第26話 堤 佑介Ⅳの4

文字数 3,594文字


「うん。たぶんそうだろうな。そりゃあ、もう俺のところなんかたいへんだよ。女子学生が研究室に質問に来るだろ。ドアは絶対開けとかなきゃいけないんだ。通路でも建物の外でも、特定の女子学生と親密にしているように見えちゃいけないな、っていつの間にか絶えず気にしてる。俺みたいなモテないに決まってる男でもな」

「篠原教授は、可愛い女子学生がいたらムラムラとか来ないのか」

「そりゃ、来るよ。堤だってそれは同じだろ。若い女子社員にはムラムラ来るだろ。おまけに堤は独身じゃないか」

酔いが回って話がだんだん下世話になってきた。

私はふと川越嬢のつぶらな瞳とはつらつとした身体を思い浮かべた。たしかにムラムラ来ないわけではない。しかし所長としてはそんなスケベ心をおくびにも出すわけにはいかない。オヤジと思われたくないというプライドもある。

それから高校生みたいな本田の丸顔が思い浮かんだ。彼が川越に言い寄るところはとても想像できない。

私は言った。

「まあな。いま世代って言ったけど、いまの若い連中は、恋愛するのをひどくめんどくさがってるみたいだな。実際、恋愛は真剣にやればやるほどめんどくさいからな。みんな三次元から逃げて、二次元で済ませてる。こないだ『電子マン』って10年以上前に出た本を読んだけど、時代を映してておもしろかったよ」

「ああ、あれはおれも読んだ。詳しいことは忘れちゃったけど、若者がアニメオタクになだれ込む状況を自己批評的に書いていたな。しかしどうなるのかな、日本の男と女は」

「そこを分析するのが、篠原教授、あなたのお役目でしょう」

答えを期待していなかったが、篠原は、急に饒舌になった。

「うーん、正直、俺にもよく読めない。ただ、これまでこうだったと言えるだけさ。同業の山名昌彦が見事に分析しているけど、大ざっぱに言って、七十年代までは男女は恋愛したらその相手と結婚するものだっていう規範があった。八十年代になると、それが崩れて、恋愛の自由競争市場が成立した。出会いの機会は昔よりも増えたんだけど、そうなるとモテるやつ、モテないやつの格差がかえってはっきりしてきた。九十年代になると、バブルがはじけて、そこに経済格差が加わった。それまではパラサイトシングルはそれなりにリッチな独身生活を楽しんでいたのが、今度は、パラサイトしなくちゃ経済的に持たなくなってきた。そこへもってきて今世紀に入ってデフレが続いて非正規社員の増大だ。少数のモテるやつはますますモテ、大多数の貧困男性はますますモテなくなった。恋愛プロレタリアートの出現だ。さっきの『電子マン』は、そういう時代の産物なんだ。恋愛プロ、レ、タリアート、わかりますか」

プロレタリアートというところで、篠原の舌はいささかもつれた。「よくわかるよ」と私は笑って答えた。

「それに加えて、男女共同参画社会とやらで、女が経済力をつけて大きな顔をするようになった。恋愛市場は女の独壇場だ。しかも女は理想の男性像を捨てない。そうなると、ますますミスマッチが拡大する。男はなかなか女に触れることがかなわない。半ばあきらめの心境だ。ある調査によれば、恋人はおろか、異性の友人すらいない若者の割合がここ二十年で増大してるんだ。俺の知人でさ、有力企業に勤めてる三十代半ばの男がいるんだけど、彼も言ってたよ。職場では『女は腫物』だってね」

声が大きくなった。隣の客がちらりとこっちを見た。アキちゃんにもマスターにも聞こえたらしく、二人ともまたにやっとした。

「女は腫物か。名言だな。名言が出たところでもう一杯行くか」

「よかろう」

篠原の目はすでに半ば座っているが、まだ聞きたいことがある。こういう気取らない話を学者から聞くのは飲み屋でしかできない。



「アキちゃん、出羽菊ある?」

「はい、ございます」

篠原はメニューをしばらくにらんでから、

「俺はと。千代鶴にしよう。ええっと、千代鶴、ありますか」

「はい、ございます」

「なんでもあるね。いいね。それと、おしんこ」

発音が悪いので、おしっこと聞こえた。

「おしっこはあちら」

と私はトイレの方向を指さした。

「おしっこじゃなくて、お・し・ん・こ」

アキちゃんが笑いながら、「ハイ、わかりました」と言った。

客はそろそろ入れ替わりつつある。いまごろ山下たちはまだ頑張ってるのかな、とふと思ったが、いまさらどうしようもない。

「その、男どもが感じてる不自由感というか、窮屈さというか、自分から引いてしまう感じ、これはさ、いま篠原が分析してくれた恋愛事情だけじゃなくて、そこに政治的な正義、つまり人権とか平等とかを無条件に押し立てる風潮が絡んでやしないか」

