第23話 堤 佑介Ⅳの1

文字数 2,359文字



                             2018年9月13日(木)



先週の土曜に脈がありそうに見えた中高年夫婦が、午後早く再び訪れた。事前に「ほぼ決めた」旨の電話連絡があり、もう一度物件を見たくて来たのだった。この夫婦、他の人に取られてしまうのを心配して焦っていたようだ。

岡田が勇んで案内し、1時間ほどして戻ってきた。私の傍らを通るとき、「ご成約、ご成約」とささやいた。私も「よかったな」と微笑みを返した。彼は、今日の残り時間は、この夫婦への詳しい説明や書類上の処理に追われるだろう。

マンションの賃貸物件が新しくまとめて入り、山下、谷内、中村と派遣社員を含めた四人がその処理に追われていた。

八木沢は前から売り出している中古マンションの来客をパート社員と一緒に案内。駐車スペースがない場所なので、一人車に残る必要があるからだ。川越、本田ともう一人のパート社員が、新しく入ってくる客の窓口を担当していた。



東日本チェインズという宅建業者間だけで共有できる情報機関がある。

地域に入ってきた情報は、オーナーが断らない限り、すべてここに報告する必要がある。

そのうえでポスティングのためのチラシ原稿を作り、本部に送る。さらに店内用のリーフレットを作成して、ネット広告も手配する。

急がなくてはならない。物件が複数重なると、けっこう重労働になる。

「山下さん、今日はたいへんだね。手伝おうか」

「ちょっと数が多いですね。でもお任せください」

「悪いね」

「いいえ」

ねぎらいの言葉をかけたのには、わけがあった。

彼女たちはかなりの残業になるだろうが、私のほうは、この間のモデルハウス改築設計案についての意見報告書を仕上げればよく、しかも、退社後に友人の篠原と会う約束を交わしていた。

所長の裁量範囲とはいえ、部下たちが残業で頑張っているところを定刻退社するのは、何となく気が引ける。私たちのようなこじんまりしたグループだと、親密さの度が強いので、よけいそういう空気に支配されるのだ。もちろん、部下たちの側からすれば、もっとその空気には敏感にならざるを得ないだろう。

篠原には、数日前にメールでアポを取った。

こちらは火曜の夜が都合いいのだが、その日は出張で無理だという。一泊するので翌日も無理。金曜日以降ははこちらが書き入れ時なので、今日ということになった。



篠原の大学は都心にあって、自宅は、ちょうど私のオフィスがあるけやきが丘のそのまた先の郊外に位置している。私は私で、同じ私鉄を少し都心のほうにさかのぼる格好になる。それで、私はオフィスからあまり動かずに、けやきが丘の気に入りの居酒屋「夕凪」で彼と待ち合わせることができた。

こちらの方は、いつもスタッフと行く居酒屋とは違う。かなり狭いので、みんなで労いあうための一杯には適さない。私はこの店を彼らに教えていない。いわば秘密の隠れ家だ。

定時よりも少し長く職場に残ってから、おもむろに店に行くと、カウンター席の奥で篠原はもう背中を丸めてビールを飲んでいた。猫背がいっそう高じてきたような印象だ。

「なんだ、早いじゃないか」

「おう、お先に失礼。今日は四限で終わったんでね」

「出張はどこだったんだ」

「大分。県立高校の社会科教師の会で講演に呼ばれてね。大分なんてずっと昔、一度行っただけだから、これ幸いと観光も兼ねてきたよ」

「別府でのうのうと温泉三昧か」

「別府じゃなくて湯布院に泊まったんだ。泉質にコバルトがふくまれていて、青い湯のホテルがあってさ。なかなか神秘的なんだよ。久しぶりにいい気分になって、あくる日、日田まで足を延ばしてきた」

「日田っていうと、ずいぶん内陸のほうだろう」

「うん。ところがあそこはさ、江戸時代、天領で、西日本じゃちょっとした金融の中心地だったらしいな。広瀬淡窓って知ってる?」

「名前だけは聞いたことがあるけど、儒学者だったっけ」

「そう、その儒学者が咸宜園という塾を流行らせて、全国から大勢の塾生が集まった。実践的な教育を重んじたんだけど、彼の弟が金儲けに長けていて、日田を金融の町に仕立て上げた中心人物だったんだ。兄の実学主義と弟の現実感覚とがどこかでつながっていたようだ。学問と金融で栄えた名残が今もあってね。豆田町というところが観光地としてけっこうにぎわっていたよ。なかなかよかった。もっと日本人が行くべきだな。」



私は聞きながら篠原の身分をちょっと羨ましく思った。二泊三日のような短い期間でも、なかなか取れない。

篠原が、そんな私の気分とはお構いなしに話を続けた。

「日本人はあんまり旅行しなくなったな。家計が苦しい人が多いんだろう。湯布院の近くに金鱗湖っていう小さな湖があってさ。そこもにぎわってるんだけど、聞こえてくるのが韓国語ばっかりだった。安っぽい土産物屋がずらっと並んでて、日本を珍しがる韓国人向けの品しか置いてないんだ」

「そういえば、対馬なんかは観光客だけじゃなくて、業者もほとんど韓国に占領されてるらしいな」

「うん。困ったもんだよ。堤のところなんかも中国人や韓国人がけっこう来るんじゃないか」

「俺のところは今のところ来ないな」

そう答えたものの、北海道をはじめとした中国人の土地爆買いは有名だ。少し心配になってきた。日本は外国人の不動産取得に何の規制もしていない。私は言った。

「しかし日本政府は弱腰で困るな。そのうち中国にとられちゃうかもしれない」

「これ知ってるか。日本の全国土の2%がすでに中国人に買い占められてる」

「2%ね。それでもまだ50分の1か」

「ところがこれが静岡県全県の面積に匹敵するんだ」

「え、そんなになるか」

ため息が出た。

そのうち、私のところにも中国人が訪れるようになる可能性がある。職業柄、ちょっとめんどうだなという気持ちになった。
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