☆. The Sermon 山上の垂訓(全公述)
文字数 31,815文字
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にてをお勧めします。*こころに欲、煩い、執着、なかりしければ、これ清められしものなり。祝福あれ。
彼ら天の王国そのものならんや。
こころの貧しい人、The poor in spirit は何のことを言っているのか?。
心なるものの構成、その仕組みについては、アンタカラナ、マナスをキーワードと
してヨガ経典に当たるか、心所をキーとして仏典のアビダルマ関係に当たられたし。
ただ、習得されしが修練されしに向けて述べたものにつき、且つ視点が違うので、
長期の前準備なしではちと難しにすぎる。(我アビ歯がたたず)
心、マインド、思考と呼称されるもの。内容たるにおける真実は、ほとんど現実に
ありもしない幻想と呼ぶべきもの。忌避感を込めて妄想と呼ぶが習わし也。
簡単な例:
『超可愛いー!好きー、抱きた~い、結婚した~い』
『超カッコイイー!好きー、抱かれた~い、結婚した~い』
もう言わずもガナーなりしかな。
もう一つ:
『心配で心配で心配で…』
其れ起こりません。そうなりません。思ってもいない展開/結果になります。
もう言わずもガナーなりしてかな。
このおかしげな、罪作りな機能が止んでいる。(超越されたるが正かも?)
結果、虚空となっている状態のことを言っているみたい。空っぽで、何にもない。
欲しいも、恐れも、握りしめるべきも何もない。愛としか呼べない何かで満ち満ちて、
其れ溢れしてて、其れが照っているだけ…。未だ勝手、覚えられしこと無かりし幸福感、
神よりの平安たるの恵みのみありて、是れ味われて知られん。周りに多く在るらは
皆、我と全くの同質、全くの同じ存在感の手応え、感触あるによりて、覚えてしまわれん。
全にして個、個にして全也し。
この節殊に大事。これの意味解放が必要と思われ、本プロジェクトは起こったのだ…。
個人的な感慨として節は再誕させられてしまっている。異端確定の意訳ですね。
*嘆き悲しむに、祝福あれ。彼らは慰めと癒しをいずれに受くる。
終局は天国での話なのだろうが先行的に、生前においても思わぬ時に贈与されることがある。
経験者として語るなら其れは一瞬の出来事にも等しく、然れど、生涯忘れることのできない
特別な経験である。真実、何であったのかは言葉にはできない(未だ本体での記載その時期
到来せず)。知らずして、是れが平安なるものなのかと自然と思い至ったまで。
*従順に逆境忍びたるらに、祝福あれ。
彼等、新たに到来する御国をば相続せん。
形容詞MEEKは、meek as a lamb この表現に「ピン」とこられるのが良い。
子羊の如く何何だ。イエスのとられたマナー、その暗示ですね。
本来は、素直、柔和、意気地のない、屈従的ならしい。何となく核心的意味まで
到達していない歯痒さがある。神への信仰において、そうあるを尽くすので、
従順とした。其れなくしては、鬼が出ても基本おかしくないんだ。
*正義、是行うこと見ることに飢え渇きしに、汝ら祝福あれ。
いずれの時には大いなる充足知られん。
軈ては、誰しもが、間違いなく、”その時”を迎える。
個人的な死、そして人類的な裁きのこと。
両の二段において、この言葉は共に生きる。
取り敢えず、死後には白洲に引っ立てられていって、
閻魔さんのお裁きがあるのは間違いのないこと。
生前における決算報告がなされるに決まってるじゃん!。
他の者たちがどんな風になってるのかもその時知れる。
場合によっては、満足できる仕事が貰えるかもよ〜。(ヒーロー?)
