第49話 半澤玲子Ⅷの1
文字数 3,178文字
2018年10月24日(水)
昨日はずいぶん冷え込んだのに、今日はまた、9月下旬並みの暑さだという。それに昼夜の温度差が激しい。毎日何を着ていくかに苦労しなくてはならない。
まるで最近のわたしの動揺する心みたいだ。
おとといときのう、社内で続けて失敗を犯した。
ひとつは、おとといの昼休み、早めの食事から帰ってきた数人のグループとすれ違う時、エントランスに自分で活けたコリヤナギに腕が大きく触れ、花瓶をひっくり返してしまったのだ。ずいぶんぼーっとしていたようだ。花瓶は割れ、水が四方に飛び散った。
さくらちゃんが宣伝してくれたせいで、しばらく前からエントランスの活け花は、わたしが担当することになっていた。
ちょうどまた、活け花でもう一度頑張ってみようかなどと思っていた矢先だったので、金曜日に少しばかり凝ってみた。翌日岩倉さんに会う予定になっていたので、心の弾みも手伝っていたかもしれない。
投入れの口元に赤いバラを数本あしらい、コリヤナギを縦と横に大きく伸ばした。なかなか評判がよかった。それが災いしたのである。
きのうの失敗はもっとまずかった。
月ごとの収支報告書の明細に打ち込んだ数字に、一部間違いがあることを指摘されたのである。これを間違えると、決算から社員の給料まで、全部やり直さなくてはならない。給料日は明日。
中田課長が、何とも言えない複雑な目をしながらわたしのほうを見ていた。睨むというのでもなく、同情的というのとも違う。
面と向かって叱ることはしなかったけれど、部下のミスは上司の責任でもある。査定に響くことは覚悟しなくてはならないだろう。彼に意地悪されても仕方ないと思った。
ともかくこのミスのおかげで、きのうは深夜までかかり、帰りはタクシーだった。
さくらちゃんが自分から申し出て手伝ってくれた。最後まで付き合うと言ってきかなかったが、彼女を深夜まで引き留めるわけにはいかない。終電時間を見越して、ある程度目途がついたところで、帰ってもらった。
なぜこんな失敗を重ねたのか、理由はもちろんわかっている。
ミスの修復に費やしたきのうの残業中、一息入れようと、お茶にした。さくらちゃんがコンビニで買ってきてくれたおにぎりを食べた。
話は自然、彼女のお見合い(代理婚活)のその後を聞くほうに向いていった。あれから2か月くらい経ったかしら。
「ええ、それがですね。あれ以来、全然音沙汰なしなんですよ。やっぱ振られたんでしょうね」
さくらちゃんはさばさばした調子で答えた。
「そうだったの。それは残念ね」
「いいんです。希望なくしてません」
その声と表情がとても明るい感じだった。
「そうね、そのポジティブな姿勢が一番大事よね」
わたしは、いまの自分の気持ちを押し隠し、つとめて彼女を励ました。
「じつは、一か月ほど前に、婚活バスツアーっていうのに参加したんですよ」
ああ、そういうのもあったなと、思い出した。イベント系は年齢制限が厳しかったが、40代対象のバスツアーというのもないではなかった。
でも複数の見知らぬ人たちがいきなり同じ場所に集まって時間を共有するという企画にはなじめず、わたしは初めから候補から外したのだった。
でもさくらちゃんなら、いかにもお似合いだ。身を少し乗り出した。
「あらそう! それでどうだったの?」
「ええ。一応マッチングしました。わたしより2つ年上で、とても誠実そうな人です。話していて気が置けないっていうか。ツアーの最後にカップル誕生おめでとうみたいな大げさな儀式があって、3組の中の一組に入っちゃったんですね。そんときは、恥ずかしくって、ちょっとやめてくんないかなって思ったんですけど」
これはまんざらでもない雰囲気だ。さらに身を乗り出した。
「それから? その人とはデートしてるの?」
「はい。週一ぐらいで、二人の時間が空くときに」
