第117話 堤 佑介ⅩⅤの4
文字数 4,182文字
ドアを開いた。れいちゃんがキッチンから飛び出してきた。ワインの袋を彼女のお尻に回しながら、ぐっと抱きしめ長い長いキスをした。
夕刻になって、「幻のポトフ」が出た。キャベツ、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎなど、いろいろな野菜の味が溶け合って、すごくうまかった。
「幻のポトフが現実になったね。最初、宮益坂のレストランでひとりで食べてたんだよね。あの時もらったメール、たしかFureaiのメッセージから切り替えて、れいちゃんが返事してくれた初めてのメールじゃなかったっけ」
「うん。あのとき、寂しくなっちゃったの。渋谷にハローウィンのあとの空虚感が漂っててね」
彼女はそう言って、私をじっと見つめた。まなざしがとても色っぽいと感じた。その寂しさこそが僕たちを結び付けたんだよ、と言おうとして、ちょっときざっぽいのでやめた。
それからお正月に彼女の実家に行く話をした。
妹さん一家の予定とはバッティングしないのかと聞いた。するとれいちゃんは、クリスマスの誘いの電話の話、何日か前に妹の家に行ったが、姪の受験に夢中でそれどころではない雰囲気だった話をした。
そういえば、妹さんとはあまり折り合いがよくないというのは聞いた覚えがある。でもそのときは聞き流していたが、この話で、その様子が実感を持って確かめられた。
「まあ、相性ってどうしようもなくあるからね。それは仕方ないことだね」
「辞職や華道のことを伝えようかなと思ったんだけどね、それ、話さなくてよかったと思う」
「あ、そうだね。それは言わなくてよかったね。僕とのこともいずれわかるにしても、わざわざこっちから言うことないよ」
ワインから日本酒に切り替えた。
お母さんの教室の様子を聞いた。そのうち、もしれいちゃんが引き継ぐなら、生徒倍増のために力を貸すという申し出を、この前よりも本気でしている自分に気づいた。
「でもゆうくんはお仕事で忙しいでしょう?」
そう聞かれて、きのう本部から帰る時の心境がにわかに甦った。このまま俺は不動産屋をずっと続けるのか。あのたぐいのことはこれからもある。そのたびにまたすかされる思いを味わわなくてはならないのか。
「うん。ここ何年かはね。でもこれからの生き方について、少し考え直そうかと思ってるんだ」
れいちゃんは、え?という顔をした。私はしばらく下を向いていた。
昨日の話はする気になれなかった。彼女が何か言いたそうにじっとこちらを見ている。ちょっと雰囲気を重苦しくしてしまった。
「ごめんごめん、心配しないで。60代が見えてくると、ここらで人生やり直そうかな、なんて、らちもないこと考えちゃうんだよ」
「わかるような気がする。ゆうくん、いろんなことできる人だもんね。それに、いま、昔の56と全然違うでしょう。まだまだ新しいことに挑戦できると思う」
「ありがとう。れいちゃんの新しい生き方に合わせて協同事業みたいなこと構想してもいいかなとかね。これは単なる妄想だけど」
れいちゃんは、少し黙ってから、優しい声で言った。
「それ、いますぐ決めなくても、ゆっくり考えればいいと思う」
「そうだね。ありがとう。すごく元気もらった感じがする」
今度は彼女が私のぐい飲みにお酒をなみなみと注いでくれた。ぐっとあおった。景気づけのつもりだった。でも私の飲みっぷりを見て心配になったのか、れいちゃんが言った。
「今日はあんまり飲まない方がいいかも」
その声もすごく優しかった。私の酒に注意したのはこれが初めてだった。
恋女房よ、たしかにその通り。私の気分はまだ昨日のことを引きずっていて、こうして彼女と向き合っていても、どこか心の荒れが払拭しきれていないのかもしれなかった。
れいちゃんは話題を変えて、会社の部下のさくらちゃんという人のことを話し始めた。
なんでも30代前半で、明るくて親切で、すごく魅力があるのに、これまで男性との出会いで3回も失敗しているのだという。打率1割という篠原の言葉を思い出した。それにしても若者のミスマッチ、何とかならないのだろうか。
「ポトフ、まだあるわよ。もっと食べる? ご飯もチンしようか」
「そうだね。酒はほどほどにして、栄養つけよう」
それからリビングでコーヒーにして、テレビをつけた。
すると報道番組で、なんと、きのう韓国政府が初めの声明を覆してレーダー照射はしていないと発表したと報じていた。しかも今日の5時に、その発表への対応として、ようやく防衛省が、証拠として対潜哨戒機P-2が写した当時の映像を公開したというのだ。
篠原の言ったとおりになった。後手後手に回る日本政府のだらしなさ。さすがに私は憮然としたが、れいちゃんの前で怒ってもしょうがない。
れいちゃんには、概略次のように解説した。
これは、北の漁船の救助に当たっていたなどと言っているが、文在寅大統領の肝いりで、北の工作船を援護していたために行った可能性があること。韓国は日本やアメリカと同盟関係を結んでいながら、北京に操られているので、その反日姿勢だけを問題にするのでは足りない。もはやいつ日米の仮想敵国である中国に寝返らないとも限らない可能性があること。
