2.2 Never Gonna Give You Up 身内。

文字数 1,496文字

  とある日の逢瀬。ボクは朝、自転車で千里中央に向かう。そんなに遠い距離ではない。のセルシーの地下一階のピザ屋で開店と同時にリンゴのタルトをテイクアウトする(ここのやつはボクには最高のものだった。そしてそんなに高くなかった)。焼きたてで未だほっかほっかの包みをもらう。家に持って帰り、お皿とカップを二人分用意する。割れないようにタオルで包み大きなバッグにそれらを入れる。濡れタオルやフォークも忘れない。もうすぐ彼女との待ち合わせの時間だ。バッグを持って決めてあった場所に歩いて向かう。待っていると彼女が車でやってくる。そして万博公園に向かう。公園内で見晴らしの良い所でシートを広げる。お皿にタルトを切り分け、魔法瓶からお茶をカップに移す。準備ができたら二人で一緒にタルトを食べた。そしていつもと同じくいろいろ話をして時を過ごした。何回も何回もこうしてボクたちはここで時間を過ごした。

  彼女の目にはボクはどのように写っていたのだろうか?。ただの仲のいい年下のお友達?ボクには、もうそれで十分だった。獲難い理解者だった。それも唯一の!。親愛なる「昌(ショウ)ちゃん」だった。....彼女がふと漏らした印象にのこる台詞がある。「済ました人と思った」。*他にもあるががこれに絞ろう。かってこのように彼女は言ってくれたのだ。このボクを.....。これは完全に誤解だった。彼女のこの言葉は、こういう意味だ....。

  良心(本質)は発達成長するものだと言える。しかし健全な発達は非常に希だと言わざるを得ない。多くのケースでは、それは幼き状態のまま成長を止め埋もれいってしまう。ましてや自由自在に、これが主導権をにぎり人生を生きている人は本当に特殊な人たちだ。そうある為には、まずエゴに勝利しなければならない。彼女の”済ました”は自我(エゴ)を落とすことを成し遂げたの意味だ。聖書では”肉に勝利した人”、”死ぬことのできた種”となる。禅であれば”身心脱落”をなしとげた人。多くの宗教で語られる”生前解脱者”のことだ。..... ではなぜ彼女はそんな奇跡的な存在をボクに投影できたのだろうか?それはボクが温室育ちだったからだ。個人的な内面世界でヌクヌクと良心というものを養い育てることに専念できた珍しいケースであったが為だ。たしかに教材に対するセンスはあったのかもしれない。だが結果できあがっているのは[非力な善人もどき]でしかなかった。ボクの場合はエゴの多くは潜在状態もしくは休眠状態にあるだけだった。

  ....少し厳しすぎる話かもしれない。それだけではなかったのかもしれない。彼女はボクのことが好きだと思うように何時の頃からかなっていったそうだ。出会ってからだいぶ時が過ぎてからだ。そしてボクたちはキスをする。あの公園で。意気地のないボクに苛立ちながら彼女はボクの背中を押してくれた。初めてのことだった。何かが変わったわけでもなかったが、ボクには彼女は更に大切な人になった。

               〈続く〉

PS:

わたし好みの暗さがあるとしてた。

やがて、彼女は本当に”済ました”人に会うことになる。H先生だ。

温室といってもいろいろある。ボクのは時々、鬼と夜叉が暴れまくる場所だった。

書いてる中で、やっと分かってショックだった。当時では分かるはずがない。彼女は他に”孵化前”というような言葉でもボクを表現した。インスピレーションだったそうだ。これにはノーコメントでいいだろう。

養い育てていたのはそれだけではなかった.......。

  
  

  
  
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