第89話 半澤玲子ⅩⅢの5

文字数 4,393文字



エリの家は千駄木駅から6分ほど歩いて谷中の中層マンション。庶民的な商店街の中にある。わたしのところよりも古いけれど広い1LDK。便利だというので2階に住んでいる。

わたしは特に下町を好んだわけではないけれど、エリの場合ははっきりしていて、住むなら谷中、と決めていたそうだ。

ピンポン押して、「わたし」と言うと、「散らかってるけど、どうぞ」と顔を出した。やつれているようには見えない。


おいしいコーヒーをごちそうになりながら、彼女が話し始めるのを待った。

「要するに、ばれちゃったのよ」

「うん……」

「11月半ば、奥さんから電話があって、会いたいと言って喫茶店の場所を指定してきたの。怪しいと思って彼のスマホのメール記録を見たって言ってた。電話番号も登録されてるるしね。そいで、まあ、型どおり、切れてくれと。凄い剣幕だったよ。でも、こっちにも防戦の仕方がないわけじゃない。最初はこっちも騙されてたわけだし、深い関係になってからあとで知ったってウソつくこともできたしね。それに、奪ってやろうかって覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってたんだ。だけど、何か言おうとすると、向こうはすぐ感情的んなって、大声出して、全然聞く耳もたない。まわりに客もいるのにね。途中から、こりゃダメだと思った。そいで、とにかくらちが明かないから、この場は謝って、切れることを約束しておいたってわけ。彼も深く謝罪して約束したんだって」

淡々と話してはいたが、さすがに奥さんとの出会いの部分では、感情の昂揚を隠せないようだった。その調子から、わたしは彼女の今の心境を読み取ろうとした。でもそれはできなかった。

「覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってた」というのは、その時点での心境、問題は、いまの心境と、これからどうするかだ。まだ半月しか経っていない。

「彼からはその後、連絡ないの」

「あったよ。3日ぐらい経ってからかな。悲しませちゃって申し訳ないって、しきりと謝ってた。妻のほとぼりを覚ますのは自分の責任だから、そのためにしばらく時間が欲しい、君とは別れたくない、これからどうするか、情勢を見ながら考えよう、少し落ち着いたら、こちらから必ず連絡するから、それまで待ってくれってね」

「奥さんと別れたいって言ってたんだよね。その言葉、いまでも信じてる?」

わたしの質問に、エリはしばらく答えなかった。冷めたコーヒーを口に運んでから、おもむろにつぶやいた。

「状況が変わったからね。信じてるってはっきりは言えないけど、でも、できるできないは別として、そういう気持ちが今もあることはまあ間違いないかなあ」

わたしも返す言葉が明確にあったわけではない。でも何か言わなくては、と思った。

「……わたし、あれから思ったのね。婚活で独身を装ってたのって、そんなに悪いことかなって。もしエリの言うように、別れたいって気持ちがほんとにあったんだったら、自然の勢いで他に女性求めるでしょう。それって、ふつうの出会いで不倫になっちゃうのとそんなに違わないんじゃないかな」

「そう言ってくれると、なんか救われる気がする」

エリはうるんだような目をしながら、わたしの手を軽く握った。

わたしはその手を握り返しながら、折り重ねるように言った。

「こういうことになって、かえって彼氏のその気持ちにドライブがかかるってことはないかしら」

「うーん、それはどうだろうか。逆も考えられるよね。離婚ってひとりじゃできないからね。奥さんのあの剣幕じゃ、向こうが承知しないんじゃないかって気もする」


それを聞いて、わたしは、誰だったか、昔読んだ女性作家の不倫小説の一節を思い出した。

これを言うと、少しはエリを元気づけることになるだろうか。少し考えてから言ってみた。

「ある小説で読んだことがあるんだけどさ、結婚生活って、年季が入るとたいていは愛情なんて冷めちゃって、あんなの、ただの給料運びだから、いなくてもいいなんて思うようになることが多いじゃない。ところが、いったん裏切られると、途端に逆上して、『あなたを愛してるのよ。その私を裏切るなんて!』なんていうんだってさ。なかなか真相ついてるなって思った」

「なるほどね。結局プライドの問題なのよね」

「あと、この人との関係を続けてきたっていう日常生活の重みみたいなものに依りかかってるんだと思う」

「そうね。そこを剥がされちゃうことの不安が大きいんだろうね。それと、他人事みたいな言い方でおかしいんだけど、人によりけりで、もう戻らないものは仕方がないってあきらめるケースもある一方で、逆に復讐の鬼みたいになっちゃって、意地でも別れてやるもんかっていう場合とか、いろいろあるんじゃないかしら」

「その奥さんの場合はどうだと思う?」

「たぶん、あの調子じゃ、後者でしょうね」

「で、エリは? もう闘わない?」

彼女は、コーヒーポットの取っ手を握ったまま、また少し考えるふうを示した。

「うーん。彼のこと、いまでも好きだし、これも彼次第みたいなところあるしね。……コーヒー、もう一杯、どう?」

「いただくわ」


カーテン越しに窓の向こうから、買い物客たちの喧騒が伝わってきた。そういえば、もう師走だ。

テーブルに戻ってコーヒーを二人のカップに注いでから、エリは、伏し目になってしゃべり始めた。さっきよりずいぶん冷静で、静かな声になっていた。

「これも他人事みたいなんだけど、仕事柄、よく統計資料とか見るじゃない。こないだ、こういうの見つけたんだ。不倫を許すかどうかっていう意識調査があってさ、それがなんと、彼の勤めてる広林堂の調査なんだけどね。もちろん彼とは何の関係もないよ。で、それが年次変化を追いかけてるのよ。それがなかなか面白くってね。面白いというよりも身につまされて考えさせるっていうか。要するに、この20年間で不倫に対する世間の見方はより厳しくなっているっていうのね……そうだ、『お気に入り』に入れてあるから、見てもらった方がいいね」

