第73話 半澤玲子Ⅺの2

文字数 4,037文字



そして今日。

新課長の安岡さんは、思った通り厳しい人だったが、態度は意外と優しく、言葉遣いも丁寧だった。

本部の状況を早くつかもうという熱心さの表れだろう。部下を集めて、会議を開いた。経理の効率化を図るために、システムを少し変えたいと言う。

すでに部長の承認を得ているのだが、と断ったうえで、新しい会計システムの導入を提案した。そのための説明資料が配られた。

「政府が働き方改革を今年の4月に閣議決定して、来年4月に施行されますね。これに対応して、わが社でも、無駄な残業をなるべく減らして、みなさんにもっとゆとりを持って仕事に取り組んでほしいという方針が決まっています。経理部門でも、この方針に従う必要があります。というよりも、みなさん、日々実感されている通り、特に経理部門こそ、残業を減らせないネックになっていると言っても過言ではありません」

ここで安岡課長は、言葉をいったん切り、みんなの顔色を見た。たしかにその通りだ。経理は、なぜかほかの部門に比べて、手作業が多いのだ。みんなうなずいていた。

安岡さんは、それから、ちょっと言葉の調子をやわらげて、話を再開した。

「私も、静岡時代に苦労したんですよ。なんて経理は細かくて面倒なんだろうってね。それで気づいたことの一つに、各書類の仕訳が、書面項目別に分類されているでしょう。これなんですね。経営陣や現場から、ある事業を新しく始めるにあたって、昔の仕事を参照したいから、これこれのプロジェクトに関係した書類をそろえてくれないかって要求がよく来ますよね。ところが、こっちは、稟議書や契約書や請求書なんかをそれぞれ別々にファイリングしてる。でもあるプロジェクトって、それが行なわれたときには、こういう各書類がひとつながりの紐でつながってたはずなんですよね。ところが書類項目別に分類すると、バラバラになってしまってるから、それらをいちいち探し出して、紐でつなぎ合わせなきゃならない。それでないと、経営陣や現場の要求に応えることができないわけなんです。この部分が手作業になってる。だから残業が多くなっちゃうんですね。要求には期限がありますから、さあ、たいへんです」

これも確かにその通りだ。みんなこれで苦労してきた。再びみんながうなずくのを見て、安岡さんは満足そうに言葉をつづけた。

「もちろん、この問題だけが経理の非効率を生んでるわけじゃありませんけど、けっこう大きな問題であることはたしかだと思うんです。これはコンピュータにファイリングしてある場合にも、方法が今までのままだったら同じことですね。棚から探すのと、PCから探すのとそんなに変わらない。それで、あるプロジェクトごとにいろんな書類をさっとリンクできて、まとめて差し出せるようなシステムはないかって探したんですよ。専門家に任せずにね。そしたらあったんです。それがお配りした資料の「HOPE21 ITEM」ってやつです」

みんなは資料に目を注ぎ、急いで追いかけた。すぐには把握できない。戸惑いの表情が浮かぶ。

「ああ、いいです、いいです。すぐにはわからないですよ。パソコンで実際に動かしてみないと。私、静岡で導入してやってみたんです。初めはちょっと苦労しましたけど、慣れるとすごく効率的ですね。実際、残業時間減りましたよ。それでこちらでもさっそく導入してみてはどうかということなんです」

話は、何となく分かった。でも、そのITEMとやらに慣れるのがたいへんだな、やだな、と内心思った。わたしなど、旧式でやってきて慣れてるし、機械には弱いほうだ。年取ってから頭を切り替えるのは、かったるい。いいかげん仕事そのものにも飽きてきてるし。

そうしたら、藤堂さんが質問した。

「もし本当に残業時間減らせるんなら、取り入れることに大賛成ですけど、問題は、コストパフォーマンスと、適応の難易度、それと、一番知りたいのが、これまで積み上げてきたデータ処理の方法と中身を、新しいシステムに転換できるかどうかってことなんですけど」

さすが、キャリア組の藤堂さん。わたしが感じていたことをきちんと整理して言ってくれた。

何となく、古株の藤堂さんと、新進気鋭の安岡さんとの間で、火花が散りそうな雰囲気だった。

「いちいちごもっともな懸念だと思います。最後のご質問からお答えしますが、これは、システム自体にその転換の仕方が内蔵されてますから、そこをいじれば問題ありません。もちろん、項目別分類に復帰させることもすぐできます。相互置換が可能なんです。それから、コストパフォーマンスについては、全課入れ替えとして試算しまして、部長に報告して許可を得ております。まあ、業務量との関係にもよりますが、そんな不利益を出すようなことはないと思いますよ。中長期的には、確実に効率化が期待できます。それから、適応の難易度、これは申し訳ないんですが、みなさんのご努力で、できるだけ早く慣れていただくと申し上げるしかありません」

