第43話 半澤玲子Ⅶの1

文字数 4,991文字


2018年10月14日(日)


だいぶ過ごしやすくなった。今日など肌寒いくらいだ。しかしここのところ曇り日か小雨の日が続いていて、秋晴れに出会わない。予報によると、まだこの天気はしばらく続くのだという。少し憂鬱。

というより、これは昨日のことからくるわたしの気の迷いが、天気とシンクロしているのかもしれなかった。

昨日、土曜の午後、母から、買い物と食事をしないかとの誘いがあった。

四谷三丁目の「きくの花器店」で、新しいお稽古用の水盤や剣山を買いたいという。きくの花器店にはわたしも何度か行ったことがある。品ぞろえが豊富だから、お花をやっている人が多く集まるのだ。

また四谷三丁目には、おいしい店がいくつかある。ちょうど花器店のすぐ近くに山形料理を食べさせてくれる渋い店があるので、花器を買ってから、母をそこに連れていくことにした。五時に予約を入れた。

母は、濃緑色のなみだ型をしたちょっと変わった水盤と、その大きさに合った小さな剣山を買った。消費税込みで約6000円。

「あれ、そんなの使うの。新開拓?」

「そうでもないんだけどね。若い生徒さんには、時にはこういうのを味わってもらうのもいいかなと思ってね」

わたしもつられて3000円の白地の投入れを買った。白地といっても、練色というのかしら、わずかにピンクがかった柔らかいその色調が粗めの地肌によく合っていた。前から下駄箱の上が殺風景だなあと感じていたのだ。

これからは少し、家の中に気を配ろう。昔の心得を思い出して、時々はお花を買ってきて、自分をいとおしむように、活けることにしよう。

母にもらった小さな水盤も、部屋の隅の置台の上で、活けられる花もなく孤独をかこっている。1LDK のマンションには床の間も和室もないけれど、あの置台で間に合わせればじゅうぶんだ。

なぜって、わたしは……わたしはもしかしたら恋をするかもしれないから。

そんなことをひそかに考えて、少し顔がほてるのを意識した。



母の買い物は、ちょっとかさばるけど、郵送してもらうほどではなかった。別れるまではわたしが自分のと一緒に持ってあげるよと言ったのだが、母は、「いいよ、いいよ。これくらいなんでもない」と言って持たせようとしなかった。

石畳の狭い路地に入って、竹の枝折り垣の間を抜け、格子戸を引いた。

「こんなお店があったのね」

「ね、ちょっと小粋でしょう」

いらっしゃい、と60代のマスターがカウンターの奥から元気に迎えた。他の客はいない。

もともと土曜日は休みにしているらしいけれど、前に来たことがあるので、わざわざ受け入れてくれたのだ。

「予約した半澤ですけど。ちょっと早かったかしら」

「半澤さんね。かまいませんよ。テーブル? 座敷?」

「お母さん、どっちにする?」

「わたしはどっちでもいいけど」

「じゃ、座敷にします」

テーブルと言っても四人がけが二つ、その奥に、詰めても七、八人くらいがせいぜいの座敷があるだけの小さな割烹店だ。出てくる料理は決まっている。

だだちゃ豆、お刺身に、玉こんにゃく、最後の里芋と油揚げをメインにした芋鍋が、故郷の味というのにぴったりで、とてもおいしい。

「お母さん、疲れたでしょう」

「そうでもないわ。いい品が買えたもの。満足よ」

「ビール、飲む?」

「そうね、久しぶりに少しいただこうかしら」

瓶ビールしかない。大びんを二人で、わたしが主に飲めばいい。酔っぱらっちゃうかな。

「玲子も投入れが買えてよかったね」

「うん。それでね、これは下駄箱に置いて、あと、お母さんにもらった水盤あったでしょう。あれここんとこずっと使ってなかったから、これからわたしもちゃんと時間見つけて活用しようかなって思ったの」

