第106話 堤 佑介ⅩⅣの5

文字数 4,338文字



今度は彼女がまじめな話をしてもいいかと聞いた。

さっき私が〇〇に大事な言葉を入れると言ったことについてだった。それは婚約とか、結婚とかを意味していたのかというのだ。

私はその通りだと答えた。それについてゆうくんの考えを聞きたい、と彼女は言った。たしかにまじめな話だ。

私は、いまの心境だと結婚したいという気持ちが強いけれど、結婚生活に入ると愛情がだんだん低減していくことを恐れてもいると答えた。問題は、どうしたらこのラブラブの気持ちをできるだけ長く持続させられるかの工夫にかかっていると思う、と。

それは一つ屋根で日常を共にするのでもなく、ふたりの都合が合う時にたまに会って恋人関係を続けるのでもない、両方の中間みたいな形が取れないか、と。

これを聞いて、れいちゃんは、じつは私もだいたい同じことを考えていた、と言った。でも今度は私のほうから、もう少し彼女の気持ちを詳しく聞いてみたかった。

彼女は語り始めた。

「わたしはこれからの人生で、ゆうちゃんとの関係を最優先にしたいと思ってるの。だって、こんなことってもうないと思うのね。で、わたしも結婚という言葉が何度か浮かんだの。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるんだろうかって考えた。さっきゆうくんが言ったみたいに、結婚するとたいてい二、三年で新鮮さ失っちゃうでしょう」

「残念だけど、そうだね。昔、『愛はなぜ終わるのか』って本がアメリカでベストセラーになって、愛は四年で終わるって言葉が流行ったんだよね」

「あ、そういえば大学時代、読んだ覚えあるわ。とにかく恋愛と結婚生活って全然違うわよね。恋愛してると『あばたもえくぼ』だけど、結婚すると『えくぼもあばた』になっちゃうことがすごく多い。だから思ったの。この仕合せ感ができるだけ長く続くためには、結婚しない方がいいのかもしれないって。でも、じゃあ恋人関係で時々会ってっていうんで満足かっていうと、それもなんか違う気がするのね。だって、いまは、いつも一緒にいたいっていうのがほんとの気持ちだから、それを偽るのもよくないなあって」

思慮深い、と思った。それに私が考えていたのとほとんど変わらないことがうれしかった。

「俳優のポール・ニューマンているでしょ。もう亡くなったけど」

「うん、好きな俳優だった」

「彼は、女優のジョアン・ウッドワードと結婚して、ハリウッドでは珍しくオシドリ夫婦って呼ばれてたでしょう。芸能人てしょっちゅうくっついたり離れたりしてるじゃない。それで記者が長続きの秘訣は何ですかって聞いたら、なるべく一緒にいないようにすることだって答えたんだって」

「ハハ……それは、年季が入ってからの話だろうね。たしかに、結婚した以上、だんだん共通の時間を減らしていくのも一つの知恵かもしれない。日本の続いてる夫婦って、自然にそうなってるんじゃないか。それで年取ってからまた仲良くなってお互いを看取り合ったりね……そうそう、こういうのもあるよ。フランスの、何といったかな、有名な劇作家の言葉、『結婚とは判断力の欠如である。離婚とは忍耐力の欠如である。再婚とは記憶力の欠如である』」

「アハハ……さすがフランス人、スパイシーね。……でも、わたしたちも再婚に近い形を取ることになるのよね。だから、大いに記憶力を捨てましょ」

「そうだね。付け加えてもいいよ。『未婚のままなのは、決断力の欠如である』ってね」



さらに彼女は、このマンションを売って、会社も辞め、華道に専心して母親を継ぐつもりであること、自分たちは、私のマンションと彼女の実家と、二軒の家を持つことになるのだから、そこを行き来できるので、すごく恵まれた位置にいること、などを語った。

