第108話 堤 佑介ⅩⅣの7
文字数 2,487文字
話はやっと一段落した。一生懸命書き取っていたれいちゃんが言った。
「ほんとに暗い話になっちゃったわね。雨あがったみたいだから気分変えて散歩行かない?」
「ほんとだ、ほんとだ、そうしよう。浅草草は久しぶりだ。浅草寺にお参りしよう」
そう言ってから、この浅草に、ウチの営業所があることを思い出した。ひょっとして散歩してるうちに役に立つ情報が手に入るかもしれない。今までなんで気づかなかったんだろう。やっぱり恋に夢中だったんだな。
ダウンをはおりながら、その話を始めた。
「そういえばさ、れいちゃん。前にウチの仕事で、『下町コンセプト』っていうのをやってるって話したの憶えてる?」
れいちゃんはもう靴を履いていた。
「ええっと、ああ、思い出した。うん。空き部屋の多いアパートなんかで売りに出てるのを買い取って、独り暮らしの高齢者向けに貸すっていうんでしょう」
「そうそう。じつはウチの営業所がこの浅草にもあるんだよ。それで、ここなんか、下町コンセプトにぴったりだと思うんだけどね」
エレベーターに乗った。話を中断して、またチューしてしまった。この密室空間は、なぜかそういう気にさせる。
寒さは昨日よりは和らいでいた。
手をつないで雷門のほうに向かった。れいちゃんの手はけっこう冷たい。手の冷たい人は心が温かい、なんて話を子どものころ聞いた覚えがある。怪しい話だけど、私は信じることにした。
「それでね、ここの営業所は僕んところより大きいし、適地を探すのも割合簡単じゃないかと思うんだ。どれくらいプロジェクトが進んでるのかなあって思ったわけ」
「どのへんなの?」
「雷門通に面してて、雷門1丁目の信号の近く」
「あら、それだったら寄っていけば。必要な情報とか得られるかもよ。わたし表で待ってるから」
話しているうちに、もうその分岐点にさしかかっていた。でも、もともとそんな気はなかった。せっかくの楽しい休日、しかももうすぐ別れが迫っているのに、貴重な時間を、仕事でつぶしたくない。第一、今日は向こうも休みだろう。
「ああ、ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、散歩しながら街の雰囲気さえつかんでおけばいいの。あとで何か役立つかもしれないって思っただけ。向こうも休みだし」
「あ、そうだったわね。じゃ、ずっと一緒に歩きましょ」
れいちゃんは握っている手に力を込めた。
平日の昼なので、そんなに混んではいなかった。それにしても、外国人観光客の多いのに驚いた。中国語、韓国語、英語などが、入り混じって聞こえてくる。篠原が大分出張から帰ってきた時にしてくれた話を思い出した。
雰囲気豊かな街並みの中を歩きながら、ひょっとしてそのうち、最も東京の下町らしいここも、彼らに占領されてしまうのかもしれないという悪夢のような思いがよぎった。政府が内需拡大をせずに観光なんかに入れあげたら、ギリシャみたいになってしまって日本は終わりだ――そう篠原が言ってたっけ。
「それにしても外国人が多いわね。さっきのゆうくんの話じゃないけど、これが観光客だからまだいいけど、住みついちゃうと困るわね」
私が考えていることと同じことをれいちゃんが言った。
「そうだね。だんだん雰囲気壊されちゃうかもね。この辺のコンビニ店員て、どう? やっぱり外国人労働者が多い?」
「多いわよ。道聞いたって全然わからないって誰かが言ってた。わたしはよく知ってるからいいけどね。」
すると、下町コンセプトといっても、日本の高齢者に住みやすい環境や便宜を提供するのは難しくなっていくかもしれない。
雷門をくぐってまっすぐ仲見世通りをとおり、浅草寺にたどり着いた。ふたりはお賽銭を投げてから、長い間手を合わせていた。
帰り道、お箸の専門店に入って、赤と黒のきれいなお箸を買った。お箸――まだすぐ一緒に暮らすわけにはいかないのだから、これからは、家で食事する時、お互いに相手のことを思いながら食べることにしようねと約束した。
「ねえ。さっき、なんてお祈りしたの」
「たぶん、れいちゃんと同じ」
「そうね。きっと同じね」
れいちゃんは確信を抱いたようで、輝くような笑顔を見せた。
もちろん私は、彼女といつまでも仲良くいられますようにと祈ったのだが、じつはもう一つ、日本の将来が悲惨なことになりませんように、とも祈ったのだ。
もう2時近くになっていた。川に面した麦とろのお店があるというので、そこでお昼を食べて別れることにした。
「ね。ビール飲まない?」
ゆったりしたくなって、思わず言った。
れいちゃんはちょっと目を丸くしたが、「いいわ」と言った。
名残惜しいので、ビールをゆっくり飲み、運ばれてきた食事をできるだけのろのろと食べた。
「吾妻橋、先まではっきり見えないわね」
「ほんとだね」
私がこれかられいちゃんのもとに渡っていく《吾妻橋》。
たしかにはっきり見えないかもしれない。でも、それでいいんだと思った。ぼんやりしているのも、また夢膨らむ話だ。
曇り空の下で、川の水もとろんとして元気がなさそうに見えた。日本のこれからみたいだと思ったが、そんな不吉なことを考えるべきではないと、すぐ打ち消した。私たちはいま、幸せなんだ。
店を出てから、すぐには別れないで、あちこち歩き回った。そのうちに、雲は薄らいできたが、早くも暗くなり始めた。冬至も近いのだ。浅草駅の改札で別れることにした。
れいちゃんが私のことをじっと見た。熱いまなざしだった。涙がにじんでいた。それから言った。
「わたしもこのまま乗ってゆうくんとこまで行きたい」
「ハハ……そんなこと言ったって……またすぐ会えるじゃないか」
「二週間以上会えないわ」
恨めしいような調子だった。慰めなくてはならなかった。
「……28日には待ってるからね。ポトフの材料、教えてね」
「うん。メールちょうだいね」
「うん。れいちゃんもね」
思わず恋しさが募って、人目もかまわず抱き合ってキスしてしまった。
改札をくぐった。向こうとこっちで、ずっと手を振っていた。
私は人にぶつかるのもかまわず、後ろ向きにだんだん改札から離れていった。れいちゃんはその場から動こうとしなかった。