⭐︎. Royal Road 十字架の道。

文字数 17,047文字

【The Imitation of Christ】 by Thomas A Kempis
The last part of Book 2., "Suggestions…. Toward the inner life"
No.12, "Of the Royal Road of the Holy Cross."

第二部『内的生活に関しての訓戒』における最終部;
第12章、聖なる十字架(磔刑)、その栄光たる道

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十字架は、人生の途上において遭遇するすべての障害、苦難、災禍、災難、確執、苦悩、等のこと。
極論としては、人の存在が持つカルマからの必然である。
楽園を追放されたこと、呪われたその境遇にこそ、これらは原因を持つ。(トーカー)
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To many people this saying seems harsh: "Deny yourself, take up your cross and follow Jesus. "But it will be much harsher to hear that final word: "Depart from me, you accursed, into everlasting fire." They who gladly hear and follow the road of the cross now will have nothing to fear later on when they hear of eternal damnation. This sign of the cross will be in the heavens when the Lord comes to judge. Then all the servants of the cross who, in life, conformed themselves to the Crucified Lord, will approach Christ the Judge with great confidence.

『我欲を断ち切り、あなた自身の十字架をおい、そしてイエスに従え』。
多くの人にとって、この言葉は厳しいものに思われるだろう。しかし、『呪われたるものよ、私から離れ、尽きることのない焔の中に入れ!』と、最後の言葉として、この呪いの宣告を聞くことは遥かに過酷であるに違いない。喜びをもってこの御言葉を聞き、十字架の道に従う者達は、やがて訪れる永遠の審判の時に至るまで、もう何も恐れるものはないであろう。審判者であられる主が再臨される時には、聖なるこの十字架の印が天に現れる。そしてすべての十字架の僕(しもべ)たちは、審判者たるキリスト元へと、大いなる信頼を携えて歩みよることにあるであろう。それは、彼らが人生において、自身を『磔刑に処された主』と一致するよう、その教えに従って生きてきたことによる。

Why then are you afraid to take up the cross, the way that leads to the kingdom of God? In the cross is salvation; in the cross is life; in the cross is protection; in the cross is heavenly sweetness, in the cross is strength of mind; in the cross is spiritual joy; in the cross is supreme virtue; in the cross is perfect holiness. There is no salvation for the soul nor hope for eternal life, except in the cross.

なぜあなたは、十字架を担うことを恐れるのか?。
その道が神の王国へと導くものであるにも関わらず!。十字架に『救い』がある。その中に、『命』が、『守り』が、『天の甘美さ』が、『心の強さ』が、『霊の喜び』が、『至高の徳行』が、『完全なる聖性』があるのだ。十字架の道を除いて、永遠の命へと至る為の道はない。それをおいて、魂の救済や希望はありはしないのだ。

So take up your cross and follow Jesus, and you will go on the eternal life. He went before you carrying his cross, and on the cross he died for you, that you too may carry your cross, and that you too may die on the cross. If you die with him, you will live with him. If you join him in suffering, you will join him in glory.

ならば、あなたはあなたの十字架を取りなさい。そしてイエスに従うことだ。そうすれば、あなたの命は永遠のものとなる。あなたの前に、彼は十字架を背負って歩み、そしてあなたの為に、そこで死んでくださっている。『あなたも自身の十字架を担うこと、そして同じくその十字架において死することができるように』と…。

もしあなたが、彼と共に死ぬなら、あなたは彼と共に生きる。もしあなたが、彼の苦しみを同じく受け入れるならば、あなたは彼の栄光にあずかることとなる(*0)。

Listen closely. Everything is founded on the cross, and everything consisted in dying on it, and there is no other road to life and to true inner peace than the road of the holy cross and of our daily life and to true inner peace than the road of the holy cross and of our daily dying to ourselves.

注意をもって、よく聴きなさい。すべての命は十字架に、その基礎を持つ。そしてすべての命は、そこにおいて死ぬよう作られているのだ。十字架による聖なる道をもってしか、また日々自己を虚しくする行いにおいてのほかに、他に道はない。これは『命』への、そして『真なる内的平和』へと至るための唯一の道なのだ。

Walk where you will, seek where you will, and you will find no loftier way above not safer way below the the way of the holy cross.

