第71話 堤 佑介Ⅹの3
文字数 3,973文字
一夜明けた。
さいわい今日も休日だ。昨日の楽しかった余韻が心の底のほうでずっと後を引いていた。しかし、そうそう乙女チックな気分に浸っているわけにもいかない。昨日、手に取って読みかけた『国富と戦争』に、初めから挑戦してみようと決めた。
だが、1時間ほど読んだものの、苦手な経済の本である。どうも気が散ってしまう。目は文字面を追いかけていながら、いつの間にか心は、昨日の玲子さんの可愛いイメージを思い浮かべてしまったりしていた。
これではいけないと思い、ぐっと抑えて、何とか読み進んでいった。すると、ここで説かれていることが大学で習った経済学とはまったく違うということが漠然とわかってきた。
もともとあまり関心を持って聴講していたわけではないが、あのころ大学で鳴り物入りで教えられていた経済学は、誰もが利益最大化という目標に向かって合理的にふるまう経済人であるという仮定の上に成り立っていたように思う。だから世界規模の自由市場の維持を至高のものと考える思想的立場だった。
著者の中山さんは、この仮定を認めていない。人間の経済行動の不確実性をまず前提にしている。その上で、戦争や制度や地勢などが、経済動向に大きな影響を与えると説いていた。しかも戦争のような世界史的な大事件は、平和になってからも、その「型」のようなものが残り続けるという。
これは、あのころアカデミズムから放逐されたケインズの考えを復活・継承するもののように思われた。
たしかケインズもそうだったと思うが、中山さんは、モノやカネの動きにかかわる人間の経済合理的な行動だけに限定する「経済学」という学問の限界を見極め、それ以外の人間行動の要因を幅広く視野に入れようとしている。
大著なので、なかなか読み切れそうもないが、印象としては、こういうとらえ方のほうが大学で今も教えられている「経済学」なんかより、はるかに現実をとらえるのに適している感じがした。
午後遅くまで頑張って300ページくらいまでこぎつけた。
19世紀後半に、自由貿易主義を採っていたイギリスが不況にあえぎ、保護主義を採っていた大陸ヨーロッパのほうが、自国の経済を繁栄させ、かえって貿易を拡大させたと書いてあった。これも新鮮な指摘だ。
しかしここらが限界だった。
あきらめてネットサーフィンに切り替えたら、いつの間にか、「フェルメール展」のサイトに行っていた。今回は、これまでで最大点数で、10点、途中で1点入れ替えるという。それ以外にも、17世紀オランダの画家たちの宗教画や風景画や静物画が集められている。
フェルメールの作品は32点しか残っていなくて、ほとんどが上流家庭の室内を描いている。以前、7年くらい前だろうか、フェルメールを中心とした展覧会が渋谷で開かれ、ひとりで行ったことがある。その時、「地理学者」という絵にとても感動した。
窓からの差し込む光と、机の手前に寄せられた絨毯の襞、地図や本や地球儀などに囲まれて青いガウンを着た壮年の学者が、右手にコンパスを持ち、左手で机の角をしっかり押さえている。
何よりも私はこの学者の姿勢と表情に、知へのあくなき情熱を見出して、できれば自分もこんなふうにありたいと思ったものだ。空しい願いではあったが。
「地理学者」は、今回は残念ながら来ていない。でも今度は、二人で「牛乳を注ぐ女」や「赤い帽子の女」などが見られるのだ。その時のことを考えただけで楽しくなる。
終わった後、時間が取れるだろうか。8時半に美術館を出るとして、彼女の都合を聞いて、もしOKなら、1時間くらいは大丈夫だろう。
あまり強いてはいけない。近くで一緒に軽く一杯やりながら感想を話し合う――そんな埒もないことを空想して、心が早くも浮き立ってきた。
それはそうと、と、われに返った。そろそろ夕飯の時間だ。冷蔵庫を開けてみた。
ホッケの干物と豆腐で済ませることにした。豆腐にはネギのみじん切りとショウガのすりおろし、それに上等の鰹節をたっぷりかける。飯は冷凍しておいたのをチン。
日本酒の買い置きがあるので、それを、飯を食べ終わった後に冷で一杯。
そういえば。明日は、本部からの出向社員を初めて迎える日だ。先日、事前に本人から連絡があった。前園と名乗った。若い元気な声で、はきはきと予定日の調整について相談してきた。これならうまく運ぶかもしれない。
まずは岡田と一緒に蒲田に行ってもらうよう手はずを整えておいた。
街を歩いて雰囲気を感じ取り、事情をよく知る現地の不動産屋を訪ねて現況をつかむ。蒲田地区での空き家状況や世帯構成を正確に把握するために、区役所での調査も必要になるだろう。役人がうまく話に応じてくれるかどうか。
なかなか実を上げにくいプロジェクトだ。二つ返事で引き受けてくれた岡田に、頭が下がる思いだった。
