第39話 堤 佑介Ⅵの1

文字数 4,999文字


2018年10月4日(木)


私はよく夢を見るたちである。

たいてい、いろんな手を使って目的地にたどり着こうとするのだが、いくつも電車を乗り継いでいくうち、ヘンなところに来てしまったり、知らない路地に迷い込んで途方に暮れてしまったりといった悪夢が多い。

試験の夢もよく見る。他の受験生がどんどん答案を書いているのに、私だけ白紙状態である。すごく焦っている。でもそのうち、あ、そういえば自分はもう社会人なのだから、こんな大学なんて受けなくたっていいんだという自己慰安の気持ちがやってきて目が覚める。

塾をやっていた時代の夢もある。生徒が私の講義を聞かずにめちゃくちゃに騒ぎ立てる。いっこうに収まらないので、堪忍袋の緒が切れて、怒鳴りつけたところで目が覚める。

実際にはこんなことはほとんどなかったのだが。

しかし今朝見た夢は、このたぐいの悪夢とはちょっと違っていた。

何人かの仲の良い友人たちと語らっていた。そのなかに若い女性が混じっているのだが、そのうちその女性が裸になっていることに気づいた。

私を慕っているふうに思えたので、ごく自然な気持ちで近づいて、うしろからそっと抱きしめた。女性も私のされるがままになっていた。

ほどよい大きさの乳房を揉むと、ふわふわとしてとても柔らかい。まるで空気を揉んでいるようだなと思っていると、そうだ、これはただ空気を揉んでいるだけなのだという確信がやってきて、そこで目が覚めた。

はかなさを地で行くような夢だったが、悪い感じはしなかった。股間が固くなっていた。久しぶりのことだ。

何かいいことがある前兆かな。そう無理にでも思うことにして、いつものように軽い朝食を急いで済ませ、出勤の支度をした。



だが仕事の上では、あまりいいことはなかった。

8室の部屋をもつ木造アパートのオーナーが相談に来て、空室が多くなって困っている、何とかならないかというのだ。70半ばくらいの男性で、西山と名乗った。

2階建てで、居室は10畳ほどのLDKに6畳という造りで、若いカップル向きと言えるだろう。

聞けば、初めのうちは1室、2室が空くだけで、じきにそれも埋まったのだが、5年ほど前から空室が増え、なかなか埋まらなくなった。いまは6室が空いたままもう2年も経っているという。1階が3室、2階も3室。

築18年というから、日本がデフレに突っ込んで少し経ってからということになる。まさにデフレが続いている現状のあおりをもろに食らった結果と言えるだろう。

けやきが丘の駅から徒歩圏に立地しているのだから、そんなにニーズがないとも思えない。外観と内部の写真を見せてもらったが、内部はなかなかしゃれたイメージで、さほど古びてはいないし、設備のメンテナンスもそれなりに行なってきたという。

そういえば、このアパートは外観に見覚えがあった。シャッターが軒並み閉まっていた。ああ、あそこだな、と思った。

家賃、固定資産税、経営管理の方法などについて情報を提供してもらった。

家賃は、初めはけっこう高く取っていて、それでも客がついたのに、空室が増え始めてからこれまで何度か少しずつ下げてきた。現在1階が9万円、2階が9万2千円。この地区が他に比べて高いのは当然だから、いまの相場からしてリーズナブルに思われた。



「営々と会社勤めしてきたんやけど、ええ、営業畑です。ほんで50半ば過ぎたころからもう会社人生やんなってしもてね。ほれ、依願退職てありますやろ。小さな会社やったけど、一応役員待遇ってことで、退職金はそこそこ出ました。ほんで老後に備えよう思うて貯金と退職金はたいて始めたんですわ。ええ、借金も少ししました。最初は順調やったけど、ここへきてこんなんなってしもて、何のための老後の備えかわからへん。女房にゃせっつかれるし、どないしょ思うて、ご相談に伺いました」

