第67話 半澤玲子Ⅹの2

文字数 2,293文字



鏡の中の自分を見つめた。ワインとおしゃべりのせいで、頬がだいぶ上気している。わたしは口紅をなおしながら、彼の目にどう映ったかしらと思った。勝手なことしゃべってアホな女だと思われなかったかしら。

でも初めてにしては、お互いそんなに固くならずに、いろんなことを話せたなと思った。歳のせいもあるのかもしれないけれど、これまでのやり取りで、何となく気心が知れているところがあったからだろう。

政治の話では、彼は慎重に、ゆっくり言葉を選んでいた。

途中、知らない経済用語や疑問も出てきたので、その時は質問した。ていねいに説明してくれた。

一回聞いただけでは呑み込めなかったけれど、でも、消費税の増税が、緊縮財政にこだわるケチな財務省のデマによるのだという点だけはよくわかった。

ほんとに、みんな騙されてるんだ。知り合いに広く伝えたい気がしたけれど、政治運動をするんでもないのに、それはよくない。堤さんも、どうすればいいかについては、ちょっと困惑気味だったようだ。

トイレから出て、テーブルに戻ると、彼はにこにこしながら座っていた。

「そろそろ出ましょうか」

「はい」

わたしたちは立ち上がって出口に向かった。堤さんのうしろ姿を目で追いかける。背筋のすっきり通ったひとだ。

レジの前でハンドバッグに手を入れた。

彼がそのまま出ようとするので、わたしは声をかけた。

「あの……おいくら」

「あ、もう済ませましたから」

「え?……そんな。よろしいんですか?」

「プロフィールに書いてなかったですか? 初デートは全額こちら持ちだって」

彼は振り返って、にこにこ顔を崩さずに言った。

「はあ……ではお言葉に甘えさせていただきます。ごちそうさま」

岩倉さんは何と書いていたっけ、と、とっさに思ったが、それは忘れた、というか、気にしてなかった。もうどうでもいいことだ。



外はだいぶ冷えていた。四つ辻の向こうに大学の大きな建物の壁がそびえている。私の母校だ。でもあまりいい思い出はない。別れた夫と最初に出会ったのもあそこだからだ。

帰りは途中まで同じ方向である。地下鉄の乗り換えですぐ違う路線に別れてしまうのだけれど、その一緒にいられる短い時間がいとおしかった。そのせいか、かえって緊張して何も話せなかった。

堤さんは、わたしが乗り換えるホームまで送ってくれた。

電車が来た。別れ際に、彼が「もしどうしても都合がつかなくなったら、なるべく早く連絡入れます」と早口で言った。

「そうしてください。お仕事大切ですから」

そうならないように、と祈っている自分がいた。乗り込んでから窓の外を見ると、堤さんは、ホームに立って手を振って微笑んでいる。わたしも見えなくなるまで手を振っていた。



帰宅は10時。シャワーを浴びながら、今日の出会いを思い起こした。シャワーのお湯のように、わたしのからだに幸福感が降り注いだ。

フェルメール展の話が出た時に、エリはどうしているだろうとすぐに連想した。電話してみようかと思った。しかし、こっちがいい調子になっている時に、もし向こうがやばいことになっていたら?――そう気づいて、やっぱり思いとどまった。

岩倉さんとのことも含めて、これまでのいきさつを話さないわけにはいかない。また、彼女のその後について聞かないわけにもいかない。もし慰めなくてはならない立場に立たされたら、こちらとしては、どういう言葉をかけたらいいかわからなくなる。

その距離感をうまく埋められるほど、わたしは世故に長けていないし、彼女との間では、わざとらしいことを言ってもすぐに気づかれてしまうだろう。気まずい空気には絶対したくない。

いまは、堤さんと会ってきた余韻を静かに胸のなかで温めながら、寝ることにしよう。



ベッドに入りながら考えた。

彼はまじめな人。それはたしかだ。

そして優しい。わたしのことを思いやってくれる。だれかさんとは大違い。でもこれは、いま、わたしをゲットしようと考えているからだけかもしれない。誰にでも優しいとは限らない。

よく、どんな男の人が理想ですかと聞かれて、「優しい人」と答えるケースが多いけれど、「優しい」って、いったい何だろう。誰にでも優しければ、それがいいことなんだろうか。自分に対して優しさを持続できる人が、その人にとっていい人なんじゃないだろうか。

堤さんはそういう人だろうか。もしかしたら、あのジェントルマンシップは、女の扱いになれてるってこととそんなに変わらない可能性だってある。

それに単に「優しくしてくれる」と言ったって、人は状況次第でいくらでも変わるものだ。こっちに気があるうちは極力いいところを見せるだろうけれど、飽きられてしまったら優しさも消えるだろう。また、もし深い付き合いになったら、これまで見えていなかったところが飛び出すかもしれない。まだそこまでは見えない。

でも、それは考えてみればお互いさまのところがある。人は他人のことを批評する時、自分だけは完全人格みたいな位置からものを言うけれど、そういう時はむしろ自分自身が見えていない時だ。相手に優しさを求める前に、自分がよりよくあろうとするのでなくては。

彼はかっこいい。それはただわたしがそう感じてるってこと。他の人はそう感じないかもしれない。でもそれはそれで全然かまわない。

彼は頭がよくて話題豊富だ。わたしの知らないこと、知った方がいいことをたくさん知ってる。



わたしは彼が好き? ……たぶん。だって、彼のことを考えると、かすかに胸がときめくもの。

彼とうまく付き合っていけそう? ……たぶん。少なくともここしばらくは。だって、会って話してるときの雰囲気がすごくいいもの……
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