニメはちょっと弱いですね」
「おススメですよ。悲しい話ですけど、救いもあります」
「そうですか。DVDになってますか」
「たぶんなってると思います」
「じゃ、買いますね」
それから話題はやっぱり『万引きファミリー』になった。
堤さんが言った。
「是吉監督の映画は何本か見ましたよ。あの人の映画って、どれもけっこう重いですよね。はじめ、それがいかにもリアルな『あるある感』みたいに迫ってくるんで、正直、ちょっと見ていて苦しかったです。でもいろいろ見ていくうちに、だんだん慣れてきて、やっぱりこういう撮り方しないと、こういうテーマは描けないんだなってのがわかるようになりました」
堤さんも、是吉映画みたいに、つらい体験をしてきたのかしら、とちょっと想像した。そういえば、彼もバツイチで、しかもお嬢さんがいるわけだから、あの『海の底の深みへ』と似たような経験があるのかもしれない。
彼の話が続いた。
「『万引きファミリー』はそれが全部詰まってる感じでしたね。あれは、ちょっとカッコつけた言い方になりますけど、家族が難しくなってる時代に、ゼロから家族を作り上げてく現代の創造神話みたいです。結局、ほんとにうまくできかかる直前で、失楽園と同じように壊されちゃうんですけどね」
現代家族の創造神話。なるほどうまい言い方だ。でも違法行為で楽園作ってるから、結局、いつか破綻してしまうのね。わたしはふだん感じていたことを言ってみた。
「是吉監督の映画って、みんな家族関係が複雑ですね。あれ、何かこだわりがあるんでしょうか」
「さあ、監督自身の育ち方に関係あるのかもしれませんね。それと、父性愛に執着しているのがけっこう多いでしょう」
「ああ、ほんとに。もしかしたら自分が父親から愛されなかったのかもしれませんね。それと、悠木果林が出てるのがみんないいですね」
「あの人の存在感はすごい。惜しい人を亡くしました」
「あの人の遺作、ご覧になりました?」
「えーと、たしかお茶がテーマの。ああ、見てないです」
「ええ。『喫茶去』ね。あれ、わたし、お花に少し心得があるんで、興味があって、見たんですね。悠木果林、重要な役をすごくうまくこなしてますけど、映画はあんまりおもしろくありませんでした。別世界のきれいなところだけ見せているようで」
「あ、そうですか。そうだとすると、やっぱり監督次第ってところも大きいんですね。コラボレーションの問題ですね」
「ええ、そう思います」
こんな話、誰ともしたことがなかった。何よりも、自由にものが言える雰囲気だった。ほかにもいろんな話題が出た。家族の話、仕事の話。堤さんは顔にあらわさないけど、仕事のほうは相当たいへんそうだった。
気がつくと、あっという間に二時間が経っていた。
「また会っていただけますか」
彼が小さな声で言った。
「はい」
わたしも小さな声で答えた。
「そうだ。フェルメール展、ご一緒しませんか」
今度は語調がすこし強くなっていた。
わたしは喜びを押し隠しながら言った。
「ええぜひ。でもうまく時間がとれるかしら」
「あれ、たしか予約制だったでしょう。けっこう遅くまで入場できたと思うんですけど」
「あ、そうですね。調べてみます」
スマホで見ると、入場時間が6つに分かれていて、最終枠が7時から8時、閉館が8時半になっていた。
「これなら、最終枠で予約して……」
「行けそうですね。僕は、そうだな、来週の火曜だったら、遅くとも7時半には行けると思います。半澤さんは?」
「はい。わたしも大丈夫です」
「じゃ、火曜日、7時半に会場入り口で待ち合わせることにしましょうか。1時間あればじゅうぶん見れるでしょう」
「そうですね。じゃ、今度はわたしが予約しておきます」
「どうもありがとう。お願いします。今日はほんとにありがとうございました。これからもよろしく」
「こちらこそ。……わたし、ちょっと化粧室に」