「これまで、管理のほうはご自分で?」

「いやあ、とても素人じゃ手ぇまわりませんわ。委託しよりましたけど、先月、これからの処置考えなおす言うて、解約しました。ほんで、こちらさんではコンサルもやっとる言うんで、相談に伺ったわけです。こちらさんはアパートの管理も手掛けとりまっか」

「はい、やっております」

本音を言えば、これは厄介な物件の部類に入る。仲介だけでも忙しいので、安請け合いしない方がいいのだが、「やってない」と答えるわけにはいかない。

「ご自宅は持ち家でいらっしゃいますか」

「はあ、柏台です。会社辞めてから、子どもも独立したよってに、女房と二人だけじゃ家広いし、大阪ぁ景気悪いし、アパート経営なら東京のがええやろ勧めてくれる友達がおってな、息子も東京の会社勤めてますし、思い切って家売ってこっち来ました。んでも東京は物価高うおますな。あれこれ探してようやくここぉ落ち着きました。ほんま東京は物価高うおますな。え、いまの家は中古です。あれもう30年以上経っとるとちゃうかな。それにしてもこんななってしもたら、何のためにこっち出てきたかわからへん。まあ、ほんでも息子に時々会えるちゅうのはせめても御の字や思うとりますがな」

よくしゃべる爺さんだ。そこに恨めしい気持ちが相当込められているように思えた。

彼が住んでいるという柏台は、ここからは同じ沿線の2つ東京寄りだが、急行は止まらない。小さな町で、不動産価値はけやきが丘よりはかなり落ちる。きっと資金繰りで苦労してこういうことになったのだろう。

「ローンはまだ残ってるんですか」

「こちらはおかげさんで、家もアパートも終わっとります。最初は調子よかったもんで、何とか回収できました」

「奥様は、お仕事はしてらっしゃらない?」

「はあ、前にパート出たことありますが、いまはやめてます」

奥さんがいくつだか知らないが、これから奥さんに働いてもらうのはちょっと無理かな、と思った。

この人のこれからの人生について親身になって相談に乗るには、子どもたちはどうしているのかとか、貯金や年金はどれくらいかとか、いろいろと聞いておいた方がいいのだが、あまり立ち入るのは自分の職分からしてよくない。

私に与えられた役割は、この物件をどうすれば活かせるかに答えることだ。



しばらく考えた。

うーん、情勢が情勢だけに、適切なアドバイスをいまここでするのは困難だ。西山さんがじりじりしているのがわかった。

「そうですねえ。率直に申し上げて、いま景気回復の見込みがなかなか見えてこないんで、西山さんの場合、以前と同じような状態まで復活させるのは、かなり難しいんじゃないかと思います」

「そうでっか」

西山さんは肩を落とした。

「それと立地なんですが、周りがけっこう高級住宅街ですよね。富裕な層が多い地区ですから、かえって低所得の人たちが集まりにくいってことも、この業界では言えるんですね。いまデフレで、すごくせちがらい世の中になってますから、切り詰められるところはできるだけ切り詰めようって心理がすごくはたらいてます。ネットの発達のおかげで、みんな情報通になってて、安い地区、安い地区を狙おうとするんですよ」

「なるほどね。ほんなら、家賃もっと下げたらどうですねん。礼金はもう前から取っとらんですけど、敷金もいらんちゅうことにして」

「それは一つの有力な手だと思います。そういうところ、けっこう増えてますからね。思い切って家賃下げて、けやきが丘駅から徒歩8分とか宣伝すれば、人気エリアでこんなに安いのかってことで目を引くかもしれませんね」

今度は西山さんのほうが、腕組みして考え始めた。



頃合いを見て私のほうから言った。

「もしご決断なさったら、私どものほうにもう一度ご相談くださってもけっこうですよ。価格によりますが、折り合いがつけばウチと専属選任媒介契約を結んでいただいて、広く広告を打つことはできます。ただし、お客さんが増えるかどうか、それは残念ながら保証しかねますけれど」

西山さんは、黙ったままだった。その間が長いので、今度は私のほうがちょっとじりじりしてきた。言った方がいいかどうか迷ったが、思い切って切り出した。

「もう一つの選択肢としては、ちょっと申し上げにくいんですが、この際、いっそお売りになるというのはいかがですか。まとまったお金を確実に手にして、これからの人生に備えるというのも一つの考え方ですよね」

