第91話 堤 佑介ⅩⅢの1
文字数 3,647文字
2018年12月2日(日)
28日に、玲子さんにメールを送った。30日に会えないか、と。
返事はOKだった。
玲子さんは、その返事の中で、実家の隣の、可愛がってくれたおじさんが亡くなったと書いていた。
「私たちの間には、『諸行無常』は、なしですよ」という言葉が、胸に切なく響いた。
その30日に、西山ハウスに越してきたばかりの老夫婦から、さっそく苦情が来た。受けた本田が、しばらく話していたが、折り返しこちらから連絡すると言って、いったん電話を切った。どうにもらちが明かないと私に相談に来たのである。
中身を聞くと、笑ってはいけないが、何といったらいいか、やっぱり人が聞いたら笑ってしまうような話だった。本田も困ったような顔をしながら、口元が笑っていた。
要するに、ゲイカップルが、夜中に派手な音を立てるので、安眠できないというのだ。派手な音というのが何を意味するのか、だいたい想像がつく。声ではなく、音。もちろん、声も混じっているだろう。
やっぱりゲイカップルって、激しい人たちがいるんだな。あそこの壁は薄いし。
この日は、岡田も中村も谷内も出払っていたし、この種のトラブルを女性に任せるわけにもいかない。たまたま時間があったので、仕方なく、私が現場に出向くことにした。
老夫婦の鹿野さんにしてみると、隣にどんな人が住んでいるのか知らないわけだから、深夜のドタバタは、さだめし不気味に思えることだろう。ヤクザでも住んでると思って、恐怖に駆られているに違いない。すぐうかがいますと電話を入れて、現場に向かった。
「もう、困りますよ。なんか、毎日喧嘩でもしてるんですか。年寄なんで眠りが浅くてね、不眠症になっちゃいます。いったいどんな人が住んでるんですか」と、これは旦那の鹿野さん。
「せっかくいい街に越してきたと思ったのに、これじゃ、怖くて怖くて、居ても立っても居られません」と、奥さん。
間借り人どうしのトラブルや大家と間借り人との交渉に、当事者同士が直接渡り合わなくなってから、もうずいぶん長い時が経つ。
これはこれで、みんなが求めたことだ。成熟した社会の知恵というべきで、とてもいいことだと思う。しかしその代わり、地域社会は崩壊して、みんな「隣は何をする人ぞ」になってしまった。
私は、真相を明かさない方がいいと思った。年寄りだから、余計気持ち悪がる可能性が高い。第一、真相を知ったからと言って、問題が解決するわけではない。
そこで、隣は兄弟で、二人とも酒飲みなので、夜中に調子に乗ってはしゃいでいるだけで、騒音以外の害はないと思いますと、一応の説明はした。
しかしそれで「不眠症」や「恐怖症」が治るはずもない。オーナーさんと相談して、笹森さんか鹿野さんか、どちらかに他の空き部屋に移ってもらうよう、調整してみましょう、と提案した。
この場合、どちらに移ってもらうか。答えは自明だった。
笹森カップルに移ってもらうには、なぜそうするのか、隣室に迷惑をかけていることを、具体的に説明しなくてはならない。そのことで新たなトラブルを引き起こしかねない。仮に承諾したところで、移った先でまた同じ苦情が出るかもしれない。
しかし、鹿野さんに移ってもらえば、それだけで済んでしまう。まだお互いに顔見知りでもないだろうから、笹森カップルのほうが不審に思うこともないだろう。何かあったら、部屋が気に入らないので、引っ越したとでも理屈をつけておけばよい。
というわけで、一応納得してもらって、午後は、西山さんに連絡を取った。オフィスからの電話では、所員の耳もあるし、ことは簡単ではないので、彼の家に直接赴くことにした。
柏台はけやきが丘から二つ東京寄り。しかし不動産価格はけやきが丘よりだいぶ落ちる。
築30年以上経っているという西山さんの自宅は、外観だけでなく、内部も、かなり痛んでいた。ついそういうところに目がいってしまうのが、この職業の性だ。
奥さんがお茶と干菓子を出してくれた。意外と(といっては失礼だが)上品な感じだ。若い頃はけっこう美人だったろう。話の内容が気になるらしく、引っ込まないでそばに寄り添っていた。
「電話でも申し上げたと思うんですが、鹿野さんからの苦情は、もっともだと思うんです」
「笹森さんとこは、なんで夜中にそんなどたばたしはるねん」
「それが……ちょっと申し上げにくいことなんですが、ゲイカップルの中には、夜の営みが激しい人がときおりいるらしいんですね」
