第107話 堤 佑介ⅩⅣの6
文字数 3,359文字
午前中は、BGMをかけながら、ベッドに並んで腰かけていろんな話をした。
「ゆうくんの好きな作曲家は?」
「やっぱり、バッハ、ベートーベン、ショパン、シューベルト、かな。あと、グリーグとかチャイコフスキーとかラフマニノフもいいね。通からすると俗っぽいって言われるんだけどね。最近は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲をよく聞いてる。でも僕は、この前も言ったけど、あんまり知らないんだよ」
「チャイコフスキーはわたしも好き。♪チャン、チャン、チャン、チャ、チャ♪、ね」
「リヒテルってピアニスト、知ってる?」
「わたし、何にも知らないのよ。ごめんね」
「謝ることなんかないよ。僕も有名曲、人気曲しか知らないもの。それでね、そのリヒテルが、チャイコフスキーのチャン、チャン、チャン、チャ、チャと、ラフマニノフの2番を吹き込んでるアルバムがあるんだよ。これがとにかくすごいんだ。圧倒されちゃってね。他の人たちの追随を許さないね、あれは」
「わたし、それ買うわ。 えーっと、リヒテルのぉ、」
「チャイコフスキー、ピアノ協奏曲1番と、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番」
「ネットで買える?」
スマホで調べてみたら、最新のリマスター版が出ていた。評判も悪くない。
「あと、何買えばいいの?」
れいちゃんは、ボールペンで一生懸命、書き取っていた。
「ハハ……別に買わなくても、YouLoopでいろいろ聞いて、どうしても欲しかったら買えばいいんじゃないの」
「違うの。ゆうくんのおススメを聴きたいの」
それは意外にも、初めから決めているような強い調子だった。
私はこの言葉に、さっきのYシャツと同じように、くすぐったい感動を味わった。やっぱりこの人は、「可愛い女」なんだ。
私は少しかしこまって答えなくてはならなかった。
「そうか。おススメは、……まず、ショパンの練習曲作品10と25。……ピアニストは、ルビンシュタイン。……それから、バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティ―タ、これは誰がいいかなあ、僕はパールマンが好きなんだけど。……そうそう、シャコンヌ聴いたって言ってたよね。あれ、この中の一曲だよ。それからっと、ベートーベンで好きなのは、いろいろあるけど、ピアノソナタ8番の『悲愴』と30番。古いけど、ホロヴィッツの『悲愴』は優しくてすごくいいよ。……ベートーベンのピアノソナタは、アシュケナージが全曲弾いてるから、とても無難。バックハウスも弾いてるけど、僕はあまり好きじゃない。あと、前にも言ったけど、バイオリンソナタの『春』。これは僕たちの曲だよ」
ああ、ほんとにそうね、とれいちゃんはほてった頬に両手を当てた。
「それからさっき、ドヴォルザークのチェロ協奏曲聴いてるって言ってたけど、チェロは誰がいいの?」
「僕はフルニエが好き。音色がすごくきれいだから。カザルスやロストロポーヴィチは力強いけど、弦楽器は音がきれいなほうがいいな」
「交響曲はあまり聴かないの?」
「若いときは聴いたけどね。最近はあまり。でも交響曲は圧倒的にベートーベンだね。9つあるうち、1,3,5,6,7,9がいい」
「ブラームスは?」
「玄人筋はすごく評価するけど、僕はちょっと苦手」
「シューベルトは?」
「おススメは即興曲作品90。ブレンデルのしか持ってないんだけど、曲そのものがすごくいい。れいちゃん、絶対気に入ると思う。そうだ、ソナタ21番を持ってきたんで、かけてみよう。これはポリーニ」
あの印象的な旋律が始まってしばらくすると、れいちゃんがつぶやいた。
「このソナタ、ちょっと暗いわね」
「そう。たしかに暗い。やめようか」
「ううん、いいの。いい曲だし、人生には暗いところもあるでしょう。だから共感できる」
「そうだね」
人生には暗いところもある――たしかにそうだ。私もいくつか覚えがある。切ない記憶がよぎる。
私は、そんな連想に引き込まれそうになる自分を慌てて打ち消した。
それから、「暗いと言えば」と前置きして、政治の話をしてもいいかと聞いた。