しかし、あまり取り越し苦労はしないようにしよう。前園君と岡田の報告を聞いてから、新たにチーム編成を考えてもいいかもしれない。
また感傷的な気分に浸りたくなった。パールマンのクライスラー名曲集をかけ、ベッドに寝っ転がって、目を瞑った。
「愛の喜び」にさしかかったところで、心が躍り、玲子さんとの昨日の楽しい会話がほうふつとしてきた。弾むようなハーモニーが、そのまま彼女と私の共感の時を表現してくれているように思った。
ところが「愛の悲しみ」に続くと、その単音に終始する沈んだメロディのシンプルな流れが、ひとりになった時のはかない気分を掻き立てる。
いまの自分の恋も、やがてこのようにはかなく終わるのかもしれない、いままでそうだったように。そう思うと、いつの間にか、反省的で思索的になっている自分を見出した。
これまで何度もこういう感覚に襲われてきた。
私のなかでは、三つの異なる時間がせめぎ合っていた。
ひとつは、自分のとりあえずの身の上と直接関係のない「観念世界」、たとえば日本の危機について読んだり考えたり話題にしたりしている時。
二つ目は、日々の生活や仕事上の問題に意識を集中させて余裕をなくしている時。
そして、ちょうどさっき玲子さんへの思いに耽ったり美にあこがれたりしていたように、ロマンティックな空想のなかに自分を自由に遊ばせている時。
この三つの時は、まるで三人の役者のように心の舞台にかわるがわる登場するのだ。
私の意識は、いつもこの三人の役者を相手にして流れている。若い頃からそうだった。そして、どの役者と一番親しくなったらよいのか、わからない。
前に、この感じを、観念と実存との矛盾の意識ととらえたけれど、実際は、もっと複雑で、そこに、現実に裏付けられた空想が侵入してくるのだ。
思えば、誰でもそんなふうに生きているのではないか。日常的現実と非日常的な空想とか、観念世界と実存とかいったように、二元論で考えただけでは、生にかかわる意識の全体をとらえそこなってしまうような気がする。
観念は日常的現実を通して現れるし、空想の中でリアルな感覚が生き生きと躍動したりする。また日常的現実にしても、いつも過去や未来のように、いまここにない世界と不可分にかかわっているので、容易に追憶や郷愁や夢や空想に結びついていく。
私は、この意識の多面性に翻弄されている。
いま玲子さんに恋をしている。できればそこに全神経を集中させたいと思っている。でも青春時代と違って、これまでの人生経験で否応なく培ってしまったけち臭い「知恵」や、日々の生活への配慮、残された命数への見通しなど、さまざまな夾雑物が、それを邪魔する。
それでも、愛しく思える人と出会えたという幸運を壊さないように、できるかぎりこの運命の女神の導きに忠実につきしたがって行こうと思った。
《11/15 20:23
半澤玲子様
昨日は楽しい一日を、ほんとにありがとうございました。
めったにないことに出会えたのだ、と本気で思っています。つい浮かれてしまって、ややこしい話を一方的にしてしまいました。でも、熱心に聞いていただいたので、私としてはとてもうれしかったです。
今日は、朝から、昨日紹介した中山武志の大著に挑戦したのですが、半澤さんのことが気にかかり、午後遅くまでかかって、半分ほどでダウンしてしまいました(笑)。
それから後は、フェルメールについて調べて、お約束した日のことをあれこれ想像していました。実は7年前にも一度、フェルメールとフランドル絵画展というのがあって、その時、『地理学者』という絵に深く感動した覚えがあります。今度は『地理学者』は来ていないようですが、その代わり、『手紙を書く婦人と召使い』がありますね!
何はともあれ、20日が待ち遠しいです。
今日は、お疲れではなかったですか。
どうぞ今夜は、ゆっくりお休みください。》
《11/15 20:51
堤 佑介さま
いまちょうどメールしようと思っていたところです。
こちらこそ、楽しくてためになるお話、ありがとうございました。
政治の話はむずかしかったですけど、さっき、一生懸命思い出して、メモを取っておきました。この次、また機会がありましたら、教えてください。
それと、是吉監督についてのお話がとても印象的でした。検索してみたら、もともとドキュメンタリーを撮っていたんですね。あの緻密なリアリティは、そこからきているのかもしれないと思いました。
「地理学者」の本物は、わたしは見損なってしまいましたが、堤さんがあれに感動されたというの、とてもわかるような気がします。いい絵ですね。
わたしも20日を、首を長くして待ちます。何よりも、お会いできるのがうれしい!
今日は、長年の上司が転勤になったので、新しい課長が赴任しました。鋭い目つきをしていて、怖そうです。慣れるまでは緊張の日が続くかもしれません。
それでは、堤さんも、ごゆっくりお休みくださいませ。♡》