「まあ、それはいいわね。でも時間あるの?」

「何とか見つければ大丈夫。こうして休みだってあるんだし」

「そりゃお母さんはうれしいし、いつでも相談に乗るけど、あんまり本気出しちゃだめよ。仕事に差し支えるから」

「本気になってもいいかなって」

なんでこんなことを口にしたのか、初めは自分でもわからなかった。

「え?」と母は耳を疑うような顔をした。

「半分冗談だけどさ、でも、もう仕事もいいかげん飽きてきたってのが本音。だからもし本気でのめり込んじゃったら、仕事そっちのけになっちゃうかも」

母のおどろき顔はまだ消えない。

「でもどうやって食べてくの」

わたしは母を少しからかってやりたいような気持ちになってきた。玉こんにゃくをもぐもぐさせながら、とっさに思いついたアイデアを口にした。

「つまりお母さんの跡を継ぐわけよ」

「そんな。わたしの収入なんてたかが知れてるし、あのへんじゃ生徒集めるのはたいへんよ」

「そうかしら。ちゃんとやり直して、免状もらって、親子二人で看板出せば、けっこう評判になるんじゃない。わたしが大原流の新風を吹き込んでさ」

言ってるうちになんだか、ほんとに実現しそうな気になってきた。ビールのせいかもしれない。瓢箪から駒ってやつだ。

「わたしね。会社のエントランス・ロビーに何度か活けたことあるのよ。そしたらちょっとした評判になっちゃってさ」

よせばいいのに、さくらちゃんに褒められたのを、大先生の母の前で、オーバーに吹聴してしまった。やっぱり酔っぱらってきたようだ。

「あら、そうなの。すごいじゃない。玲子はたしかに筋がいいところはあったわね。ここだけの話、真奈美に比べれば、ずっと向いているなと思ってた。あの子は全然興味示さなかったものね」

母までがだんだん乗ってきたような感じだ。お酒などめったに飲んだことのない彼女が、無意識にコップを差し出して二杯目を求めた。頬がすでに赤らんでいる。

「ふふ……。この計画、意外と可能性あるかもよ」

芋鍋がぐつぐつと煮立ってきた。油揚げが表面で盛り上がって、早く食べてちょうだいと言っているようだった。わたしは、母の小鉢に適量を取ってあげた。

「ありがと。おいしいわねえ」

わたしも、自分の小鉢に油揚げと里芋とキノコを取って、ふうふう吹きながら口に運んだ。

お料理のおいしさと、話の盛り上がりとのタイミングがよくあっている感じだった。

しかし母はいつもの慎重さを示して言った。

「そうねえ。でもせっかくの安定した職を振ってまでっていうのは不安だわねえ。景気もあまりよくないみたいだし」

たしかにそうだ。私にその勇気があるかどうか、それはその時期が来なければわからない。

でもそう言いながら、母は、じつは私に帰ってきてくれることを期待している。たしかに不景気が続いてはいるけれど、真面目な話、経営さえ回れば一石二鳥だ。余裕のある人たちを相手にすればいいのではないか。

いずれにしても、いつかは老母の面倒を見なくてはならない身だ。

母はまだ十分元気だけれど、仕事の合間を見て、華道の修練に集中する。師範の資格を取り、最近の流行も勉強し、確信が持てたところで、「老親介護」を理由に退社。そして実家に帰って母と二人で教室を。

武蔵野のあの家。公園から吹いてくる風がさわやかに通り過ぎ、梢をさらさらと鳴らし、鳥たちが可愛いさえずり声で遊び回る。春には桜が咲きはらはらと散り、秋には紅葉が青空を背景にあたりを鮮やかに彩る。そしてハナもいるし。

華道教室って、あの環境にぴったりだし、わたしもそういう人生を求めていたのかもしれない……。



けれど、その時、はっとわれに返った。

わたし、恋活をしてるんじゃなかったっけ。

岩倉さんと、それは始まったばかりだった。そして進んでいた。

今週は2度、彼とのやり取りがあった。どちらもそんなに長いものではなかったけれど、すでにFureaiサイト内でのメッセージの送受信を中止して、メールに切り替えていた。

とにかく会ってみないことには、いいお付き合いができるかどうかもわからないので、会ってもらえないかというのが彼の言い分だった。ダメとわかれば、その時はその時、とも。

メールには、会う場所の指定と候補日まで書かれてあった。「よろしければ」という但し書き付きで。

これはお互いのコミュニケーションがいい感じになってきているいまのステップから考えれば、もっともな言い分だった。でもわたしは、彼のその最後のメールにまだ返事を送っていない。