「ポリコレってやつだな。あれは一種の言論統制だな。それはたしかにある」

私は、ポリコレがはびこる仕組みについて、篠原に解説してもらいたいと思った。

「『人権』とか『平等』とか、政治の表舞台じゃ、なんであんなに騒がれるのかね」

「だれにとっても生きにくさを感じさせる社会があるなら、その生きにくさを取り除くのが政治の役割だ。だけど、『人権』とか『平等』とかはそのためのツールに過ぎない。ところが、その単なるツールが硬直した原理主義になってしまうと、それが押し通されるために必ず別の生きにくさが生じる。少数者とか弱者とかカテゴライズされてきた人たちが特権者に転化するんだ」

ふむふむ、と私は自分が考えていたことを代弁してくれているような気持でうなずいた。

「この問題の厄介さがどこにあるかっていうと、誰も異議を唱えられないような『正義』を振りかざされると、それに違和感を感じたとしても、対抗論理をうまく対置できないところにある。フツーの人の感覚が黙らされてしまう。ただ、なんか変だなって感覚だけは残る。でもうまい言葉がみつからない。何か言えば『サベツ、サベツ』だ。逆に日本の学者はたいていリベラルだから、その社会的発言力に物を言わせて、そういう人権主義や平等原理主義のお先棒担ぎをやってるわけだ。評論家の唐理英が昔、そういうのを人権真理教って呼んでたな」

人権真理教か。私はおもわず吹き出した。



篠原は、大学では保守派教授として通っているらしい。社会学者のなかでは珍しいそうだ。「俺の周りはサヨクばっかりだよ」といつもぼやいている。少々被害妄想的な感じもするが、いまのセリフには、持論が飾り気なく出ているとも言えた。

「俺が感じてたこととだいたい同じだな。だけど、女性は少数者でも弱者でもないんじゃないか」

「ふむ。少数者じゃないかもしれんが、社会的法的な意味では、かつては弱者だったことは確かだろう。参政権もなかったんだから。いまだって、同じ能力でも給料が低い」

ここでは篠原は、学者としての「公正」な見方に一瞬立ち戻った。私はそれに抵抗する。

「いや、俺は最近の空気の話をしてるんだ。俺のオフィスの部下が、酒の席だけど、ちょっとしたジョークを飛ばしたら、女性社員が、まあこれもジョークの範囲内だけど、その発言は限りなくセクハラに近いって言うんだ。俺の感覚ではとてもセクハラとは思えない」

「その種のことはしょっちゅうあるな。一人一人の女はそんなことないんだけど、なんか、一種のファッションみたいなもんだ」

「ファッションというファッショ」

「そう! 女ってのはけっこう空気を読むのがうまいだろ。これは使えるってどっかで感づいてて、機会あるごとに『ワタシは人格を持った一人前の女よ! お安く見ないでちょうだい』ってアピールしてるんじゃないかね」

「でもさ、そのアピールが強すぎるから、かえって男が委縮しちゃうんじゃないか。そうなると逆効果じゃないか」

「それはそうだ、それはそうだ」と篠原はうなずきながら、キュウリを口に含み、音を立てて噛んだ。

「そこが問題だ。さっきのテーマに帰るわけだ。人権真理教や平等原理主義やポリコレがはびこると、晩婚化がますます進む、と。これは今度の論文のテーマにしてもいい」

「ほんとにやる気か。サヨク・リベラルに叩かれる覚悟はあるのか」

「今どきサヨクなんぞを恐れていて、何ができる」

篠原が大見えを切ったのに煽られたのか、こっちもだいぶ酔いが回ってきた。

「その頼もしさを買って、ついでにもう一つ、セクハラ、セクハラって騒ぎ立てる女は、美人よりもブスが多いんじゃないかと俺は疑ってる。そこらあたりを統計学的に証明してもらえないか」

「それは、ハハハ……俺も成り立ちそうな気がするけど、証明は難しいよ」

篠原は酔っている割には、意外にも冷静さを示して言った。

「だろうな。だけど、自分の容姿に自信がある女は、何言われたってうまくかわすんじゃないか。反対にコンプレックス持ってる女ほど、過剰に被害感覚もってアピールしたがる。こういう論理は成り立つと思う」

「ハハ……それはお前がやれよ。エビデンスがないと学者の世界では通らない」
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