第32話 堤 佑介Ⅴの2

文字数 4,203文字


店内は早くも混み始めていた。やはり若い人たちが多い。早めに来ておいてよかったと思った。ちょっとキラキラした雰囲気で、正直なところ、あまり私の趣味ではない。

まだ8時にはだいぶ間がある。奥のテーブル席についてから、私一人、アルコールを飲み継いで粘ることにした。

この前、篠原が同業者として挙げていた社会学者・山名昌彦の『日本人の悩み』という本を買ったので、それを取り出してパラパラめくってみた。

大新聞の「人生相談」の回答者を何年か務めた経験から、家族や男女関係をめぐるいまの人たちの「悩み」が昔とどう変わってきたかを分析した本だ。

すると次のような面白いことが書いてあった。


《重要なのは、どうやら性的マイノリティであること自体への悩みは、少なくなってきているのではということです。かつては多かった、同性を好きな自分は変なのかとか、私が女装したいというのは異常でしょうかといった本人の悩みは、かなり減ってきました。》


また、後ろのほうを見ると、こんなくだりもあった。


《今後はモデルからこぼれる人のほうが多数派になると断言してもいいでしょう。ここで留意しなくてはならないのが、多数派ではあるものの、その「こぼれ方」が、非常に多様化しているという点です。》


なるほど、私のような年代の者にはよく納得できる話だ。若い頃には、好きになった異性と結婚して、お互い妥協を重ねながら家庭を築き、子どもの成長に夢を託していくという「モデル」がまだ生きていた。

だが山名さんは、そうしたモデルはもう解体しているという。同性愛や女装趣味でさえ、そのアブノーマルさに悩むというよりは、多様性の中の一つとして位置づけられ、本人たちもそんなにそのこと自体に悩んでいないのではないかというのだ。

そういえば、ネットで、次のような記事を読んだことがあった。

高校生相手に差別をなくすためのLGBT教育というのをやっても、聞いている子どもたちの反応はいまいちで、「あなたの友だちが、自分はゲイだと告白してきたら、あなたはどう感じますか」という質問を出しても、子どもたちは「別に」と答えるだけだというのである。

亜弥が来たら、同じ質問をしてみようと思った。

山名さんの本には、最近は性的マイノリティの人自身が悩みを訴えてくるより、むしろ親がそれを知って相談してくる例が多いとも書かれてあった。

旧世代としては、それは当然だろうな。

私だったら、と考えてみる。

一般の母親よりは寛容になれるかもしれない。けれど、やはり多少は悩み、受け入れるのに時間がかかるだろう。ほかの特異性を抱えた子と同じように、就職や恋愛や友人関係などで、その子の人生の幅を狭くしてしまうのではないかと危惧するからだ。

しかしたしかに昔に比べれば、ゲイ・コミュニティなども堂々と成立しているし、あからさまな差別も少なくなっているのはたしかだろうな。

とはいえ、本人がまったく悩まないということはないだろう。

ことに思春期のような多感な時期に、周りと自分とは違うと気づくと、それをことさら意識するというのは誰にもあることだ。性や身体にかかわることは特にそうだ。



男女関係の規範やモデルが壊れたいまの社会では、性的マイノリティという問題は、たぶん社会的差別の領域によりも、個別の自意識の領域に、より集中して現れるだろう。

その自意識も直接の対人関係と深くかかわっている。だから、自分の中にある対人意識の問題となって現れるのではないか。

つまり、いまの時代は、性的マイノリティであることで受ける被差別感よりも、親に告白するかしないかとか、異性の話題で花が咲く友人たちについていけないのをどうするかとかいったことのほうが、悩みの中心をなすのだろう。

ことに親に対しては抵抗が大きいだろうな。若者たちは、私の世代に比べてずいぶん優しくなっているから、親が嘆き悲しむのを見たくないという理由で、告白をためらってしまうのではないか。



本に目を落としながら二杯目のビールに口をつけたところで、テーブルの傍らに亜弥がぽつんと立っているのに気づいた。

「おや、割と早かったな」

「やだパパ、さっきからいるのに全然気づかないの」

クスクス笑っている。

「そうか。まあ座りなよ。仕事は片付いたのか」

「意外と早くね」

メニューに見入っている亜弥の顔を盗むように見る。またちょっときれいになったかな、母親にも似てきた、と思った。少しぽっちゃりしてきたかな。仕事やつれは見えない。

「わたし、これにする。プライムステーキの150g。パパは」

「じつは、さっき夕飯食ったんで、つまみ程度でいいよ」

「なんだ、そうなの。じゃ、これは。テイスティングセット4種盛り合わせ」

「ああ、それでいい」

亜弥は白ワインが好きなので、デカンタでとって二人で分けることにした。



「この間の住宅の仕事はまだ続いてるのか」

「うん。ちょっと手間取ってるわね。キャドの調子がいまいちでさ。わたしが入所するずっと前からの使ってるんだものね。所長に買い替えてくれませんかって文句言ったのよ。そしたら苦虫噛み潰して、もう少し待ってくれだとさ」