あなたの行きたいところを歩きなさい。あなたの求めるところで探してみなさい。そうすれば、やがてあなたにも分かるはず。十字架による聖なる道よりも、さらに高尚な道などないことを。それ以上に、より安全な道などありはしないことが。

Plan as you like and arrange everything as best you can, yet you will always encounter some suffering whether you want to or not. Go wherever you will, you will always find the cross. Either you will always find the cross. Either you will feel physical pain or spiritual pain.

思うままに計画をたて、あなたが最善だと思うよう、全てを可能な限り整えてみてみなさい。それでもあなたは、望もうが望まないかに関わらず、いつもなんらかの苦難に出くわすことになるだろう。あなたの行きたいところに行ってみなさい。あなたは、何処ででも十字架を見出すことになる。絶えず十字架に遭遇するか、肉体的な痛みもしくは精神的な苦しみに悩まされるかのどちらかだ。

Sometimes God will leave you, and sometimes a neighbor will upset you; even worse, you will sometimes be a burden to yourself! You can find neither remedy nor comforting which can free you or relieve you, but you must bear it as long as God wishes. God wants you to learn to endure troubles without comfort, to submit yourself totally to him, and to become more humble through adversity. No one feels in his heart what Christ felt in his Passion, except the person who suffers as he did.

時に、神はあなたから離れ去ってしまわれる。
そして隣人等は、あなたに辛く当たるようになるであろう。さらに悪いこととしては、あなた自身そのものが重荷となり果てる!(*1)。その時には、救済も、あなたを自由へと解放する癒しの関わりも、見出すことは叶わない。あなたは神が願い給うだけ、その期間を耐え忍ばなければならない....。

彼は、あなたに患難を耐えることを学んで欲しいのだ。なんの救いがなくとも、それでもあなたが自身のすべてを彼のみ旨へと服従させることができるようにと。その逆境を通じ、さらに謙虚さが深まるようにと…。これが彼の真意としての願いだ。

キリストが受難において、どのような思いであったのかを知ることは誰にもできない。
彼がしたように受難を受け入れた者を除いて。

So, the cross is always ready and waits for you everywhere. You cannot escape it no matter where you run, for wherever you go you are burdened with yourself, and wherever you go, there you are. Look up , look down; look out, look in. Everywhere you will find the cross, and you must endure patiently if you wish to have inner peace and gain eternal life.

さて、十字架は絶えず準備を整え、あなたをあらゆる箇所で待ち構えている。あなたには、それから逃れる術はない。あなたがどこへ走り去ろうが、どこへ逃げ込もうが、あなたの存在そのものが重荷なのだ。どこにあろうが、あなた自身は、そこに在る。見上げてみよ、見回してみよ、外を、内を。あらゆるところに、あなたは自身の十字架を見出すであろう。あなたは忍耐強く、それらを耐え忍ばなければならない。もし、あなたが、内面における平安を、そして永遠の命を乞い願うならば。

If you bear your cross willingly, it will carry you and lead you to your desired goal where suffering will end, but that connot happen here. If you bear your cross unwillingly, you will make a greater burden for yourself—and you must still carry it, in any case. If you fling aside one cross, you will certainly find another and, perhaps, a heavier one.

もし、あなたが十字架を担うことを「よし」とするならば、それはあなたを運び、あなたを願いのゴールである”苦しみの終わる世界”へと導くだろう(ただしそれは、今生における話ではないが)。
もし、あなたが十字架を、不本意に担うとするならば、とんでもない重荷を自分に負わせることになる。どのように事態が移り変ろうが、あなたがそれを運び続けることに、まったく終わりがこなくなるからだ。
もし、今ある十字架を傍へと投げだすならば、恐らくは他のもっと重い十字架をあなたが担うことになるのは確かなことだろう。

Do you expect to escape what no one has ever avoided? What saint was there in the world without crosses and afflictions? Not even our Lord Jesus Christ spent one hour without the anguish of his Passion as long as he lived. It was necessary that Christ should suffer and rise again from the dead and so enter into his glory. So why do you ask another way, different from the royal road, which is the way of the holy cross?

