第36話 半澤玲子Ⅵの1

文字数 2,726文字


                        2018年10月4日(木)


やっと秋らしい空気になった。

台風25号は沖縄、九州に大雨を降らせているようだが、どうやらこちらには近づかず、東シナ海から日本海へ迂回していくようだ。

こちらは雲がかかっているけれど、今日一日雨にはならないらしい。

ポインセチアとポトスに軽く水をやってからマンションを出た。駅までの道を歩いていくと、微風が頬を撫でる。通学の小学生たちが五、六人、縦一列に歩いている。平凡な朝の風景に心が和む。



社に着いてから聞くと、キーピィ騒動は、どうやら事なきを得たようだ。役員クラスがじきじきにクレーマー宅を回って説明と謝罪にこれ努めたらしい。

だけど考えてみると、マスコミが取り上げるのはごく一部だろうから、こういうトラブルは実際にはごまんとあるに違いない。そしてこれからも増えるだろう。

さて、デスクに就いた。

昨日遅くに届いた報告書群に目を通す。

ふとある取引先の書類に不備を感じたので、直接担当者に会って確認した方がいいと思った。取引先まで30分もかからない。先方にアポを取ってから、新宿の近くにあるビルまで出かけた。久しぶりの外出だった。

駅構内を通る時、フェルメール展の広告が目に入った。「牛乳を注ぐ女」の大きな画像だった。ちょうど今日が開催日。

フェルメールは大好きな画家のひとりだ。あ、すぐにでも行きたいな、と思った。でも考えてみると、初めのうちはすごい混雑だろう。ほとぼりが冷めてからにしよう。

一瞬、エリと一緒に、と思ったが、そうだ、彼女はあの彼氏と行くことをもう考えているに違いない。ここは誘うのを遠慮すべきだ。そう気づくと、ふっとさみしさに襲われた。

でも考えてみれば、わたしだって、一緒に行ける相手がもうすぐできるかもしれない。テッチャンさん……。



先方との確認作業は、わりにあっさりと片付いた。担当者がいい人でよかった。

帰りの電車の中で、スマホのFureaiアプリを覗いてみる。

あれから、いくつかマッチングが入った。でもそれらにはもう取り合わなかった。一応はみんな見たけれど、気持ちがそれほど動かなかった。あまり惹きつけられる人がいなかったし、最初の新鮮さが失われたせいもあるかもしれない。あれこれ目移りするのもよくない。

トニーくんからもすぐに返事が来た。こちらのやんわりとした距離の取り方にあまり気づいていないらしく、『広い世界の端っこで』に反応してくれたことをひたすら喜んでいた。わたしのコメントに感心もしてくれた。尊敬するという言葉もあった。

でも、この人は、ああいう作品が秘めている生活情緒的トーンに心から感銘を受けているのかしら、とわたしは疑った。やっぱり『剛郭機動隊』のほうがホントは好きなんじゃないのかな。わたしの心をつかむために無理をしているような気がする。

そう思うと、もう返信する気持ちが萎えてしまった。それで、「プロフィールにはああ書いたけれども、やはり年齢差が気になるので、申し訳ないけれど、やり取りを打ち切らせていただきます」と書いて、切ってしまった。

テッチャンさんからも来ていた。5日前の28日だ。



《お返事、ありがとうございます。

本名を岩倉 哲と申します。

大原流ですか。華道は詳しくありませんが、たしか水盤を使って低く活けたのをもとに、その上にすっと立ち姿をあしらったりするんですよね。間違っていたらごめんなさい。

全体のバランスを重んじているようで、他の流派ほど派手ではないけれど、それがかえって好きです。

ワレモコウさんというちょっと変わったニックネームも、そこから選ばれたのでしょうか。私は山歩きするときに、時折、群生しているのに出会うことがありますが、何本か取ってきて活けた方が、すっくとしている風情があっていいですね。

お人柄が偲ばれるような気がいたします。

またよろしくお願いいたします。》



やはり他の人とはちょっと違う。ヘンにお世辞を言ったり、蘊蓄を傾けたりせずに抑制しているところがいい。

この人だったら会ってみてもいいと思った。今夜、お返事を書くことにする。



午後になって、いつものように計算に追われていると、中田課長がわたしの傍らに近づいてきて、小声で言った。

「今日、よかったら、仕事が終わってから、一杯いかがですか」

やっぱりきたか。

予定があるから、と断ってもよかった。しかし必ずまた誘ってくるに違いない。二度、三度と断ると、パワハラを覚悟しなくてはならないかもしれない。ここは受けるのが無難だ。

わたしもできるだけ小さな声で答える。

「わかりました。周りがうるさいから、待ち合わせ場所を決めていただけますか」

「この間の喫茶店で待っててくれる? 僕のほうは6時くらいには行けると思うから」

会社に近いので、それもあまりいい方法とは思えなかったが、長話は無用。黙ってうなずいた。

中田さんがデスクに戻る後姿は、ステップが妙に軽く見えた。わたしはもともとちょっとかすれ声なので、小声がよけい秘密めいて聞こえたかもしれなかった。



窓際に席を取ってからしばらくして、中田さんがいそいそとやってきた。6時よりはだいぶ早い。急いで処理したのだろうと思うと、少しおかしくなった。

さいわい、同じ社の人はいないようだ。

「待たせてごめんなさい」

やはりいつもの仕事モードとは調子が違って、優しい声になっている。

「いえ。私もさっき来たばかりです。お先にいただいてます」

「カフェオレか。僕はブレンドにしよう。……すみません、コーヒー!」

ウェイトレスが来る前に、ぶっきらぼうに注文した。その大きな声が、わたしにかけたのとはずいぶん違っていた。この前は、この落差には気づかなかったけれど。

ウェイトレスは「かしこまりました」と無表情に受けた。

「キーピィ問題、何とか大事にならないでよかったね」

「ほんとにそうですね」

「ああいう処理の仕方には、不満が残るけどね。僕だったらああはしないな。まず隠蔽しないで、どういうふうに告知するかを考える。それから……」

この前わたしに褒められた余韻を引きずっているようだ。正論だと思ったけれど、その先はわたしのほうであまり聞く気がなかった。

いつの間にか、これから行く店の話に移っていた。

「何度か行ったことがある居酒屋というか、もともとそば屋なんだけどね。そばは……おそばは好き?」

あわてて「そば」に「お」をつけた。こういうところ、けっこう緊張している様子が感じられた。

「ええ、好きです」

「よかった。6時半に予約入れといたんですよ。静かなところだから、ゆっくり話ができると思うんだ」

ゆっくり話ができる。何を話すのか。中田さん、キーピィ話題はもう終わってますよ。
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