第37話 半澤玲子Ⅵの2     

文字数 4,053文字


タクシーで20分ほど、神楽坂にやってきた。降りてから細い路地に入り、間口の狭い古びた格子戸をくぐった。

なるほど、ちょっとこじゃれた造りで、座席の奥に客が一組いるだけだった。渋くて趣味のいい店だ。中田さん、それなりに苦慮したようね。

「なかなかいい雰囲気のお店ね」

「そう、気に入ってもらってよかった。半澤さん、けっこういける方なんでしょう」

と、中田さんは杯を傾ける手つきをしながら、嬉しそうに言った。

「いえ、弱いんですよ」

中田さんは中ジョッキ、わたしはグラスビールで乾杯した。

「いや、こないだ半澤さんに褒められてじつはすごく嬉しかったんですよ。反面、もっと若い時期から積極的に会社に貢献しときゃよかったかなって反省もしたね。たぶんこれからじゃもう手遅れだけど」

「そんなことないと思いますよ。本社の人事異動もあと半年でしょう。業績買われて……」

「いや、そりゃもうないよ。経理も長いし、役員連中も、あいつに任せときゃって雰囲気だしね。」

「失礼ですけど、課長、おいくつですか」

「来年大台ですよ」

「じゃ、まだわかりませんよ」

「いやいや、ウチは人事、あんまり動かさない伝統があるじゃない。あれもまた、問題っちゃあ問題なんだけれどね。それはそうと、はんざ……おっと、レディに年聞いちゃいかんな」

「そんなことないですよ。47です。ほとんど同世代」

「え、驚いた。キャリアがそこそこ長いことは知ってたけど、それにしても若く見えますねえ。それにとてもきれいだし」

とてもきれい? そんなことない。それはお世辞、というかちょっと見え透いた誘惑のテクニックだ。

「ありがとうございます。でも若くもないしきれいでもないですよ」

運ばれてきたお料理に箸をつけ、目を落としながらできるだけ無機的な調子を作って答えた。

ビールを飲み干した中田さんは、お銚子とお猪口を二つ注文した。それからややためらうような風を見せて言った。

「いままで、プライベート、全然聞いたことなかったんだけど、ちょっとだけ聞いてもいいですか」

わたしは日本酒を一杯だけお相伴にあずかった。彼がしきりに勧めるのを丁重に断って、あとは梅酒サワーにした。ペースに巻き込まれないようにしなければ。

何を聞かれるか、だいたいお見通しだ。

「シングルだってのは知ってるんですけど、ずっと独身通してきたの」

「いえ、バツイチです。三年間で別れました。」

今度は相手の目をはっきり見ながら答えた。しばらくそのまま中田さんの目を見つめていた。どんな表情をするか興味があったのだ。

考えてみると、何年も同じ職場にいながら、この人の顔を真正面からこれほどまじまじと見たのは初めてだった。造作だけで言えば、そこそこ整った顔をしている。

中田さんは、目を丸め、ちょっと口をすぼめるようにしてそのまま表情を動かさずにいた。それから、

「なんで別れたのか、聞いてもいい?」

それを聞いてどうすんの? あなたのいまの関心事と違うんじゃない?

「相手が酒乱で病的に嫉妬深かったんですよ」

彼はまた同じように目を丸めて口をすぼめた。それから常識的な言葉を探すのに少し苦労しているようだった。

「そう。それは大変だったね。どうも失礼、失礼」

そういって、その場の気まずさを解消するように、お酒を独酌でつぎ、ぐっと飲みほした。

「いいんですよ。もう遠い昔の話だし。課長は?」

「え?」

「課長はどうしてシングルを通してこられたんですか」

「それは……いい出会いがなかったというか、だいたい俺は若い時からモテなかったからね」

「そんなことないと思いますよ。課長、ハンサムだし」

「いや、照れるな。そんなこと言われると。でもほんとにいい出会いがなかったんですよ。全然てわけじゃないけどね」

最後のセリフにちょっと見栄を感じた。誰の心にもあることだ。

「じゃあ、これからですね。だって、いますごく晩婚化しているでしょう。いいご縁がきっとあると思いますよ」

さっき、仕事の話をしていた時と同じ展開になってるなあ、と気づき、おかしさがこみ上げてくるのをこらえなくてはならなかった。

わざと他人事のように言ったつもりだった。ところが、相手は、これをチャンスと思ったらしい。テーブルに両肘を載せたまま、上半身をぐっとこちらに近づけてきた。丸い提灯型のランプが彼の頭に触れて、ゆらりと揺れた。