昔から誰に対してもはっきりものを言うたちである。小学校時代にも口の利き方をたしなめたことが何度かあった。でも言うことを聞かない強情っぱりだった。

「あんまりズバズバ言わない方がいいぞ」

「言い方くらい心得てるわよ。あの、僭越なんですけどぉ、そろそろ買い替えの時期が来てるかもしれないと思うんですぅってね」

後半、猫なで声になった。まあまあうまくやってるようだ。

「景気はどうかね」

「相変わらずね。よくないわ。給料安いし」

「だけど設計事務所は、いまどこも厳しいだろう」

「厳しい、厳しい。ゼネコンの下請け仕事受注しなかったら危ないかもね。だから所長の苦虫もわかるんだけどね」

「オーナーの要求は」

「うるさくなってるみたいね。最近災害情報が多いでしょう。ウチはデザインのほうだし、私自身まだ3年目だから上の言うこと、ハイハイって従ってるだけだけど、構造屋さんのほうはたいへんみたいよ」

「こっちも客がそのへんに対して相当突っ込んでくるよ。こないだもな、新築物件で……」

注文品が来た。店内は笑声や嬌声でにぎわっている。少々会話が聞き取りにくい。



「ところで、なんかあったの? パパからってたぶん初めてだよね」

さっそくステーキで口をもぐもぐさせながら、亜弥が大して関心もなさそうに訊いた。

「いや別に。何となくきみに会いたくなっただけさ」

「でも、なんかありそう」

探るような目線をこちらに送ってくる。

私は苦笑しながら答えた。

「亜弥のことで、とかいうんじゃないよ。強いて言えばパパ自身の心の風景の問題かな」

「ママとも関係ないの」

「ああ、それは関係ない。でもママは元気か」

「うん。最近予備校生教えるのも疲れてきたなんて愚痴こぼすようになったけどね」

「この前亜弥と会った時、小論文問題の作成に主力を注ぐようになったとか言ってなかったっけ」

「まだ両方やってるのよ。受験生の国語力が最近とみに落ちてきたってさ。全然本なんか読まないんだって。IT社会だとどうしてもそうなるよって慰めてるんだけどね。わたしだって必要以上は読まなかったから」

「それはパパが塾やってるときからそうだったなあ。ふん、ママもたいへんだな」

一応同情を示しながら、どんな生活を送っているかには深入りしないようにする。

養育費の振り込みとその受領の知らせ以外、いっさいやり取りをして来なかった。だから、私が家族を捨てた後、失敗したことを知っているのかどうかも知らないはずだ。

知ったらざまあみろと思うかもしれない。あるいはきれいさっぱり気にもしないかもしれない。

12年連れ添っても、もうそれ以上離れたきりなので、そのあたりの依子の心模様はなかなかうかがい知れないものがある。しかし亜弥には、その後の私の生活については概略話してある。

「パパとこうして時々会っていることは知ってるのかい」

「うーん。わたしも面倒なこと嫌いだから黙ってきたんで、気づいてないと思うよ。何かあったら言っちゃうかもしれないけどね。」

亜弥が依子のことを話し続ければ応じるつもりだが、私のほうからはあまり話題にしたくない。亜弥も心得ているようで、それ以上言葉を継ごうとはしなかった。



ふいに亜弥が言った。なんだかうれしそうな表情を浮かべている。

「あ、わかった。年取ってきて寂しくなってきたんでしょう」

言い当てられた。言い当てられてむしろいい気持だった。

「ハハ、まあ、そんなところかな」

「つきあってる人とかいないの」

ずけずけ聞いてくるこの調子に、ときには閉口することもあるが、私が依子や亜弥に対してした仕打ちをまるでなかったことのようにして、いまのこと、これからのことだけを突っ込んでくるこの明るさに、感謝しなくてはならないと思った。

私は、そんな気持ちを胸に畳みながら、とにかく率直に答えを返すしかなかった。

「それがいないんだよ」

「わたしとつきあったってしょうがないじゃん」

「そりゃそうだ。でもパパは、亜弥がそうやっておいしそうに食べてるのを見るのがすごく嬉しいんだよ」

「いつもの決めゼリね」

そう言って亜弥は、次の一切れにパクついた。

大学を卒業して就職するまでは養育費を払うというのが約束だった。支払いからもう3年間解放されているので、経済的にも心理的にも楽になった。

亜弥のほうからすれば、父親離れをしてもおかしくないはずだが、こちらから声をかけたら躊躇なく応じてきたところを見ると、私に対してまんざらでもない気持ちを残しているらしい。一種のファザコンとも言えたが、そんなことを気にしているふうもない。

「亜弥はいま彼氏とかいないのか」

「ヒー・ミー・ツ」

いきなり聞かれて慌てる様子はなく、フォークを口に運びながら答えた。

表情からして、いるようないないような印象だった。というよりも、プライドが高いから、いない場合でも「いない」とは答えないだろう。

「まあいい。適当にやれ」

「言われなくたって適当にやるよーん」

こちらもそれ以上突っ込まない。仮にいたとしても、この年齢ではいつまで続くかわからない。「彼氏」の段階で紹介しろなどと迫る趣味は私にはない。結婚するとでも言いだしたら話は別だが。

東京の女性の平均初婚年齢30.5歳。まだだいぶ間がある。話題を変えよう。

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