鍋の中身も少なくなり、酔いも少しずつ醒めてきた。

ちょっと盛り上がりすぎたかな、という反省の気持ちと同時に、わたしが退職して実家に帰るというアイデアを、冗談半分とはいえ、持ち出してきたのには、別の理由もあることに気づいた。

それは、中田さんとの一件が、何となくくすぶっていたからだ。別に彼の態度が特によそよそしくなったわけでもなければ、何か陰湿な嫌がらせのような振る舞いに出たわけでもない。わたしの前では冷静なビジネスマンとしての姿勢を崩さなかった。いや、そう努力していたというのが正確かもしれない。

わたしのほうも、平常心を保とうと努力していた。それで、表立っては何も問題はなかったのだが、仕事に傾けるわたし自身の熱意が、どうも少しだけ、殺がれてしまったような感じなのだ。

理屈で考えれば、これは私の自分勝手というものだった。でも、そういう自分を正当化する気持ちはないけれど、仕事に対する倦怠感が長年続いてきていて、それを中田さんとの一件がもうひと押ししたような気がしてならないのだ。

恋活をうまく続けるためには、そう簡単に退職しない方がいい――だろうな。結婚なんてすごく実現の確立が低い到達点だから、少しでもそれを目指すなら、安定した職を失わない方がいい。

そうすると、お花の師匠の道を選んだ場合、母と二人で暮らすことになるわけだから、恋活はおあずけになる、かな。

いや、そうでもないのかな。そういう条件で、新しく出発すればいいのか。でも師匠になるのに何年かかるかわからないし、お金も積まなきゃいけないだろうし。そっちに集中すれば、再婚の機会も遠のくかもしれない。そのうちもっと年を取ってしまう。

しかも、いま現に、恋活をやっていて、具体的な相手が見え始めている。

頭がこんがらがって、何が何だかわからなくなってしまった。

わたしはこの複雑な屈託を母に悟られないようにしながら、ちょっと声を大きくしてマスターに言った。

「ごちそうさま。とてもおいしかったわ。お愛想おねがいします」

母も丁重にお礼を述べた。そして財布を取り出した。

「お母さん、ここはわたしが」

「何言ってるの。いいのよ。わたしが誘ったんじゃない」

少し押し問答したが、結局母に甘えることにした。



大通りに出ると、まだ車の流れや人通りが衰えていず、街は賑わいを見せていた。時計を見ると、7時ちょっと過ぎ。サラリーマンやOLたちの夜の楽しみはこれから始まるのだろう。

今度はわたしが母の荷物を持つと言って聞かなかった。といっても、地下鉄の改札までのことだ。

そのわずかな間に、母がわたしに寄り添うようにして、小声で話しかけてきた。

「玲子、お店で話せばよかったんだけどさ、この前、再婚相手を探す気があるって言ってたわよね」

「ああ、うん。あれいつだっけ」

できればとぼけて済ませたい気分だった。

「ちょうど一か月くらい前。その後どうなったか、やっぱり知りたくってね。ううん。言いたくなければ言わなくていいのよ」

間をおいてから、答えた。

「ちょっと進行中って言えばいいかしら。でもまだわからないわ」

「そう。わかったわ。はっきりしたら教えてね」

で、もう地下鉄の階段を降りるところまで来てしまった。

「うん。教える。ごめんね、はっきりしなくて」

母は微笑んで言った。

「そういうことは、そうはっきりできるものじゃないわ」

わたしの帰る方向は目の前に改札があるが、母の帰る方向は改札が反対側にあり、階段を昇ってぐるっと回らなくてはならない。母は、もうここでいいわよと、荷物を受け取ろうとしたが、わたしはそれでは気が済まず、いっしょに向こう側まで回ることにした。

改札前で荷物を渡しながら、

「重いから気をつけてね」

「大丈夫。今日はつきあってくれてありがと。じゃあまたね。成功を祈るわ」

「うふふ。どうもありがとう。じゃあね」

成功を祈る――初めにわたしがエリに言い、次にエリからわたしが言われ、いままた母から同じ言葉を受け取った。

気が若くて優しい、大好きなお母さん。

さっき混乱した頭で考えたことを、もう一度整理しなくちゃならない。
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