第50話 半澤玲子Ⅷの2
文字数 4,342文字
じつは自己紹介した時から気になっていたんだけれど、口臭のひどく強い人だった。写真を見るために顔を近づけたらいっそう臭ってきた。露骨に顔をしかめるわけにいかず、これ、何とかならないのかな、と思った。
「きれいに撮れてますねえ。まさに天然の活け花ですね。そっくり取ってきて飾ってみたくなります」
顔をできるだけ遠ざけてから、気を取り直してもう一度フォローした。その気持ちに偽りはなかった。
すると彼は、両手でバツ印を作って「それはNG」と言った。
人里離れた高山に咲いていてこそ高山植物の可憐な魅力が味わえるのに、「そっくり取ってくる」なんてもちろん思わない。本気で言ってると思ってるのかしら。
そんなこと知ってますよ、と返してやりたかったが、気まずくなるのを避けた。
「活け花用はみんな栽培植物ですからね」
「そういえば、ワレモコウってニックネーム見た時にね。おもしろいなって思ったんですよ。だって、あの花って、あんまり目立たないでしょう。僕は野山でよく見かけますけど、知ってる人、少ないんじゃないかなあ」
「ええ、でも活け花ではけっこう使うんですよね」
「うん。それ知ってね。納得しました。華道には全然詳しくないんですけど、大原流ってのもいいですよね。蒼華流なんて、派手さで見せているようなもので、奇をてらっていると感じるんですが、どうですか」
話題が華道の話になって、ひと安心。
「ええ、メールでそう書いてらしたわね。わたしも同意します。でも、最近は、どの派もいろんな試みに手を出していて、あんまり区別がつきにくくなってきてます」
「そうなんですか。よく言えば自由、悪く言えば伝統の喪失……」
「ああ、そういうことになりますかしら」
わたしはそういうとらえ方でお花の世界を見たことがなかったので、新鮮に感じた。
ただし、そこまでだった。
「いや、僕の授業でね、いろいろ感じるんですが、古典と現代文と両方やってるでしょう。
そうすると、伝統の喪失ってことをすごく感じるんですよ。たとえば、戦前の近代文学では自然主義が主流になってましたが、あれは明治になって西洋文明がどっと入ってきてから、そうなったんですね。でも僕は、本来の自然主義が誤解されたと思ってるんです。日本の伝統が否定されると同時に、自然主義イコール私小説みたいになって、ヘンな歪んだものになってしまった。大きく言って破滅型と身辺雑記型とに別れるんですが」
心配したとおり、ちょっとついていけないものを感じる。
「……」
「それとね、短歌なんかでも、現代短歌は、古典的なものとまったくちがってしまった。瓦沙智さんてご存知ですよね」
「ああ、あの『マリネ記念日』の。高校のとき読んで、私たちのこと歌ってるみたいって感じて、すごくぴったり来ました」
「いや、たしかに彼女の登場は新鮮だったし、才能のある人だと思います。それはそれでいいんですが、現代文の教科書には、子規以降の近代短歌しか載ってないんですよ。もちろん瓦さんのを載せているのもあります。でも本当は、古典から現代へとつながっている、そのつながりと変遷を教えるべきだから、国文の歴史と対になるような形の教材づくりをすべきなんですね。そうすれば、瓦沙智だって、ああ、こういう流れの中で出てきたんだ、こういう必然性があるんだってことがわかって、高校生にもっと深く伝統を味わってもらえる」
男の蘊蓄というやつだ。エリに、ちゃんと聞いてやれと偉そうにアドバイスしたっけ。そうアドバイスした手前、ちゃんと聞かなきゃと思って聞いていた。言いたいことは半分くらいはわかった。
「あの、難しいお話で、全部わかったかどうか自信がないんですけど、お教室で、そういう形で教えることはできないんですか。教科書通りでなくて」
「いやあ、一応、私立の名門校ですから、生徒は勝手に勉強はしますがね。だからけっこう教師の自由裁量でできる部分はありますよ。でもいかんせん、年間カリキュラムの拘束が強いんでね」
そういって彼は、授業計画の一覧表を出して見せた。自分で作ったのだという。手書きだった。風貌に似合わず、小さくてきれいな字がびっしりと書き込んであった。
「大枠が決められているので、それに沿って、この日は何をやり、次の時間はこれ、というように計画を立てておかないと、全体をこなせない。そこを踏み外すのは、なかなかできないんです。性分でしょうね」
やっぱり几帳面な性格なんだ。きっと、私などよりはるかに事務能力に長けているのだろう。でももっと羽目を外しちゃえばいいのに。わたしの高校時代なんて、そんな先生、いっぱいいたけどなあ。
「だから、さっき言ったようなことを本気でやるには、時間が足りない。おまけに文科省の縛りがだんだんうるさくなってきてる。いま、大学でも即効性のある教育が求められていてね、実用的なほうへ、実用的なほうへとシフトしているんです。そうなると、高校も大学受験で実績出さなきゃならないから、それに合わせざるを得ない。助成金打ち切られたらおしまいですからね。まったく文科省はろくでもないことばっかりやってる」
見ると怖い顔をしている。
ご説自体は正しいように思えたが、こうして強い調子でまくしたてられているうち、なんだかわたしが怒られているような気がしてきた。分厚い唇から漏れる口臭もだんだん耐え難くなってくる。
だいたい初デートでしゃべる話題かしら。山や活け花について話していたさっきまではまだよかったのに、自分の仕事にかかわることを興奮してしゃべっているうちに、聞き手の気持ちを思いやる姿勢がだんだん奥にしまい込まれてしまったようだ。もしかして、大勢の生徒相手に毎日講義してるから?