やっぱりね。それに適応するために、かえって残業が増えちゃったりして。

しかしこれは、部長のお墨付きを得たトップダウンだ。文句を言える筋合いではない。



お昼をさくらちゃんと一緒に食べた。さっそく午前中の会議の話になった。

「ねえ、新課長の話、どう思った?」

「正直言って、きついですね。ここだけの話ですけど、中田さんの時のほうが、ほんわかしててよかったです」

「そうよね。わたしも同じだわ。なんであんなに効率、効率っていうのかしらね。さくらちゃんは若くて適応早いからいいでしょうけど、わたしなんかおばあさんだから、また新しいシステムに変えるのかよって、なんかげんなりするわ」

「いえ、わたしもIT苦手だからよくわかります。でも、決まっちゃった以上はできるだけ早く適応するほかないですね」

「そうね。そう考えるしかないわね」

私は軽くため息をついた。それからもう一つ、別に考えていたことを口に出した。これはもっと大きな問題だ。

「それとね、働き方改革って、冒頭で言ってたでしょう。まるで既成事実だから、疑う余地がないみたいに。でもあれ、残業代ゼロ法案って言われてるわよね。残業減って賃金減らないんならいいけど、減った分だけ賃金も減るわけでしょう。わたしたちのためみたいなこと言ってるけど、結局、経営側が人件費削減しようって発想から出てるんじゃないの」

さくらちゃんは、うなずきながらすぐに応じた。

「ああ、たぶんそうだと思います。高プロがそもそもそうですもんね。あれって賃金を労働時間から切り離して成果で量ろうって発想ですよね。いまんところ、高所得者に限定してますけど、ああいうの一度やると、どんどんこっちにも降りてくるでしょう。気づいてみたら、わたしたちの年収でも、残業代は一切払いませんなんてなるかもしれませんね」

さくらちゃんとこういう話をしたのは、初めてだった。この子もそういうこと真剣に考えてるんだと思って、感心した。

「なるような気がするわ、きっと。でも、残業ってなくなるわけないのよね。仕事は繁忙期にはどっと来るんだから。私たち普通のOLにとっては、労働時間と賃金を切り離そうって発想がそもそも合わないと思うの。それに、ブラック企業がその習慣を悪用するわよね。なんか、いまの日本て、何でもアメリカのマネしておかしくなってない?」

「ええ。いろんな面でそうですね。非正規もどんどん増えてるし。だから若い人、なかなか結婚できないんですよね」

若い人……さくらちゃんの口から「若い人」なんていうの、似合わない気がする。そうだ、彼女自身、いま、結婚に限りなく近づきつつあるんじゃなかったのかしら。話題転換。



「あ、そうそう。結婚て言えば、さくらちゃん、その後どう?」

「わたしですか。ええ。続いてます、何となく」

前のように溌剌とした雰囲気ではない。

「何となく? まだゴールじゃないってこと?」

「ええ。それが、二人の間では問題ないんですけど、向こうのお家との関係とか、いろいろあって」

「そうなの。たいへんね。ちょっと立ち入ったこと聞いていい?」

「どうぞ」

「相手の方って、何してる方なの」

「野田でお醤油の卸売やってるんです」

「ああ、サラリーマンじゃないの。」

「ええ」

「野田っていったら、キンケイ醤油のあるところでしょ」

「ええ。系列化されてはいるらしいですけど、一応独立した問屋さんなんですね。それで、ご両親もご高齢で、一人っ子だから、跡を継がなきゃならないんです。結婚するなら、家に入ってくれって」

「それで、さくらちゃんは、OKなの?」

「私自身は、まあ、ちょっと抵抗感はあるんだけど、覚悟はしてるんです。でも私の両親、特に母が反対なんですよ。これまでと全然違う環境だし、お姑さんがいれば苦労するばかりだし、先行きも不安定だって」

「……そうかぁ。結婚となると、やっぱりいろいろと出てくるのね。昔より、そのへん、難しくなってるみたいね」

わたしは、わがことのように、さくらちゃんのこれからが少し心配になった。

「いいんです。きっと何とかなりますし、してみせます」

「そうね。がんばってね」

「はい。それより、先輩。最近、なんか華やいでますよ。わたし、何かあったとにらんでるんですけど。こないだも素敵な服着てたし」

やっぱり悟られるのか。とぼけてやり過ごしてもよかった。でも、こっちがさくらちゃんの行状を突っ込んでる以上、黙ってるのはフェアじゃない。

「うん。まあ、ちょっと付き合い始めた人がいるの」

「わあ、すごーい! 年上ですか、年下ですか」

「かなり年上ね。でも、まだ、そんなんじゃないのよ。どうなるかわからない」

「どうにかしてくださいよ」

昨日、展覧会デートをしたこと、これは話した。でも、どういうふうに知り合ったかは、「秘密」ということにしておいた。彼女に婚活サイトを進めておきながら、じつは自分もそれをやっていたというのを告白するのは、いかにも照れ臭かったからだ。
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