第97話 半澤玲子ⅩⅣの3
文字数 2,881文字
待ち遠しい11日がなかなか来なかった。1週間をこんなに長く感じたことはなかった。
もう真剣に取り組む気のなくなっているITEMを、それでも勤めている以上はマスターしなくてはならない。7日が刻限だと言われていたので、もう少しの辛抱、と思って、通常業務の合間を縫って修練に励んだ。5,6,7の三日間残業し、何とか使えるまでに習得できた。
5日にボーナスが出た。65万円。
8日の土曜日に浅草の老舗・猫印鞄製作所まで出かけて、幌布製の鞄を、プレゼント用に買った。大きさと色、どれにしようかだいぶ迷ったけれど、彼の好み、けっこうシブいから、モスグリーンの、やや小さめのにした。革製のタグに「YUSUKE」と名前を入れてもらった。
9日は、部屋を念入りに片づけ、11日の献立を考えて買い物に出た。
午後、注文してあった花材が届いたので、さっそく活けることにした。
左に剣山を置いて、いちばん見事な鳴子ユリを思い切り右前にふり出した。根元部分、大きなバラを客枝としてぐっと前方に。葉は邪魔なので少しだけ残して切り落とす。その左側に鳴子ユリを小さめに切り、バランスをとる。これで基本はできたけれど、真ん中の空いた部分を埋めるために、中くらいの鳴子ユリを主枝とは反対に後ろに傾けて挿す。
ピンクのバラは二つ欲しい。佑介さんとわたし、と思い入れをしながら、小さいほうのバラを、少し高さを下げて客枝の斜め後ろに。二つのバラと中間枝の鳴子ユリの周りをカスミソウで飾る。
うーん。こんなものか。われながらうまくできたかな。主枝の鳴子ユリの、右にたわんで力強く描く曲線が美しい。もしかして、わたしたちのこれから進んでいく道、なあんて、勝手な思い入れがさらに広がってしまった。
写真は撮ったけれど、写メは送らなかった。
夜、携帯が鳴った。佑介さんだ。
「はい」
「れいちゃん、元気?」
懐かしい声!
「元気じゃありません。ゆうくんに会えなかったから」
「ハハ……連絡もしなくてごめん。いろいろあったもんで」
「え、だいじょうぶ?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。単に忙しかっただけ。そちらは?」
「私も週末にかけて忙しかった。例の新システムをマスターするんで、3日連続残業だったの」
「そう、それはたいへんだったね。疲れてない?」
「あ、昨日今日と休んだから、全然平気よ」
「よかった。それであさってだけどね。5時前にはそちらに行けそうだよ」
「え? お仕事、いいの?」
「うん。一段落ついてるし、適当言って、早退する」
「まあ、うれしい。早く会えるわね。そしたら……4時50分に田原町の改札でいい? 浅草寄りとホームの真ん中あたりと二つあるけど、真ん中のほう。そこで待ってる」
「うん。わかった。お酒は僕が買ってくから」
「そうそう、シャンパンとビールはあるんだけど、お酒、何買っていいかわからないから、どうしようかなって思ってたの」
「任せろ」
マッチョな口調を気取って彼が言った。あんまり似合わない。
「さっきね、お花活けてたの。でも写メ送らないね。じかに見てほしいから。思いを込めたんだぞー」
「わあ、そりゃ楽しみだな。ふたりで見れるんだね」
「そう。見てくれる人がいるのといないのとじゃ、全然気合いが違うわね」
「そうだろうね。半澤玲子個展だね」
「でも一点だけだわ。クシュン」
「一点豪華主義。ところで、全然関係ないんだけど、ボーナス出た?」
「出た。5日に。ウチ、早いのよ」
「よかったね。僕んところは明日なんだけどね。今日、電車乗ってたら、動画広告でニュースやるでしょ。あれで、え?って思わせるようなこと言ってるんだよ」
「なに?」
「今年のボーナスが平均90万円超で記録更新だって。そんな、と思ってもいちど回ってきたの見ると、それって経日連が発表した、たった72社の平均なんだ。要するに、超一流企業だね。そういうの見逃しちゃうんだよね。なんかすごく景気が回復してるみたいな印象与えるんだ」
「ああ、ほんとね。それって国経ニュースじゃないの。わたしなんかもああいうのにはウッソーて感じることがよくあるわ」
「だよね。それで、そんなはずねえだろって思って、家帰ってきてネットで調べてみたんだ。」
「うんうん。さすがゆうくん」
「そしたら、別の調査結果が出てきてね。ある調査会社が20代から40代の会社員241名にアンケートした結果みたら、全然違うんだよ。ここにメモってあるんだけどね」
それから彼は、ゆっくりゆっく数字を並べていった。わたしも聞きながら、思わず傍らのメモ用紙に、それらの数字を走り書きした。数字の周りをボールペンでぐるぐる囲みながら。
「えーと、56%が『支給なし』で、出ない会社のほうが多い。それで『支給あり』の平均が42万円。しかも企業規模が下がるにしたがって、支給額が下がっていくんだ。1000人以上だと、44万円、300人未満だと30万円、ていうふうにね」
「まあ。マスコミが流してる情報と全然違うのね。もし零細企業まで調べたら、もっと悪くなるでしょうね」
「そう。それに非正規社員にはもともとボーナスなんて出ないしね」
「なんでそういうデタラメ情報流すのかしらね。ムカつくわね」
「結局、政府が『いざなぎ越え』とか何とか言って、景気が回復してるって思わせようとしてるのに、御用マスコミがひたすら追随してるんだよね。れいちゃんと初めて会った時に消費増税のインチキについて話したと思うけど、あれとおんなじだよ」
「ああ、そうだった。ゆうくんとこんなふうになれたんで、仕合せのあまり、つい忘れてました」
「ハハ……それはそれでいいことだ。暗くて固い話になっちゃって、ごめん」
「ううん、そんなことない。大事なことよ。だって大部分の人は中小零細企業でこき使われてるわけでしょう。経営者だってだいたいがすごく苦労してるわよね。そういうことをちゃんと報道しないマスコミって何なのかしらね」
「はっきり言って腐ってるね」
「わたしんところは一応大企業だけど、仕事で、下請けさんとか中小企業さんと関わることが多いのね。そういう人たちのお金のやりくりなんか見てるから、苦労がとてもよくわかる。政府やマスコミって、そういうことに想像力はたらかせないのね……中小企業って、どれくらいあるんだっけ」
「たしか企業数で99%以上、従業員数で6割以上だったね」
「日本人の大きな部分がそれに支えられてるわけよね。そういうのを大切にしない政府ってダメね。なんでこうなっちゃうのかしら」
「その通りだね。簡単に言うと、グローバリズムがそうさせてるんだと思う。そのへんも今度時間あるとき話そう。僕も勉強しとくよ。」
「わたしも勉強するわ。……でもとりあえず、あさってと、しあさっては楽しみましょうね」
「そうだね。とても楽しみにしてる。今すぐにでも飛んでいきたいで~す」
「だめよ。玲子亭は『準備中』で~す」
「わかりました。じゃ、あさって、お世話になります。4時50分、田原町ホーム真ん中の改札で」
「待ってるね。もっと話してたいけど、じゃね。ゆうくん、大好き。チュッ」
「れいちゃん、大好き。チュッ」