「それは考えとったんですわ。しかし高くは売れんでしょ?」

「買値からはかなり下げざるを得ないと思いますが、土地がありますから。10年近く前に駅が新しくなりましたよね。あれからけっこう値上がりしたんですよ。その点ではこの地域だってことが有利にはたらきますよね。」

私は、内心そのほうがいいと思っていた。

築18年では、上物の価値は20%以下に下がる。業界の査定では、ほとんどゼロである。しかし土地のほうは、あの駅舎新築以来一気に人気が出て、18年前に比べれば、ずいぶん値上がりしている。

この先アパート経営のあがりで生活を支えていこうとしても、いつも埋まるとは限らないから、その不安を絶えず抱えなくてはならない。しかも高齢になれば、自分で管理業務までやるのはたいへんになる。

まあそれはこちらに任せてもらえば済む話だが、それだけ手数料を引かれることになるわけだ。それに、築18年というと、これから急にいろいろなところが痛んできて、修繕代も覚悟しなくてはならない。

また、こちらの立場から言えば、この前の会議で出ていた「下町コンセプト」の対象に当てはまる。ウチで買い叩いて、というと言葉は悪いが、なるべく安く買い上げて少しリフォームすれば、ウチの管理物件として好きなように処理できる。

「下町」とは言えない立地だが、ちょっと歩けば大きな公園や店舗やクリニックがたくさんある。安い家賃で高齢者向き住宅として宣伝するのだ。

「あんたはんは、どっちがいいと思いますねん」

端的に問われたが、顧客の今後の人生を決定するようなことまでは言えない。後で恨まれないとも限らないし。

「難しいところですね。私どもでできることは、この物件に関してなるべく確かな情報を提供して、こちらの方が有利だろうというお勧めを示すことです。でも最終的なご判断は、西山さんご自身でなさっていただく方がいいと思いますよ。これからの人生がかかっているわけですから」

西山さんはちょっとむっとしたような表情を浮かべた。

「だから、そのお勧めでいいですから、言うてみておくんなはれ」

「申し訳ありません。今日の段階では、まだどちらとも申し上げかねます。もしアパートの経営を続けるとした場合、西山さんのほうで家賃、敷金などをどうするかお決めいただいて、私どものほうにもう一度ご連絡いただけますか。そうすると今後の予想も立てやすくなりますね。また、もしお売りになる場合には、よろしければ私どものほうで直接現地にお伺いして、金額の査定をさせていただきます。そのうえで、両方を突き合わせて、またご相談するということでいかがでしょうか」

西山さんは面倒くさそうに顔をゆがめた。専門家の判断を仰ぎに来たのに、スパッと言ってくれないのが不満のようだ。気持ちはわかるが、そう簡単にはいかない。

「そうでっか。んじゃ、家賃やなんかはまた女房とも相談して考えてみますわ。連絡は電話でもよろし?」

「けっこうですよ。水曜はお休みですが、そのほかは10時から6時まで営業しております。私の携帯にお電話くださってもかまいません。あ、先ほど差し上げた名刺に書いてありますので」

「ふむ。んじゃ、また」

そっけなく帰ろうとするので、もう一言。

「すみません。もしお売りになる方向で考えられた場合には、お手伝いさせていただきます。その節にはご足労ですが、こちらにもう一度お越しいただけますか。申し訳ありません、すぐにお答えできなくて。今日はどうもありがとうございました」

西山さんは無言で、わかった、わかったというように手を振って出て行った。八木沢と川越が立ち上がって「どうもありがとうございました」と唱和した。

この爺さん、なんだかいまの日本の暗い気分を象徴している――そんなふうに感じたのは、私の思い過ごしか。大阪の景気の悪さもしゃべっていたので、大阪の沈滞というあらぬ連想にまで及んでしまった。

こういう傾向は、今後も続くのだろうか。だとすると、不動産業界もうかうかしていられない。
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