「いいわよ。ちょっと待ってね。ノート持ってくる」
ずいぶん熱心だなと感心した。
じつは、前々日の10日に、臨時国会が閉会したことを苦々しく思っていたのだ。こんなひどい国会は初めて見たという気がした。それは、入国管理法改正、水道法改正、漁業法改正という、グローバリズムに奉仕する法案を矢継ぎ早に通したことにかかわっていた。
入国管理法改正は移民受け入れの拡大、改正水道法は水道の民営化を意味していた。
移民受け入れ拡大は、ヨーロッパですでに失敗が検証されていて、これに反対する国民運動が各国で盛り上がってる。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアその他。イギリスは国民投票でEU離脱を決めたが、その主な動機の一つに、大陸からの移民規制がある。
ロンドンではすでに45%が移民。スウェーデンは、いまや世界第三位の犯罪大国。
移民受け入れを拡大すると、低賃金競争が起こって、デフレはますます進む。国論は国民生活を守ろうとする人々と、排外主義を批判する人々とに分裂する。文化摩擦が深刻化し、治安も悪化する。本来なら実習を終えて本国に帰るべき技能実習生をそのまま日本に残して、低賃金で奴隷のように使い続けることを許してしまう。やがて家族を連れてくることも許す。
しかも阿川政権は、日本語教育や日本の文化慣習になじませる施策やテロ対策など、何の受け入れ準備もしていない。そして、ろくに審議もしないまま、数十万人の新たな移民を受け入れるこの法案を強行採決してしまった。
野党は、体を張って抵抗していたが、しかしその抵抗の理由が的外れだった。国民が貧困や危険に陥ることなどまるで意に介せず、ただ入ってくる移民の人権だけを問題にしていたのだ。
ということは、移民受け入れそのものについては、待遇さえ多少よければOKだと考えていることになる。こちらも欧州の失敗のことなどまるで念頭にないのだ。
水道法改正の場合、水は消費者に選択権がない。外国の水メジャーが独占するし、利益が上乗せされるから水道料金がどんどん上がる。災害時に故障や断水が発生しても、民間企業は責任を負わなくてもいい仕組みになっている。パリ、ベルリン、アトランタなど、世界の各都市では失敗に気づいて、公営に戻しているところが200を超えている。
わが国の漏水率は世界一低く、しかも飲料水として飲める世界でも数少ないきれいな水だ。自治体が少ない予算で懸命にその良質さを守ってきたのに、なぜ外資に売り渡すのか。これも財務省の緊縮路線からきている。
「あ、その話は、こないだゆうくんが最初に勧めてくれた『売られゆく日本』にも出ていたわね」
「あ、あれ読んだんだ。勉強熱心だね」
漁業法改正は、農協法改正と同じで、漁業協同組合を解体して、株式会社に明け渡そうとの趣旨である。そうは謳っていないで珍妙な理屈をつけているが、農協の場合を見れば明らかだ。もちろん外資規制はない。
れいちゃんが質問した。
「そんなこと、為政者はわかっているはずじゃないの? どうしてそんな自分で自分の首絞めるようなことばっかりするのかしら」
「それは、いまの政権が、全体として自由貿易や規制緩和、つまりグローバリズムをいいことと信じていて、政策の基本を、グローバル資本の利益になるようなところにばかり置いているからだよ」
「国民生活のことなんか、全然考えてないのね」
「考えてない。こういう政策の中心にいるのが、内閣の諮問委員を務めてる竹山平助というやつだ」
れいちゃんは「竹山平助」とノートに書きながら、言った。
「日本は、これからどうなっちゃうのかしら」
「このままいくと滅びるよ。一番ありそうなのは、中国に吸収されちゃうことだね」
私はそれから、最近読んだばかりの『領土喪失』についての話をした。
日本には、不動産購入の外資規制がなくて、中国が北海道や沖縄の土地をどんどん買っている。しかも登記の義務がないから、誰がどこにどれくらいの土地を持っているか、政府は把握していない。所有者不明の土地が、九州全体の面積を超えている。
篠原から聞いた、芝山団地の話もした。中国人が七割を超えていて、まったく日本人に溶け込もうとしないそうだ。そういうところが全国各地にまだら模様のようにできている。