7. Guru  初めての師との邂逅。

文字数 1,814文字

 ボクの覚醒状態は続いていた。先に言っておくと、数ヶ月後、ボクは日本に帰り京都で働きだすのだが、その時までこの状態は、おだやかな変化を伴いながらも続いていく。しかし、やがてはこれは崩壊してしまう。然るべきタイミングにおいて。総期間ととしては二百日ぼどだったと思う。しかしこれには紆余曲折のドラマを経てからの話になる。

  やがてボクはアメリカで働くことを考えだす。悠長に短大生などやっている場合ではないと思ったのだ。今の自分ならばアメリカに溶け込むことは容易に思えた。何よりも実世界を生きること、こちらの社会で今のボクがどれだけ頑張れるかを確かめたかったのだ。アメリカの”自由”と”責任”という価値を非常に重んじる気風、英語の直感的な味わいを甚く気に入りだしていた。(単語を調べる中、派生の源や構成するシラブルの意味を細かく考察すると、なんだみんな知っているんだと思った)。今の生活のの延長線での企てでしかないと考えてしまっていた。皿洗いから始めるでよかった。

 日本にいる父に電話で相談した。父は困った様子であった。しばらく考えさてくれと電話は切られた。(少し前には、父に「世界が観えた」と伝えてしまっていた。父は激怒した。そういうことを言うやつは、ろくでもないと思ったのだろう。ましてや自分の息子がである。内心えらく心配をしたいたであろう)。しばらくして父から、お前に一度会いたいという人がいると連絡が入る。吹田支部のロータリーの集会で、どなたかに相談をしてくれたのだ(父はメンバーだった)。なんでも、近くサンフランシスコに来られるそうだ。日時と場所を教えてくれた。失礼がないように、絶対に時間には遅れないようにと念を押された。ボクはそれを確約し、ありがとうと電話を切った。なんとなくだったが、あの父にしてはえらく気を使っているような様子に思えた。よく碁を打つ年配の同じメンバーの人に、「XXくん」と”君”付けで呼ばれることでさえ癇に障る人なのだが。これはあまり縁のなかった人に集会で相談したのだなと思った。ことは進行してくれていた。指定日時はそう遠くもなかった。

  当日、昼過ぎにボクはそれなりに身なりを整えて車で出かけた。ダウンンタウンで時間を潰し、夕刻に所定のレストランへと向かう。ビルの二階だったと思う。店の入口あたりに日本人らしき人が2人いた。父より年配だった。挨拶を行い、目当ての人で間違いはではないことを確認した。「H本さんですか?」。「君がF村君か?」
中へと移動し、窓際のテーブルにすわった。通りに向けての窓は全開状態だった。名刺をいただく。会計事務所の所長さんだった。「この人からも名刺もらっとき」とH本先生はボクに言った。(なんとなく、ご縁は大切にせなあかん、どこで生きるか分からんで)に聞こえた。もう一方は渡す気はなかったであろうが、これを察っしてかボクが求める前に名刺をご自身から渡して下さった。XX電機の社長さんとあった。お二人とも京都人だった。紹介されたのは会計士のH本先生の方であった。先生は色んな京都の会社の相談役をやっているとのことだった。なるほど、もの静かで品もありえらく落ち着いたご様子だったがメガネの奥の眼光と世慣れた言葉の言いまわしに、只ならぬ人だとの印象があった。今回も、もう一方の求めでアメリカに仕事で同行されて来られたとのことだった。

  なんの話をしたのか殆ど憶えていない。ボクは日本ではダメな理由、日本社会批判論の様なことを語ったと思う。側で聞いていたXX電気の社長さんは、ボクがH本先生にドヤされると内心思っていたに違いない。ところがH本先生はボクが語ったことに、「その通りやな」と頷かれたのだ。電機の社長さんの拍子抜けしたような驚きの色をボクは見逃さなかった。先生は『分かった』、『誰に頼もうか?』、『誰それが良いわ』とか言われて、「後で連絡入れます』とのことでこの集会はお開きとなった。

追記:
 ボクの服装は、ひどかったそうだ(後日談として聞いた)。とてもではないが礼節に適うものではなかったそうだ。SFのPork Streetでいたく気に入って買ったグレイの革ジャンをはおって行ったのだが。
 H本先生には日本に残してきている彼女の面倒もみていただくことになる。ボクが連れて行き、引き渡したに等しい。これは少し先の話しになる。










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