「半澤さんは、再婚とか……考えてないんですか」

声がやや上ずっている。

言ったあとで、右手をわたしの左手のほうに少しだけすうと伸ばしてくる。握ろうと思えば握れる距離だ。でもわたしはそのことを大して気にしているわけではなかった。

しかしいきなり再婚という言葉を持ち出してくるのは想定外だった。とっさに答えた。

「わたしですか。わたしはあきらめてます」

中田さんは、一瞬、狼狽したような表情を浮かべて、右手を引っ込めた。

「あきらめてる? どうして」

「だって……もうおばあさんだし、バツイチなんて相手にされないと思うし」

「そんなこと……あきらめてるなんて言わないでください。半澤さんは若いし、きれいだし……今さっき、僕に、まだこれからだって言ってくれたばかりじゃないですか」

言い方に、どことなく悲壮感が漂っている。

中田さんから、「あきらめてるなんていわないで」とお願いされるような局面じゃないと思うんだけどな。

これってプロポーズのつもりかしら。それだったら、気持ちはわかるけど、やっぱり、すごく不器用で、しかも性急すぎる。どうせなら、もっといろんな話するとか、どこか楽しいところに一緒に行くとか、そういう共通体験を積み重ねてからにしてくださいね。もっとも、中田さんとそうする気は、わたしにはないけれど。

「課長。わかりました。わたしにもご縁が訪れてきたら、考えてみます。でも、いまはそういう気にまったくなれないんです」

中田さんは急に力が抜けたように体まで引いた。二本目(三本目だったかしら)のお銚子から弱々しそうにお酒を注いだ。そのしぐさがちょっとかわいそうだった。

仕事の話とか、知識を披露する時とかは、あんなに雄弁なのに、まるで人が変わったようだ。



しばらく沈黙が続いた。お酒を注ぐ間がだんだんと短くなっていくのがわかった。二人とも料理にはほとんど箸をつけない。

それから中田さんは、あのぶっきらぼうな口調にちょっと戻って言った。

「誰かつきあってる人はいないの」

これは予想された質問だ。

「それは……いないわけではないです」

ヘンな答え方になってしまった。というか、いまの自分の状況からすれば、とても正直に答えたことになるとも言えた。

初めからこの質問をしてくれれば、「います」と答えて話は簡単だったのに、なかなか思った通りにはいかないものだ。

しかし中田さんは、それ以上追及しようとはしなかった。

やがて彼は、落ち着きを取り戻したのか、できるだけ抑えた口調で、うつむきながら、ゆっくりと語り出した。つむじを中心に白髪が何本か放射状に広がっているのが見えた。

「ごめん。つい動揺してしまって。ちゃんと話すよ。……話しても仕方がないってことはもうわかったんだけど……でも、つまり……何ていうか、やっぱり自分の気持ちを伝えるだけのことはしておいたほうがいいかな、と」

そこでいったん間をおいて、精進揚げに手を付けた。それからゆっくりと盃を飲み干した。

「……あの……前から半澤さんのこと好きだった。……でも、仕事場で一緒にいると、いるっていうだけで、なんだか、慰められてるっていうのか、癒やされてるっていうのか……いや、これは僕が勝手に感じてただけのことなんだけど……それで、そんなに激しい気持ちになんかならなくて、これでいいんだよなって、自分で言い聞かせてたんです。……でも、こないだ、あんなふうに褒められたでしょ……あれ、何ていうか、たとえ悪いんだけど、結婚してたら、きっと奥さんにこんなふうに励ましてもらえるんだろうななんて思っちゃって……」

そこで間をおいて、わたしの反応を見るように顔をこちらに向けた。わたしは、ただ黙って聞く姿勢を崩さなかった。中田さんは、再びうつむいた。

「そしたら、なんだか、胸の奥のほうから、『はっきりさせろよ、男だろ』って声がせりあがってきたような気がしたんです。……それで、こんなバカなことしてしまった。許してほしい」

わたしは思わず、白髪交じりのつむじを、ちっちゃな子にしてあげるように、撫でてやろうかと、手を伸ばしかけた。でも、そんなことしちゃいけない、自分の気持ちを偽っちゃいけない。

「課長。謝ったりしなくていいです。それに、バカなことなんて何もしてませんよ」

「ありがとう。なんだか恥ずかしい。明日も顔を合わせるんだよね」

「そうですね。これからもずっと」

「うん。これからもずっと。それで、何もなかったことにしてくれないか」

「もちろんです。誰かに見られたわけじゃないし、実際何もなかったし、誰にも言いませんし」

じつはわたしも、彼の今の言葉を聞いているうちに、そのことが気にかかり始めていた。何もなかったとはいっても、心の問題として何かがあったのだ。

誘われたときは、ただの不器用なスケベって思った。でも、振ってみると相手から男の純情みたいなものがにじみ出てくるのがわかった。それがわたしの中に刻みつけられてしまった。だからこれからは、そういう人として接する新しい心構えを身につけなくてはならない。



長く顔を突き合わせていても、気まずさが募るばかりだ。早々に退出しようと思った。

「すみません、今日ちょっとやらなきゃならないことがあって」と言い訳して(事実、あった)、お店を出たのが8時ちょっと前だったかしら。

中田さんは、僕はもう少しここに残ると言った。別れ際に握手を求めてきたので、握り返すと、掌に彼の分厚い手の汗ばんだ感触が残った。

もしかして、これからやけ酒?

「あまり飲みすぎませんようにね」

中田さんは、営業的な笑いを浮かべて「ありがとう。また明日」と言った。

目が駄々っ子のそれのようだった。
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