そう言って彼女はタブレットを持ってきて、テーブルに立てた。

「こっちに座らない?」

わたしは彼女の傍らに席を移した。腕と腕とが接するようになり、二人のセーターを通して、肌のぬくもりが伝わった。わたしが彼女を慰めたり励ましたりしなくてはならないのに、なんだか彼女に庇護されているような気分になった。

「これ、広林堂のLTLってところで出してるデータベースなんだけどね、1500項目にわたって衣食住や仕事や価値観とか人間関係について調査してるのよ。そんなかで、『好きならば不倫な関係でも仕方がないと思う』っていう設問があって、その結果が24年間でどう変化したかを載せてるわけ。直近2016年だと、ほら、この円グラフで「そう思う」が9.8%、10人に一人ね。ところが、こっちのグラフ見て。98年には2割超えてたのに、この20年間で半減してるのね」

「ほんとだ。そう言えば90年代って、快楽園ブームとか、石塚純の『不倫は文化』なんていう言葉もはやったわね」

「うん。それでね、これ分析してる人が、『世帯給与月収』のカーブとそっくりだって、このグラフを載せてるのよ。97年にピークに到達するんだけど、だんだん下がって直近では49万円まで下がっちゃってるのね」

「うわあ、下がり具合がそっくりね。つまり、家計が苦しくなると、不倫どころじゃないってことね」

「うん。やっぱ、関係あるだろうね。それと、これみて。意外なのが、この不倫肯定派の下落の足を引っ張ってるのが、20代、30代の若年層だってことなのね」

「ほんとだ。それって、若い人たちがいちばん経済的に苦労してて、『不倫なんて冗談じゃない。そんな暇あるわけねえだろ』って感じかな」

「たぶん。90年代の若い女性って、男と同じくらいかそれ以上に肯定派が多かったのにね。わしら40代以上は横ばい。その変化の違いが目立つよね。それともう一つ、このレポートには、『いくつになっても恋愛をしていたいと思う』という設問があってさ。98年に『そう思う』が49.9%でピーク、2016年だと33.1%で最低。しかもさ、こっちは、20~30代の男は急速に意欲が低下してて、直近だと中高年層を下回るほど落ち込んでるのに、20~30代の女は、下がってることは下がってるけど、比較的高止まりなんだよね。

「なるほどねえ。韮崎絵理研究員は、これをどう分析しますか」

「つまりさ、若い女性は、不倫恋愛の現実的な余裕はなくしてて、それが道徳的な意識にも反映してる。だけど、じつはロマンチックな夢だけは捨てないでいる。ところが若い男性のほうは、そんな夢すら捨てちまってる」

「そうすると、不謹慎な言い方になるけど、若い女性って、なんかかわいそうね。不倫でも何でも、とにかく恋愛の夢を持ってながら、それが実現できないってことよね。希望と現実との間にギャップがあり過ぎるわけでしょう」

わたしはさくらちゃんのことが心配になってきた。こないだの表情、言い方に、何となく影がつきまとってた。

「そういうことになるね。いくら恋愛したくたって、同年代の男がこれじゃね。いきおい年上を狙うことになるのかな。」

「もしそうだとすると、不倫になる可能性が高いってことかもね。だってこれ見ると、50代、60代男性の恋愛願望はけっこう旺盛じゃないの。それってふつうに考えたら、妻帯者が願望満たすためには、若い女と不倫するってことでしょう」

「そうかもね。でも、じゃあ、50代以上の男性がみんな結婚できてるかっていうと、いま、4人に一人は結婚経験がないんですよ」

「一度も?」

「一度も」

わたしは、佑介さんがバツイチであることと、岩倉さんや中田さんが未婚者であることと、両方を思い浮かべた。佑介さんは「4人に一人」からは外れるわけだけど、長い間独身だったんだから、似たようなものかもしれない。身寄りがないって、やっぱ、寂しいことよね。

そういえば、佑介さんはお嬢さんとは会っているのか、まだ聞いてみなかった。いずれにしても、女だけじゃなく、男も、いや男のほうがもっと寂しい状態なのかもしれない。

「どっちがって一概に言えないけど、かわいそうっていえば、男もかわいそうだよ」

エリが、わたしの思ってるのと同じことを言った。

これから男と女はどうなるんだろうか。わたしはいま仕合せ気分だけど、それだって、どうなるかわからない。そして、エリとエリの彼氏は……?

「みんな寂しいのね」

「みんな寂しい」

これ以上、エリの気持ちを聞いても仕方ないと思った。それにしても、自分の置かれた「てんやわんや」の状況のなかで、静かに自分を客観視しようとしているエリに、改めて畏敬のようなものを抱いた。冷たい女、というのではなかった。彼女なりの懸命のもがきのようなものがその冷静を装った背後に感じ取れたのだ。
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