第86話 半澤玲子ⅩⅢの2
文字数 1,591文字
30日の朝になった。だいぶ冷え込む。でも天気は気持ちよく晴れている。
ちょっとあの服装では寒いなと思った。それにまわりから何やかやと気取られるのもうっとうしい。
そうだ、と思いついた。出勤には、野暮ったく着込んで、例の衣装は小さなキャリー・バッグがあるから、あれに入れて持っていこう。
残業さえなければ時間的余裕があるから、退社してからどこかで着替えればいい。キャリー・バッグはコインロッカーにでも入れておけばいいだろう。こんなのって、女子高生なんかがやってる普通の知恵よね。
新システムの講習があった。
安岡課長が講師を招き、第一経理課全員が集まってパソコンを前に初期操作から指導を受けた。安岡さんは、こういうところ、けっこう律儀なんだなあ、と思った。
ただ、わたし自身は、胸にいろいろなことを抱えているので、集中できず、適当にやっていた。
安岡さんは助手よろしく、みんなの周りをまわって、不備や誤動作をいちいち指摘していた。わたしの適当さを彼に発見されてしまった。彼はていねいに修正してくれた。
この新システムに苦労しながら習熟して、わたしはずっとここにとどまるのだろうか。それともその前に辞表を提出して、華道の道を突き進むのか。あるいは、システム習得に挫折し、OLとしてのやる気のなさを見抜かれて首になるか。
佑介さんと一緒に暮らすこと――そういう選択肢も考えないではなかった。
妄想はいくらでも膨らむ。彼に武蔵野に来てもらう。優しいから受け入れてくれそう。交通も彼のオフィスからそんなに遠くないことがわかったし……。無理ならしばらく彼のところで暮らしてもいい。
「半澤さん、そこ、キー操作が違う方向に行ってますよ。それだと稟議書がカウントされなくなります。もういっぺん、S4の段階までもどらないと」
「あっ、すみません。えーっと」
また注意されてしまった。戻り方もよくわからない。安岡さんがうしろからわたしを抱え込むようにキーボードに両手を置き、複雑な操作を素早く行って直してくれた。噛んでいるガムの匂いがした。
退社してから約束の時間までだいぶあったので、最近駅前のショッピングビルにできたパウダールームに寄って、着替えを済ませ、念入りにお化粧した。ケバくなってないかなと、気を遣った。
目黒駅の改札は出入りの乗客でごった返していた。少し早めに着いて、来たらすぐに見つけられるよう、改札口の向こうからやってくる人の波を目で追いかけた。
来た。ダークグレーのトレンチコートがカッコイイ。わたしを見つけるなり、丸い眼鏡の奥の目がさっとほころぶのがわかった。
改札をくぐって近づくと、人目もかまわず両手を広げてわたしを抱いた。わたしは彼の肩に顎をすりつけ、それから目を瞑った。彼は少し身を離してチュッ、チュッ、チュッと3回キスした。
「早く会いたかった」
「僕も」
2,3分歩いて、きれいなホテルに着いた。一階にレストランがあった。
「初めて会った時の服だね。やっぱりいいね。寒くない?」
「大丈夫。ここ、あったかいし、それに……」
「それに?」
「佑介さんがいるから」
彼は子どものように笑った。
「そうそう、マズルカ、ありがとう。あれからYouLoopでいろいろ聞いちゃった。今度音楽のことも教えてね」
「うん。でも僕あんまり知らないんだよ。クラシックって、聞き込んでる人、すごいからね」
「あんまり知ってる人って、なんかひけらかすから好きじゃないわ」
「そう言ってくれてありがとう。いつかコンサートにも行こうよ」
「うん!」
二人とも、簡単な一品料理で済ませた。
食事が終わるころ、「部屋取ってあるんだ」と彼が言った。
昔見たクロード・ルルーシュ監督の『男と女』を思い出した。わたしが生まれる前の映画だけど、少女期に見てとてもあこがれた。一度聴いたら忘れられないあの主題曲のメロディーが、いま、わたしの頭の中を駆け巡っている。