*情け深きこころにて他者の窮状思いやるるに、祝福あれ。
彼ら天によりて慈悲たる恵み授からん。
因果応報。是れも決算報告書に基づくまで。
とても大切なのは世界観には階層構造を採用する必要がある。
上位界ハ、下位界の面倒を見なけばならない。
富みしハ貧しきを養い、強きハ弱きを庇わなければならない。
人類は動植物たちを…。
売れてる○○は売れてない○○をw。
これはヒューマニズムとしての話しだけではない。絶対の、全宇宙を貫通して
働く法にして義務だ。あらゆる次元にて厳格に果たされなければならない掟。
それも『愛』をもって。絶対にして必須なる根本条件…。
この行いには報いが、上位より当然になされる。是れが摂理、システム、法理。
人間界にも其れの反映は引き起こっているが理性的な把握が乏しいので根付きが悪い。
歪にして不完全な上部ばかりのようなあり様。むしろ激越に崩壊の方向にある。
全ては、宇宙にあるものを反映して顕在化してくる。
*こころ純真なるに、祝福あれ。いずれの時にか、汝ら神の実在目見えん。
何か語るには怖じけて怯むるところ。敢えて言うなら、良心だ、これは。
如何なる国、民族を越えて、これは全く同質なのだ。意見の相違なぞ発生はし得ない。
これが十全に発達して全体の枢要を担っている人のことだろう…。
アンデルセンと新美南吉しか思い浮かばない。
*和平を呼びかけ到来せしむるに、祝福あれ。彼ら神の子等と呼ばれ得ん。
第三の力、サットヴァの化身。Reconciling:融和、和解、調停、仲直り。
なんらかの提案がなされて、初めてこれが可能になるはず。
関係当事者らが気づかない、見出せないでいるスキームをまとめることができ
ている。その存在の次元が数段高いところにあってこそ、全景を見渡して、
解の抽出が可能になるのであろう。また、行為における動機は「ご好意」で
しかありはしない。多分に、よき成長を遂げた優れた人達なんだろう…。
*御国より知らされしての義、是れ奉じてが故に迫害に遭わされしに、祝福あれ。
天の王国はその人たちのもの也しかば。
以降にも度々に登場する『迫害』に関して:
現在ともなれば、キリスト者を名乗っても特段にヒドイ目にあわされることはない。
であるならば、迫害たるものは現在、如何に起こってくるのか?。
是れは、世界の現われで、自然とそうなるとしか言えない。
帰還たる上位界を志向せんとする、其の意志、其の行為、其の魂こそが、
的として自動的に識別されるようなっているだけ。
The system just work so.
結果、敵対するとされる悪たるの機能発現が、容赦なく影響を及ぼすよう、
形となって現れてくる。そんな状況が用意されてしまう。
それの結果が、人々の行う苛め、貶め、乱暴、そう迫害なのだ。
当事者達は、所詮は操り人形でしかない。だから…、
「父よ彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」がある。
でも、是れは必要なことなのだ。イエスの説いたガイダンスに従って、実践するの機会
がどうしても必要になってくる。渦中にて苦しみを確りと耐えて忍ぶが絵空ごとでなく、
真実為されなければならない。ケスジャン体の生成と其れによる魂のメッキが成果。
是れを果たすべく地へと人間は追いやられたのだから。このことを忘れてはいけない。
だから主はアレ等を今は見逃しておられる。徹底的に滅ぼすは、未だされていない。
結果として、使役して役立たせているに等しい。
又、現実的な直接的原因に関しても、自覚/分析、そして対処が確りされなければ
ならないのは当然の話。これまた別の課題である。
不快なる状況を愛してはいけない。留まるを 自己に許してはいけない。
次に移れのサインを待ってからではあるが…。
*我を奉じてが故に、罵られ、迫害され、根も葉もなき棘ある口に曝されし時、
汝ら祝福されん。
訳においては、ニュアンス的に、かなり恣意性を挟ませていただいてます。
他人から口撃される原因は、それなりに、あからさまなる理由があるにはある。
例えば自分の場合は、度外れたエゴの持ち主であることが其の引き金、原因でしかない。
