第94話 堤 佑介ⅩⅢの4

文字数 2,593文字



帰宅すると、とたんにれいちゃんのことが恋しくなった。これまでそれほどには感じなかった独り暮らしの寂しさが、ひときわ身に染みてくる。でもこれは仕方ないことだと自分に言い聞かせた。

冷凍ご飯をチンして、買ってきた刺身とポテトサラダで侘しい夕食をとった。

この前から、出羽菊の無濾過生絞りというやつの一升瓶を冷蔵庫に入れている。それをぐい飲みになみなみと注いだ。

お米の香りが何とも言えない。せめてもの慰みにと、ちびりちびりとやりながら、パールマンとアシュケナージの「春」を聴いた。だが聴くほどに、恋しさが募ってきた。

れいちゃんにマズルカを送った日の翌日、そして彼女と結ばれる日の前日、彼女もこれを聴いたという。

これは呼吸がぴったり合った女と男の愛の対話。

トルストイは「クロイツェル」をもとに、たぶん同じ形式を読み取って、あの小説を書いたけれど、「春」のほうがその趣が強いと感じる。

たまらなくなって、れいちゃんに電話した。

友だちの家にいると言う。トイレの中だから大丈夫だそうだ。急いで会う約束を取り付けた。あさって、また会える!

声をひそめて「ゆうくん、大好き」とささやいたのが、とてもセクシーに聞こえた。


少し落ち着いてきてから、二人は今後どうなっていくのだろう、という想念がふいにやってきた。

どうなっていくのだろう、というより、どうすればこのすてきな関係を長く続けられるのか、と考える方が大事だ、と、すぐ思い直した。

私は、若い人たちと違って、それなりに分別をわきまえているはずの年齢だ。だから、こんな昂揚した甘い気分が永続するはずがないことを知っている。

れいちゃんもそれは同じに違いない。彼女もバツイチ、私もバツイチ。

しかも私の場合、不倫した上に、その関係でも失敗している。

あの失敗は、やはり一つ屋根の下で暮らすということがもたらした、どうしようもない日常生活での齟齬が露出したせいだろう。

依子との結婚生活では、子育てを仲立ちとした強力な絆があった。落語の「子別れ」のように、まさに「子は鎹(かすがい)」だった。

もちろん養育方針や今後の生活方針を巡ってしょっちゅう喧嘩した。しかしその喧嘩が、お互いの気持ちを破綻に導くようなことはけっしてなかった。

依子は賢くて冷静な女だった。私は彼女に生活の知恵を何度も教えられた気がする。だが、そのことがかえって二人の関係の質を乾いたものにしていったのだろう。私は無意識に飽き足りないものを募らせるようになっていた。

やがて不倫相手の芙由美に出会った。インテリアデザインの講習会でだった。若くて魅力的だった。私の中の「男」が、眠りから目覚めるように、にわかに甦った。急速に溺れていった。

依子と別れてからは、そういうことをした以上、芙由美と一緒に暮らすことが責任を果たすことであるかのように思った。もちろん、あれだけ燃えたのだから、ただ、責任を果たすために同棲したわけではない。そのまま直行で一緒に暮らすことがきわめて自然な成り行きだ、と感じていた。

だが現実はそう甘くはなかった。どちらともなく傷つけあうようになった。この経験で、私は恋愛と毎日の生活を共にすることとは、まったく違うという事実を手ひどく味わった。

これは世間でさんざん言われてきたことだ。しかし愚かなことに、自分で味わってみるまでは、それがわからなかった。


そしていま、私は恋愛のさなかにいる。過去の痛い経験から何かを学び取らなくてはいけない。

私はいま、彼女とずっと一緒にいたいと強く思っている。一緒にいたいという私の気持ちの延長上には、結婚という文字が浮かんだり消えたりしている。

彼女と結婚したいか、と自問する。そして「したい」と自答する。でも結婚は二人の愛情を色あせさせる早道だということも経験的に知っている。

おまけに、二人の間に子どもを作ることはもうできない。「鎹」は生まれない。では、どういうかかわりの仕方を続けることが、いちばん愛情を色あせさせない賢い方法なのだろうか。

同居しないで、時々会ってセックスしたり、食事したり、映画を見たり、語り合ったりする?  それではきっとすぐ飽きてしまうだろうし、一緒にいたいという欲望を満たせない。

どちらかの目移りを防ぐ力にもならない。それに、これは男である自分のほうに起きやすいなとも思った。

また、相手が不在の時に不安が増大して、あらぬ嫉妬心を抱いたりもするだろう。


前にも考えたことだけれど、いま日本では、どんどん晩婚化が進んでいる。それは経済が主な理由だが、主観的には、自由を束縛されたくないという理由も大きいのだろう。

また、男女双方の理想が高くなってしまって、なかなか出会いが成立しない。恋愛の自由市場が成立してからというもの、貧富の差の拡大と同じように、モテるやつはますますモテ、モテないやつはますますモテない。

こんなに独身者が多くなったのでは、もう昔のような、恋愛したら結婚して家族を作るもの、という規範は一般性を失っている。

では逆に、男女とも自立した生活を送って、個々ばらばらに生きていけばよいのかと言えば、それもまた心を満たさないだろう。

れいちゃんと私という「この二人」については、たぶん、その中間を選ぶようにすればいいのだと思う。

考えてみると、それは不可能ではない。彼女は活け花を本格的に習って、武蔵野で、お母さんの跡を継ぐ。私は当分、いまの仕事を続けて、この自宅と武蔵野をしょっちゅう行き来する。れいちゃんも私の自宅と実家を往復する。

これは一種の「通い婚」だな、と思いついて、私は苦笑した。ひょっとして、こんな大昔の結婚のかたちが、これから男女の理想形の一つになってくるのかもしれない。女性のほうも通ってくるというところが昔と違うけれど。

でも、と私は思い当たった。こんなことができるのは、ずいぶん恵まれていることなのだ。

家が二軒あって、当分お金に困っていないし、子どもの教育の問題もない。私について言えば、自分の老親を介護することからも免れている。れいちゃんのお母さんにはまだ会ったことがないけれど、私が養子みたいになって、ゆくゆく面倒を見てあげることだってできる。

そう思いつくと、なんだか楽しいような申し訳ないような、複雑な気分になってきた。

いずれにしても、二人の将来をどうするか。これはぜひ近いうちに彼女と相談することにしよう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み