私が空想していた通りだった。これを聞いた時、私は喜びのあまり、思わず立ち上がって彼女に近寄り、強く抱き締めた。

身を離してから、れいちゃんがちょっと心配そうに言った。

「でもちょっと気にかかることがあるの」

「なに?」

「いまから始めて師範の免状がもらえるかなあって」

「それは……僕は家元制度のことはよくわからないけど、こんなに素晴らしく活けられるんだからきっと認めてもらえるよ」

「ありがとう。でもこんなのは初歩中の初歩だし、それに家元制度って、面倒なとこあるのよね」

「お金とか?」

「それもあるし、人間関係でもね」

「お母さんがお師匠さんしてるってことは、メリットにならないの」

「そこがよくわからないのよ。母は独立したでしょう。分派争いみたいなことがあったかもしれないから、かえって不利にはたらく可能性もあるわね」

「なるほどね。お母さんにはこの話、もうしたの」

「まだなの。年内には話して、よく相談してみるわ」

「うん、それがいい。お金のこともよくわからないけど、マンション売った代金とか退職金とか、けっこう期待できるんじゃないかな。足りなかったら僕が援助するよ」

「ありがとう。でも、なるべくゆうくんに依存しないでやってみたいの」

「そう。偉いね。できればそのほうがいいね」

「あと、実家のあの場所はけっこう閑散としたところだから、生徒が集まるかどうか。何らかの新機軸を出さないとだめだと思うのね」

「ああ、それこそ僕の仕事にもかかわる領域だ。査定できるし、宣伝は慣れてるし。それに、構想をしっかり立てておけば、大丈夫だよ。きっと何とかなるよ。」

「そうね。いまから心配したってしょうがないわね」

れいちゃんは表情が和らいで、私に優しいまなざしを送ってきた。

「ゆうくんと話してよかった。安心するわ。あ、お酒がちょっとしかない」

そう言ってれいちゃんは瓶を振ってみせた。ふたりでちょっとずつ分け合った。

「れいちゃんの新たな出発を祝って」

ふたつのお猪口がかちん、と鳴った。

カール・リヒターの管弦楽組曲1番を聴きながら、食事をした。なめこ汁がすごくうまかった。

後片付けを一緒にした。時々チューをしたり、彼女のジーンズの形のよいお尻を触ったりしながら。



11時を過ぎた。

「ベッド、狭くてごめんね」

「狭いほうがくっついて寝られるよ」

「ねえ、やっぱり雨が降ってきたみたい」

カーテンの隙間から外を見ていたれいちゃんが言った。

私はうしろから彼女を抱きすくめた。そしてラフなグレーのセーターをすぐ脱がせにかかった。れいちゃんは臆せずに両手を上に挙げた。それからこちらに向きなおって私のYシャツのボタンをはずしにかかった。レースのついた可愛い白のブラジャーの間で、胸のふくらみが震えるように揺れた。

私たちはこれまでよりもずっと長く、それぞれのからだをむさぼり合った。



ずいぶん時が流れたような気がする。

ベッドの横、窓際に目をやると、置台の上の鳴子ユリが勢いよく葉をこちらに向けていた。愛し合う二人をずっと見守っていたのだ。手を伸ばして葉先にちょっと触ってみた。うなずくようにゆっくりと揺れた。

れいちゃんは私のからだを隅々まで点検して、時々犬のようににおいを嗅いでいた。

「この膝の下の傷跡はどうしたの」

「それは、小学校の運動会の時、転んで7針縫った跡」

「この脇腹のあざみたいなのは」

「ああ、それは生まれつき」

「ゆうくんはケンカした?」

「ほとんどしなかったね。一度だけ近所の悪ガキと取っ組み合いしたことあるけど」

「どうしてケンカになったの」

「さあ、よく覚えてないけど、たしかそいつが、貸したマンガ返さなかったんで、早く返してくれって言ったんだと思う。僕は口が立つ方だったから、相手を怒らせるのがうまかったんだね。いきなりとびかかってきたから、やむなく防戦」

「結果は?」

「引き分け……かな」

「相手は強い子なんでしょう? よく引き分けたわね」

「たぶん必死だったんだと思う」

「気が強いのね」

そうだったのだろうか。1年生の頃はよくいじめられて、泣きべそをかいていた。帽子に犬のフンをつけられた。一時期学校に行くのが嫌になってしまったこともある。

しかし後から考えると、小学校生活というのは、いろいろな悪ガキとつきあって、自分の精神を少しでも強くしていく恰好の練兵場だったのだろう。

また『銀の匙』を思い出した。ひ弱だった主人公は、高学年になると、好きな女の子を守るために棒を用意していじめっ子を撃退するのだ。



「……ねえ。さっきの話だけど」

と、れいちゃんは今度は腹ばいになって、両肘付きで顔を手の上に乗せ、私のほうに身を乗り出した。私はれいちゃんの腰からお尻のあたりをゆっくり撫でた。

「うん」

「あれ、実現したら、わたしたちって、もしかして、時代の最先端行ってることになるのかもね」

「そうかも。でもそれも経済的な余裕があるからできることだよね」

「……若い人たち、かわいそうね」

れいちゃんは今度は、仰向けに姿勢を変えた。それから、ためらいがちに、ゆっくりと言った。

「籍……入れないでおこうね」

「……うん。籍とか式とかなしで済ませよう。最低限、身内と友だちには話した方がいいだろうけれどね」

「ゆうくんなんか、周りが黙ってないでしょう」

「それは言えるかもな。まあ、派手なことはできるだけ避けよう。内輪のパーティみたいにして」

「それがいいわ。……寒くない? わたしは平気だけど」

「寒くない」

「あした、散歩しようね。仲見世通りのあたり」

「うん」

ふたりで毛布と布団を引っ張り上げてそのまま眠りに入った。



翌朝、目が覚めると、れいちゃんはもう起きていて、キッチンにいるようだった。私はベッドの脇にくしゃくしゃになっている下着や服を拾い上げた。下着を身につけてからYシャツを着ようとしたら、Yシャツが見当たらない。ベッドの下、後ろ側などさがしまわったが、やはり見つからない。

そのまま起き上がって、「ねえ、僕のYシャツ知らない?」とれいちゃんに呼びかけた。

彼女はそれには答えずに、くすくす笑いながら、

「おはよう。シャワー浴びてきたら」と言った。

眼鏡をかけ、キッチンに近づいてよく見ると、彼女は、私のYシャツを着ながら朝ご飯の支度をしているのだった。

ヘンなことを連想してしまった。阿部定が吉蔵のペニスを切り取ってから逃げる時、吉蔵のシャツとステテコを腰巻の上に巻いていたそうだ。篠原が言っていた三島のあの言葉、「女は愛の天才だ」という言葉をまた思い出した。

朝のシャワーが気持ちよかった。浴室と洗面所がとてもきれいで、いろいろな化粧品やバス用品のたぐいが置いてあった。

そうか、彼女はレオンに勤めていたんだっけ、と気づいた。社の製品をもらえるんだな。でもそれも今年度限りで終わりか。私は名残を惜しむように、それらの品々をゆっくり眺め、ふたを開けて匂いを嗅いでみた。一つ一つにれいちゃんが身をひそめているようだった。
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