あなたは、誰も逃れることが叶わなかったことからの脱出をあえて期待するというのか?。この世において、数々の十字架を、苦悩の多きを、味合わなかった聖人がはたしていただろうか?。主たるイエスキリストでさえ、そうはありえなかったのだ。彼は生きている間、磔刑における激しい苦痛を思わずに、一時さえ過ごされることはなかった。『キリストは苦しみを受け、死者の中よりよみがえり、そして彼の栄光へと入る』は、定められし出来事だった。であるならば!、なぜあなただけは、違う道を求めたいなどと言えるのだ?。栄光の道たる、聖なる十字架をさしおいて、他にどんな道があると思うのだ?。

Christ’s entire life was a cross and a martyrdom, and will you look for rest and happiness? You are deluded if you look for anything other than affliction, for our entire mortal life is surrounded by crosse. And the more we progress in the spiritual life, the heavier our crosses will be, for the pain of our separation from God increases in proportion to our love of God.

キリストの全人生は、まさしく十字架そのものであり、また殉教の道であった。
あなたは人生に、やすらぎや幸福といったものを探し求めるというのか?。もし、あなたが苦悩以外の何かを、そこに期待するならば、あなたは何か思い違いをしていることになる(*2)。死を定められし人の生の総体を、十字架が、いたるところで取り囲んでいる。そして、さらに我々が、霊としての生活において進歩向上を加えるならば、さらに重い十字架を見いだすことともなる。神への愛が膨らみ、神より離れてしまっていることゆえの心の痛みが増し加わってしまうが為に…。

But one who bears many crosses is not without some comfort, for he knows the great rewards that will come to him by patiently accepting God’s will. At the same time that the bends under the weight of his cross, his burden is changed into divine comfort, for he knows that God will reward him for his efforts. And the more a person’s body is weakened by afflictions, the more his spirit is strengthened by inner grace. Sometimes, through the love of conforming himself to Christ’s cross, a person is so comforted by his trials and afflictions that he does not want to be without them, for he believes that the more and heavier burdens he can bear for Christ, the more acceptable he will become to him. For such a person, patiently living out God’s will becomes a blessing.

しかし、多くの十字架を耐え忍ぶ者に、慰安がまったくないわけではない。
彼は、現れてくる苦境を、神の意志として潔く受け入れる。彼は、やがて大いなる報酬がもたらされることを知っているのだから。同時に、十字架の重みに耐えかねて身を屈めることになったとしても、それさえも聖なる慰めとして、彼には覚えられてしまう。彼は、神が彼の努力に応じて報いてくださることが分かっているが故に。

また、彼の肉体が苦難により弱まるなら、内へと送られてくる恩寵により、彼の精神はさらに強められることとなる(*3)。時に、キリストの十字架と自己を一致させたいという愛の思いから、彼は試練と苦難に喜びでさえ見出すようになる。生来的には、彼はそんなことはできはしないのだ。それなのに!、さらに、より厳しい重課を背負わせられようが、彼はキリストの為にと、これを耐えることができてしまう。より多くを、「彼の為ならば」と、受け入れることができるようになる。これは偉大な行為だ。このような、神の意志を忍耐強く生きる人間こそが天恵なのだ。

It is not our strength but Christ’s grace which can and does accomplish such great things in us. Christ’s grace enables us to embrace warmly those things from which we naturally recoil. It is not in our nature to bear the cross, to love the cross, to think humbly of of ourselves, to avoid seeking praise, to suffer insults willingly, to think humbly of ourselves, to appear humble to others, to endure adversity and loss, and not to seek prosperity as our first goal, If you take a look at yourself, you will see that you can do none of this alone, but if you confide in the Lord, he will give you heavenly strength and all that you have chosen to do will become easier. You will not even fear your enemy, the devil, if you are armed with faith and sealed with the cross of Christ.

この偉大なことが行い得る、成し遂げられるのは、人間の持つ生来からの強さによるものではない。これもまたキリストの恩寵によるものなのだ。キリストからの恩寵、それは我々を変えてしまう。本来ならば尻込みするような内容でさえも、穏やかに受けとめることができるようになってしまう。それは我ら人類の本性としてはできないこと、…例えば、十字架を耐え忍ぶこと、それを愛すること、自身を蔑むこと、誉められることを辞退すること、皆に対して身を低めること、反対されようとも、侮辱されようとも、その逆境損失を受け止め、ただ耐え忍ぶこと、第一目標として栄華栄達を追い求めないこと…。どうだね?、自身の心に正直に訊くなら一つとして自分一人で進んでできることとは思うまい。しかし、全面的に主に信頼をおくならば、彼は、あなたに天来の強さを持たせてくださる。あなたが選んだものは、すべて、易きものへと変わる。あなたは敵でさえ恐れなくなる。(悪魔をだ)。これは、もしあなたが信仰で武装し、キリストの十字架で覆われる(封印される)のならば(*4)の話ではあるが。

So, as a good and faithful servant of Christ, brace yourself to bear the Lord’s cross with valor; out of love for you he was nailed to it.