さくらちゃんの頬がほんとにさくら色に染まった。これだから若い人はいい。
「まあ、よかったじゃない。今度は、きっとうまく行きそうね」
「だといいんですけど」
うん。これはほんとにうまく行きそうだ。わたしは、自分のことは差し置いて、心から祈らずにはいられなかった。くやしさ、嫉妬、そんな感情はみじんも湧いてこなかった。
話はわたし自身のことに戻る。先週の土曜日、20日午後4時。
わたしが少し早めにロートレックに着いて待っていると、岩倉さんは時間ぴったりに現れた。几帳面な人なのかな、と思った。そうか、先生だものね、と合点が行った。
ちょっと緊張した。なるべく薄化粧にして、グレーのツィードのワンピースに淡い水色のジャケット。落ち度はないか、急いで自分を見まわし、髪を整える。
岩倉さんは、写真よりももっと武骨な感じだった。身長のわりに頭が大きい。白髪混じりのふさふさとした髪にあごひげを生やしていた。スポーツシャツにウィンドブレーカーというラフな格好。山男みたいだ。そう、山歩きが好きだって書いてたっけ。
「初めまして。岩倉です。どうぞよろしく」
頭をほとんど下げず、気さくな感じで挨拶した。太い、よく通るバスだった。唇のずいぶん分厚い人だと思った。
「半澤です。どうぞよろしくお願いします」
「僕はコーヒー。半澤さんは?」
「わたしは……そうですね、じゃあカフェオレを」
慌てて答えた。てきぱきとことを進めていくのが好きなタイプらしい。
しばらく今年の異常気象のこととか、旅行や山登りなどお互いの趣味とか、当たり障りのない範囲で話をしているうち、だんだん打ち解けてきた。
日本の有名な山はだいたい登りつくしたので、還暦を過ぎたらアルプスやヒマラヤに挑戦したいという。情熱的なんだ。ついていけないのではないかと、ふと不安を感じた。
「お仲間と昇るんですか。それとも一人で」
「仲間と昇ることもありますが、一人のほうが多いですね。ほら、思惑がぶつからないで気楽じゃないですか」
孤独を愛する人らしい。
「すごいですね。山に憑かれる魅力って何ですか」
「そこに山があるからだ……っていうのは冗談で、やっぱり苦労して登頂した時の達成感でしょうかね。下界を見下ろしながらゆっくり深呼吸する。最高の気持ちです」
岩倉さんは、わたしの背後に広がる空間を見つめるようなまなざしをして、本当に深呼吸した。
ともかくも、話を合わせなくてはならない。
「高山植物との出会いなんかも素敵でしょうね」
「ああ、それもあります。ユキワリソウとかとかコマクサとかね。特にユキワリソウは可愛いですね。今年のゴールデンウイークに一人で剣岳に昇った時、咲いてたんですが、あの時は恋人に会ったみたいな気持ちになったなあ」
わたしは笑いながら、「まあ、よかったですね」と相槌を打ったが、ちょっと無神経だなと、かすかに思った。彼はこちらを気にするふうもなく続けた。
「イワベンケイって知ってます?」
「ああ、ごめんなさい、知らないです」
「急峻な岩場なんかの厳しい環境に生えるんですが、その名の通り、よくこんなところにって、その生命力の強さに驚きますね。こっちが必死に昇っている時に、さりげなく咲いてるんですよ。あれも感動的だったなあ」
それから彼はスマホを取り出して、最近撮ったといういくつかの花を見せた。わたしは顔を近づけて画面を覗き込んだ。イワギキョウ、シナノキンバイ、ミヤマリンドウなど、わたしも知っている花だった。どれもなかなか見事に撮れていた。
「スマホがなかった時にはね、大きいカメラで撮って、帰ってから図鑑で調べて、アルバム作りましたよ。5冊くらいあるかな」
「まあ。勤勉でいらっしゃる。拝見したいですね」
「今度持ってきましょう」
お世辞で言ったつもりだったのだが、彼はこれからもつきあい続けることを自明のように考えているらしかった。それとなく誘うテクニックともとれないことはないけれど、どうもそうとは思えない。