これ以上は長くなるし楽しくないので、話さなかった。
じつは、北の背後にはロシアもいて、アメリカの経済制裁の裏を掻いている可能性がある。ロシアにとって非核化されない北の存在は、緩衝地帯として必要だからだ。ロシアが北方領土問題にまるで乗る気がないこともわかっていた。四島返還などすれば、アメリカに基地を置かれてしまうことを恐れているのだ。ロシア側からすれば、これはもっともな懸念だ。
東アジアの情勢は複雑で、予断を許さない。大事なことは、日本がアメリカとの同盟関係を強固にしながら、ロシアとも独自の外交を展開することだ。
中国は、アメリカと日本との分断を狙って、ロシアや韓国を巻き込もうとしている。この中国の反日統一戦線構想を崩していくことが肝心だが、日韓関係の悪化を憂慮している人々はもちろん、嫌韓に凝り固まっている人々や、中国詣でを繰り返している財界の人々も、こうした危機感を持っていない。
しかし、しょせんは床屋政談。ここまでの話はしなかった。早々にテレビを切った。
れいちゃんは引っ越しの話をし始めた。いまのマンションを売って、早くここに来たいと言う。それは夢膨らむとても楽しい話だった。
だがそのうち、ここも売って、もっと広いところに引っ越したほうが、さらに楽しい生活ができるということに話がまとまった。
どこに住むか、どれくらいの資金が必要か、ふたりの資金はどれくらい見込めるのか、いずれそういう相談をきちんとすることにした。
「あ、そうだ。言うの忘れてたけど、娘の亜弥にれいちゃんのことメールしたら、ぜひ会いたいってさ。3日、だいじょぶ?」
「ほんと? わたしも会いたいわ。3日だいじょぶよ。亜弥さんて、建築設計やってるのよね。ゆうくんのお嬢さんのことだから、きっと才色兼備なんでしょうね」
「そんなことないよ。そうそう。彼女が最初に婚活サイトを勧めてくれたって話、したっけ」
「え、そうだったの。いま初めて聞くわ」
れいちゃんはちょっと複雑な表情をした。私の離婚経験のことに想像が及んだのだろう。
お互いの過去については話さないという暗黙の了解があったが、複雑な感情を抱くのは当然のことだ。でもこの暗黙の了解は、不思議にしっかりと守られていた。
私は、亜弥とのいつかの食事のことを話した。れいちゃんはおもしろそうに聞いてくれた。
「大学生の時に向こうから電話してきたんだよ」
「でも、若いにしてはずいぶんしっかりしてるわね。なんていうのか、そういうふうに乗り越えて……」
彼女は離婚の理由は尋ねずに、ただそう言った。
「うん、それは僕もそう思う」
「きっとお父さんが好きなのね」
それは正直なところわからない。ただ私のほうの断ち切れない思いを、亜弥が大人になって忖度してくれたのかもしれない。
家族の親和と葛藤。
彼女が思春期にさしかかったころ、私は家を出た。リビングのドアの向こうから廊下越しに、恨みのこもった視線をちらと投げてよこした。それきり彼女はうつむいていた。何も言わなかった。あれを忘れることができない。
いっぽうで、幼い頃、肩車して公園をぐるぐると歩き回ったこと、紙粘土でいろんな動物を作って遊んだこと、夏の日の夕暮れ、ブランコをいつまでも押してやったこと、お風呂に入れて30まで数えたら出てもいいと言ったことなどが脳裡を駆け巡った。
それかられいちゃんが、フルニエのチェロ協奏曲をリクエストした。しばらく二人で聞きほれていた。
思えばこの感傷的な旋律の曲が私を打つようになったのは、Fureaiサイトに登録したころからだった。若い時には、あまりこの種の曲に感銘を受けることはなかったのだが、最近、こういう旋律にふと涙腺が緩むようになった。
心の弱りかとも思えたけれど、でも、いま、こうして好きになった女性と一緒に聴くことができている。心の弱りだとしても、それは悪いことではないだろう。優しい愛情が私の疲れと憂愁をほのかに包んでくれている。
ふたりともしばらくじっと余韻に浸っていた。
気分を変える必要を感じた。
急に思い立って、お風呂に一緒に入ろうとれいちゃんを誘った。彼女は恥ずかしそうにしながらうなずいた。
風呂場での営みは新鮮だった。
しばらくシャワーでふざけていたが、湯船のふちに腕を置いて丸いお尻をこちらに向けたれいちゃんを後ろから抱きかかえた時、彼女が「明るすぎる……」とささやいた。ズームスイッチなのをさいわい、それを半分くらいに絞った。
窮屈な空間で愛し合ってから、二人で湯船に入ったら、お湯がザーッとこぼれた。からだが斎戒沐浴のように洗われるのを感じた。さっきまで子どもだったのが急に大人になったかのようだ。ふたりの新しい時が始まるのかもしれなかった。
れいちゃんが言った。
「ねえ、これからも一緒に入ろうね」
甘ったるさはなかった。誓いの言葉のような口調だった。
私は彼女の両手を握って、じっとその目を見つめ、ただゆっくりうなずいた。
太古の昔には、人々は、こんなふうに日々の心と心が同期しながら変化するのを感じ取った時、神意をその場所にまざまざと見たのではないかと思った。
ベッドに横たわってお休みのキスをした。