よって、キリスト従者として良く、また信仰厚くありなさい。勇気を持って、主の十字架を負うことに覚悟を決めなさい。あなたへの愛の思いから、彼は十字架に釘打たれることを忍ばれたのだから。

Be ready to bear many hardships and every kind of misfortune, for you will surely experience them wherever you are and wherever you may try to hide. It must be so. There is no way to avoid it; you can only bear it patiently. Drink lovingly of the chalice of the Lord if you wish to be his friend and to share his life. Leave all divine comforts to God; let him deal with them as he chooses. As for you, be ready to bear up under afflictions and consider them to be great consolations.

しっかりと心の準備をしておきなさい。これよりのち、多くの困難困窮苦境が、あらん限りの不幸が、お前を訪れよう。どこにお前が居ようが、いかなる所に隠れ潜もうが、お前がそれらを味わうことになるのはもう定めである。そうであるべきことなのだ!。避ける術はない。お前は、ただひたすらに耐え忍ぶのだ。この主の賜る杯を、愛しい思いをもって飲み干せ!。これも、お前が彼の友としてありたいと願うのならば。彼の命を共有することを求めるならばの話しではあるが…。

現在あるあなたの持ち物、天より給いしの恵のすべてを、一旦神へとお戻しせよ。彼は、御心において、いつかそれらを改めて賜ることもあろう。あなたは、自身の為として、苦難の状況に陥っても心折れぬよう準備をしておきなさい。苦難もまた、大いなる恵としての価値があるのだということを理解しておきなさい。

For even if you were to endure all the world’s surfing all by yourself, it would still be nothing compared to the future glory that only a little suffering would earn for you.When you have come to this, that enduring pain and sorrow for Christ’s sake is sweet and pleasing to you, then think that all is well with you, for you have found paradise on earth. As long as suffering is hard for you and you seek to avoid it, all will go wrong with you, and the very trouble that you run from will hound you wherever you go.

もしもだ…世界の不幸苦しみ、そのすべてをあなた一人が全部背負ったとしても、あなたが後に受ける未来の栄光と比べれば、それもたいしたことではないのだ。あなたは、わずかばかりの犠牲で、その栄光を得ることになる。あなたがこのことを理解しさいすれば、キリストのために苦しみや悲しみに耐えることは、甘美なる喜びへと変わる。そうなるならば、さあ考えてもみなさい…。「もうすべてが、あなたにとっては、良きこと」となってしまうことを。あなたは、この『地上における楽園』を見出すこととなる。

受難を、ただ厭わしいものとして思う限り、あなたはそれらからを避けるべく道を探してしまうだろう。しかし、そうしたが為に、あなたにとっては、すべては悪くなるばかりとなる。あなたが逃げだした困難ごとは、どこへ逃げようとも、あなたを追うことを止めはしない。

If you resign yourself to what must be— that is, that we must all suffer and die—you will feel much better, and you will find peace. Even if you were caught up to the third heaven with St.Paul, that would be no guarantee that you will not suffer adversity. “I shall show him,” said Jesus, “how much he must suffer for may name.” So, it remains for you to suffer if you wish to love Jesus and to serve him always.

もし、あなたが十字架の運命を受け入れることを決意したならば、つまりは、”我らは皆、苦しみ、そして死なねばならない” を。あなたは、ずっと気分が楽になる。そうして、平安を、あなたは見いだすこととなる。

もし、あなたが聖人パウロと共に『第三天』へと挙げられようが、以降、受難の苦しみからの解放が保証されるわけでもあるまい。イエスは、かって言われたではないか。『私は彼に示そう…』『彼が、私の名において、どれほど苦しまねばならないかを』と。そう…この言葉は苦しむあなたの為に残された。もし、あなたがイエスを愛し、いつも彼に仕える存在たらんと欲するならば。

If only you were worthy of enduring something for the name of Jesus! What great glory would be yours! How much joy would you give to God’s saints! What an example you would be to your neighbor! For everyone praises a willingness to endure hardships, but only a few are willing to do it. So, you gladly ought to suffer a little for Christ; many people suffer much heavier things for the world.