食事をしないかと誘われた。
新中野に面白い店があるという。新宿三丁目から地下鉄で四つ目。少し抵抗があったが、せっかく出会ったのだし、この人のことをまだよく知らない。もう少し付き合うべきだと思ってOKした。
レジのところで、岩倉さんは、お店の人に「別々に」と言った。もちろんそれで構わないが、ちょっと引っかかった。時間に正確、几帳面、お金の面でも、もしかして?
彼が連れて行ってくれた店というのは、「心豊か」という名で、なんと自分で厨房に入って食材を選び、自分で料理するのだ。飲み物はカウンターで注文する。梅酒50円からという安さ。
店は50人ほど座れる広さで、6時前なのに、もうかなりにぎわっていた。土曜日なので、パーティに使う人が多いらしい。
マイレジというのを首からぶら下げて、食材に貼ってある価格シールをはがして伝票に張り付ける。エプロン、食器、調理用器具、調味料などはタダ。ただし初めての客は、30分200円のチャージを取られる。
厨房には、どんな料理にも対応できるように、食材が山ほど積まれている。それに営業用の大型冷蔵庫。ガスコンロが一列に何台も並んでおり、中央に調理台。どちらにも男性女性が数人、せっせと立ち回りを演じていた。
岩倉さんは、料理が得意らしい。メニューをいろいろ考えてきたようで、食べられないものはないかと聞いてきた。
「大丈夫です」
「じゃあ、中華で行こうか。餃子と、レバニラ炒めと、バンバンジーでいいかな」
「はい」
「僕が餃子を担当するから、玲子さん、レバニラとバンバンジーお願いできる?」
「は、はい」
早くもファーストネームで呼ばれていた。中華はあまり得意でない。それに、このお献立って、ちょっと偏ってないかしら。まあ、それはいいとして、バンバンジーは簡単だが、レバニラは、っと、レシピを一生懸命思い出そうとした。
「あ、レシピだったら、その棚にいろいろ本があるよ。わからなかったら僕が手伝うから」
エプロンをさっさと身につけながら、こちらが準備しているゆとりもないままに、岩倉さんはてきぱきとことを進めた。こういうところはなかなか頼りがいがある。
でも、とわたしはふと考えた。これって、もしかしてわたしを試しているんじゃないかしら……。いや、そんなことを考えてるゆとりはない。
鶏ささみと、キュウリ、トマトもあった方がいいな。それからっと。レバー、どれくらいがいいかしら。岩倉さん、大食いなのかな。それを予想して、少し多めに取り出す。
たしか牛乳にかなりの時間つけとくんじゃなかったっけ。自信がないので、本をめくって、簡単レシピの項を見ると、15分とある。
これなら、その間にバンバンジーを作ればいいな。ささみともやしはチンでいいだろう。酒と塩で味付けしたが、耐熱容器がみつからない。
「岩倉さん、すみません。耐熱容器、どこですか」
岩倉さんはすでにボールにひき肉やキャベツ、ニラなどを入れてこね回している。
「あの高いところにあるよ」と、ぶっきらぼうに答える。
ところが今度は、レンジがあいにくふさがっている。空くまで待たなくちゃ。
その間に、野菜を洗って、キュウリを細切り、トマトをていねいに八つ切りにしていく。ついでにニラ、ニンニク、ショウガも切っておく。レンジが一つ空いたのを横目で見つけ、すぐに占領。4分くらい、か。
今度は、ゴマダレ。これは既製品で間に合わせる。
再び岩倉さんのほうを盗み見ると、餃子の皮で材料を包みにかかっている。その手つきはプロ級だ。
そろそろレバーを牛乳から出し、水分を切って片栗粉でまぶし、フライパンに入れて調味料、ニンニク、ショウガを。
こんがりしてきたので、ニラをからめる。これで何とか出来上がり、のはずだ。
餃子の焼けるいい匂いがしている。
「岩倉さん、ニンニクとショウガもご自分ですりおろしたんですか」
「そうだよ。オイスターソースも入れたよ」
競争心を煽られた。受験生のような気分を久しぶりに味わった。焦ったせいで、買ったばかりのワンピースにゴマダレのしずくをこぼしてしまった。
でもとにかく何とかやりおおせた。餃子は時間がかかるから、この分業はまあ適切だ。
それぞれを二皿に分け、テーブルに運んでから、二人ともビールを注文した。
「玲子さん、マイレジがまだかかってるよ」
「あらやだ、アハハ……いやあ、馴れないんで」
「さて、お手並み拝見……うん、なかなかよく出来てますよ」
岩倉さんは、厳しい調理師のような目つきをしながら、バンバンジーとレバニラを代わる代わる口の中で味わっていた。
「ありがとうございます。この餃子もほどよく焼きあがっていて、すごくおいしいです」
立ち込める料理の匂いで、岩倉さんの口臭が気にならなくなった。
それだけではない。共同作業をやった時の充足感のようなものが、さっきの彼の強引な印象を和らげている。
いっしょにお料理して、いっしょにそれを食べる。そのことが、わたしの気持ちをほぐして彼にいくぶん近づけたことは事実だった。