「友人いうふれこみやったけど、ありゃゲイカップルやったんか」
しまった、それは西山さんには隠してあったんだ、と思ったが、彼はたいして動揺するふうも非難するふうも見せなかった。
やがて西山さんは、にやにやしながら言った。
「さよか。がんばっとりますな。あの手合いはそういうとこあるって話、わても聞いたことあります。おなごの声やったらまだ我慢できるんやろけどな」
奥さんが、「あんた!」と言って西山さんの腕をぴしゃりと叩いた。西山さんはからからと笑った。
「それで、このままだと、最悪、どちらかに立ち退いてもらわなくちゃならなくなるかもしれないと思いまして、私どものほうで考えたんですが……」
西山さんは最後まで言わせなかった。
「鹿野さんに2階の空室に移ってもろたらよろしいがな」
「ああ、私どもも同じことを考えてました」
「せっかく入ってもらったばかりやさかい、どっちにしたってすぐ立ち退きやいうたら、評判落としますねん」
「おっしゃる通りですね。それは私どものほうで説得にあたりますが、ただ、問題が二つばかりあって、ひとつは、鹿野さんはお年寄りで、2階を喜ばないんじゃないかという点、ご夫婦どちらかに持病でもあると難しくなりますね」
「うーん。ふつうに歩けるんでっしゃろ」
「じつは私、担当していませんでしたから、今日初めてお会いしたんですが、部屋の中で見た限りではそのようですね」
「ま、2階程度なら我慢してもらうんやねえ。よろしゅう頼んますわ」
「わかりました。それから、もう一つは、鹿野さんの部屋が空いたとして、そこに新しい人が入居を希望して来たら、またトラブルにならないとも限りませんね」
「うーん。そりゃそやね。ま、しかしいま6室埋まっとるんやから、当面は空室でもかまへん。そう急ぐこともないやろ」
「そうですか。それじゃ、追加の募集はしばらく……」
「見合わせときましょ」
西山さんはなかなか決断が早い。思ったよりずっと早く話がついたので、引き返してもう一度鹿野さん宅を訪問した。
大家さんが、せっかくだから住み続けてもらいたいと思っていること、二階は少し家賃が高くなるが、見晴らしもいいし、落ち着けるだろうこと、引っ越し費用は、トラックもいらないし、出入りの業者に頼めば格安で済ませられること、斡旋した責任もあるので、半額はこちらでもつこと、一両日中にでも可能なことなどを懇切丁寧に説いた。
鹿野さんは、階段の上り下りの苦労を理由にはじめ渋っていたが、よそへ引っ越す手間と費用とかったるさ、いまの苦痛から解放されることなどを考えたら、背に腹は代えられないということで納得した。奥さんのほうが聞きわけがよかった。
こういうことは早いに越したことはない。オフィスに戻って西山さんと業者と、両方に連絡を取った。両方とも、翌日でもOKということだった。大した荷物があるわけでもないし、段ボールも残っている。まだ梱包を解いていないものもある。見積もりは当日でもできるだろう。
退社時刻近くなって岡田が帰ってきた。いきさつを簡単に話すと、
「それはたいへんでしたね。私が当たれるとよかったんですけど」とねぎらってくれたが、やはり理由を聞いてにやにや笑いをやめなかった。
「いや、この程度の厄介ごとはどうってことはないよ。これからもいろいろあるだろうね」
「中国人一家も含めて、おそらくこれだけでは終わらないでしょうね。……所長。ゲン直しに一杯行きませんか」
「ありがとう。それが、残念だけど、今日はちょっと予定があるんだ。申し訳ない」
これを聞いて、岡田は、さっきとは違ったにやにや笑いを浮かべた。
「所長。八木ちゃんとも話してたんですけど、最近、なんかお安くないんじゃないすか」
やはり悟られてしまっていたか。
私は「いやいや、そんなんじゃないよ」と言ってごまかしたが、たぶんごまかせないだろう。だって独り者の酒好きが、長年のよきコンビである部下から、一日の仕事のあとで誘われたのだ。それを断るのは、そういうことでもなければ、いかにも理由が薄弱だ。
時計を見ると6時を少し回っていた。
「それじゃ、悪いけど、あと、頼む」
「任せておくんなせえ。グッドラック」
岡田は軽くウィンクした。
駅に向かって歩きながら、あまり夢中になって統率がおろそかになってもいけないな、と考えた。ロシア農民運動のボス、ステンカ・ラージンの伝承を思い出した。しかしボルガに私の「姫」を投げ込むわけにはいかない。このテーマは、いまでも生きているんだな。