もし、あなたがイエスの名において、何かをただ我慢しているだけだとしても! なんと偉大なる栄光が、あなたのものになることか!。どれだけ多くの喜びを、天国における神の聖人達が心に覚えられることか!。なんたる模範であろうかと、近しい人たちの目には写ることか!。誰もが、進んで苦難を耐え忍ぶことに賞賛を贈りはする。が、しかし、なんとその行いを志す人の少ないことだろう。よって、あなたは喜んで、キリストの為を思い、苦しみを少しでもいいから負うべきである。多くの人々が、この地上の世界では、ずっと重く悲惨な出来事で苦しんでいるのだから。

Know for certain that you must lead a life that focuses less and less on yourself. The less self-centered you become, the more you become centered in God. Your are not fit to understand heavenly things unless you resign yourself to bearing adversities for Christ. Nothing is more pleasing to God, and nothing is better for you in this world than to be willing to suffer for Christ. If you had the choice, you would choose to suffer adversities for Christ than to be comforted and put at ease, for you would be more like Christ, more like all the saints. Our worth and our spiritual progress do not rest on warm feelings and God-given comforts, but rather on patiently enduring great calamities and trials.

あなたは生活において、あなた自身への心遣いを、なるべく少なくしていかなければなりません。このことは、ちゃんと理解しておきなさい。自己の求めとの関わりを無くしてしていかねばならない。そうなればなるほど、反対に、神を根源なるものとして絶えず意識するようになっていきます。天界における事柄について理解することは、まだあなたには相応しくありません。あなた自身が、まずキリストの為に逆境を耐え忍ぶこと。これに従いきることの方が先決です。『自発的にキリストの為に自分自身のすべてを捧げる』、これ以外に神が更に喜ばれることはありません。そして、あなたにとっても、この世においても、なお良きことなど何もないのです。もし選択肢があるとしても、あなたは、快適さや心の安楽を求めるのではなく、キリストの為に困難ごとにおいて苦しむ方を選ぶべきです。あなたが、よりキリストに似たものになる為に、更に聖人たちと近しきものになる為に。我々の価値、そして霊における進歩は、穏やかな感情や神よりの恩恵に安らぐことにはありません。むしろ、大いなる不幸を、過酷な試練を、忍耐強く耐え忍び、潜り抜けることにこそそれはあるのです。

If there had been anything better, anything more suited or more useful to our salvation than suffering, Christ surely would have pointed it out to us by his word and example. For the disciples who followed him and for all those who wish to follow him, he clearly urges carrying the cross, saying: “If anyone would come after me, let him deny himself and take up his cross and follow me.” So, let all your reading and studying end on this note; to enter the kingdom of God, we must endure many hardships.

もし、我々の救いにおいて、『苦しみにおける自己犠牲』より他に、更に良きこと、更にふさわしいこと、更に役に立つことがあるのならば、キリストは我々にそれを彼の言葉と、その実践においてを示されたはずです。彼に従おうとした使徒たち、そして彼に従おうとする全ての人々に向けて、彼は明らかに、もう駆り立てんがばかりに『十字架』の話をされている。『もし、私に従うというならば、自身を切り捨て、己が十字架を担ぎ、そして私についてきなさい』との言がそれだ……

さて、この書き記されたものにおける、あなたの読みと学びを終えよう。
神の王国へと至らんが為には、我々は多くの苦しみを耐え忍ばねばならない訳だ。


(意訳:byME)


追記:

皆様へ:
あの書は四部形式になっています。今回の抜粋は、その第二部の最終章です。
現在のトーク、”夜と霧になれ…”も最終章にあたります。内容はこれまで以上に、まったく面白味はありません。情緒面の表現は本人の意向からも極力排されます。それでも読んでいただく価値があるとするならば、今回の抜粋を、なぞらえる実際の記録であるが故にです。あの書においての、この部分は最も重要なメッセージであると思います。先に、説明とお伝えとさせていただきます。悪しからず…

*0)Voluntary Suffering の起源/根っこでしょう。

*1)老化により肉体はゆるやかにその機能が損なわれていく。思い通りには動かなくなる。このことは悲惨な事態なのです。自分の肉体が重荷と化す。また卑近な話としては、肉体からの要求がある。退屈は嫌よ、格好良く(美しく)ありたい、腹へった(美味いもの食いたい)、ジッとしてられない、気晴らしとして愚かなことをする(話す)…等。

*2)少し救いがなさ過ぎに聞こえるでしょうが、極論(むき出しの真実)としてはそういうものかも?ぐらいでいいです。しかし、ヴェーダやブッダの見解も同じです。内容はキリスト教の枠にだけに留まるものではありません……

*3)ここは本当に重要だ。信仰において、苦境にて奮闘することができた者だけが理解する内容。苦しみと喜びが同居できる?。普通ならば矛盾、分裂、混乱、多重人格、等の、理解できないものとして片付けられてしまうだろう。魂、良心、本質と呼ばれる部位が確かに人体には存在する。これが独立したものとして確認される必要がある。ここが発達、もしくは育っていないと、なんのことやら分からない。ここが通路なのだ。拠点なのだ。そこでの味わいを人は知らない。各自その状況は違うだろうが、中では本質と人格が、別れ難く結びついているので、まず分離の行程が必要になると思います。なにより、日常において、意識的に全てを行うのが道標でしょう。根幹に関わることにおいては、一番簡単な方法は、死滅を目標としてマインドを鎮める修練と前「しゃべログ」で言ったやり方での自己想起かな?。*これは無責任な記載ですw。

*4)重要箇所。〈Sealed〉は単なる比喩表現ではない。そういった化学反応が実際あるのだ。「何かが何かを覆う」。苦しみの錬金術。


ケンピスは編纂者であっただけなのかもしれない...もしくは天啓において記述をされたのか?どちらにしても、誰かが、聖霊の関与において記述をされている。
この書は実践のガイドとして、聖書を補完するものだ。

手元にある和訳の本は元の情報に問題があったのか、不明瞭な部分があった。
今回の訳出でそれらは明解になった。これはボクにとってのみの喜びにはなる。

他の方々の訳出との比較では、今回のものは意訳と言うよりも直訳に等しい。
既存の出版物は、もっとえいやです。

お付き合いいただき、まことにありがとうございました。

アーメン


蛇足:

熱心に読み解こうとされるなら、「よく分からない」と思われることがいくつかでてくると思います。例えば、「結局は、みんな苦しむんだから一緒ジャン」「じゃあ何が一体違うのよ?」とか。『多くの人々が、この地上の世界では、ずっと重く悲惨な出来事で苦しんでいる』「じゃあ信徒でない彼らの方が立派ジャン!」とか。

整理の為には、先の『二つの河』を思い出していただく必要がある…。
困難ごとが、ただ偶発的なもの、目的なき不運でしかない世界。これは、惑星スケールでは意味があるのであろうが、個人としては、なん等、打つ手もメリットもない。しかるに、意図されてある、”変性工程”として準備される後者。この場合は、最初の模範を活かすべく努力が重ねらられたならば、報酬が備えられる。もう一つの河へと移るための方法論としても必須。もう、多くは語らない…、とりあえず、他者のことはすべて神にお任せして、『あなた自身』のこととしてだけで考えてみて下さい。

また、『もう…すべてが、あなたにとっては、良きこととなってしまうことを。あなたは、この地上における楽園を見出したのだ』の箇所。
これは詭弁だろうか?。ボクには分からない。まだ、そこまでの境地には至ってはいないので。しかし、視座を変えるならば、そうなのかもしれない。ならば…これは奇跡以外の何物でもない。短く、あまり深くは触れられてはいないが重要事項だと思います。

また、『このことが行い得る、成し遂げられるのは、人間の持つ生来からの強さによるものではない。これもまたキリストの恩寵によるものなのだ』の箇所。
”恩寵”、そうこれも本人は気づきにくいのだが、実態は、それとなく介入をされていると思わざる得ないことばかり。これが本当なのだろう。ちゃんと、サポートはしてくださっている。当人には分からない形で。またトークにてその実際を表現してみたく思っています(忘れなければ)。

最後、「えらい厳しいこと言うな~」でしょうね。でもね、『自己の欲として追うな』であって、ちゃんと必要なことは与えてくださるのです。それも、こちらが贅沢と思われるほどのものを。身分違いと思うほどのものさえ!。これも愛なのかもしれません。
 
ありがとうございました。」
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