元々トラブル・メーカーなだけ。何故か気に触る。こいつには勝てそう…。
だから、ここではイエスを信じて選んだことが、更なる『激化』の発端かつ原因で
あるとした。そして、彼の導きが始まったが故に、徹底的にその人の欠点(エゴ)が
突かれようになる。生活におけるあらゆる環境局面が厳しいものとして立ち現れてくる
ようになる。これまでとは比べ物にならない、痛めつけられるにも程が有るてなもんに
なる。こういった変化を背景として含んだ話だとした。
とても苦しい目に遭わされれるのだけれど、
天に入る為には、これがどうしても必要なプロセスではある。オメデトって。
*喜び、なおもて歓喜するが佳し。天にて汝が受ける報いたるは大きひなりて。
汝の前に来訪せし預言者等も迫害同じく受けたり。
この苦しみ多く、かつ屈辱的なる対応は、世間の風と呼ばれるもの。
世情はあまりに愛に欠けして、劣悪になるを殊に好む。なので、(主によって)、
枷が外されたのならとんでもない素顔を晒してくるようになる。
でも、ことあったらば、狂喜乱舞して喜びんさいって。ゲット・ポイントだって。
以前に、この世界へと来訪した信徒たちも皆、同じ門を潜った。
ましてや預言者クラスになったら、もう言葉では尽くせない表せられない程の
目に遭っている…。火が強うして、激しく、タチ悪くして燃やされる。
信徒たらんとするものらに向けての、主よりの賄、洗礼ですね。
しかし、パウロもヨハネも、ジャンヌも、最後にゃ首チョンパだもんな~……
*汝等は、地における塩である。もし塩、その塩味を失ったなら、
どうやってそれを取りもどす?。もはや、なんの役にも立ちはしまい。
ただ路上にて捨てられ、通れる人々に踏みつけにされるだけとならん。
単純には、批判精神のことなんだけどね。どうもそれだけに留めるのは差し障り
がありそう。後は、「其の人らしさ」。天分として与えられている本質の開花
ぐらいかな?。これにおいても、無情にして非情なる展開がありえることが最後、
示めされている。それを価値として、真剣に生きるか?、
それとも世俗にまみれ果てて、腐れて、可能性を埋もれさするか?。
*汝等、世の光にありにけり。丘の上の町を隠すことなどできはしない。
光たるものの自明性についての語り。前段を引き継いで、いざそれが公にされたなら、
皆が気づかずにはおられない。ほっといてても誰それの目には留まってしまう。
*また、蝋燭に火をつけ、それを鉢の下にする者など有らず。
当然、燭台におき、室内に居る皆に、その光が行き届くようにされん。
人がそうするようように見えて、実は世界そのものがそう計ろうとるんだろう。
とても不思議な現象。光たりければ、これ確実。
*然也て、汝の光、人々眼前に燦然と輝かし給へ。
然すれば、人々、汝等の行為するに感化され、
天国におられる汝等の父たるを、称揚さるるようならんや。
あまり奥ゆかしくあらぬなよ、と。積極的にやったんさい、と。
結果、天の威光、世に知り渡されるから、と。
「ラー~サー~」。然して、吾ペガス応えたり。
*既に渡されし戒律を、もしくは預言を、廃するために我来こしめしと思ふでないぞ。
それら廃せんとして来したるに有らず。否、それら全て成就せんがために也。
人類史における最も着目すべき考案は、律法である。ルール、規則、法律、等々…。
これなくしては共同体は存続できない。個体レベルでも実はそう。
少し脱線…
当然の話しでしかないのだが、ユダヤ教以前にも、其の神は在った。また、人間もいた
のだ。そして崇拝もしてた。じゃないと、シュメール~メソポタミアの時節にあれらの
法典が登場することなど現実的に、絶対に不可能なのだから。これは個人的な確信。
話しを戻すと、律法なるの起源は、神が人に与えしものであったのであろうとの
所感であります。上位界が下位界に行なった垂直介入として現れてきたもの。
そこにある理由は、下位たるには、掴みきれるものではない。
だが、なればこそ、その求めは、いたく具体的だ。また、力、恐怖による統制に等しい
ものだった。でも、これは人間が本能の支配下だけにいない、かなりに自由度が効く存在
なのだからしょうがない。
追記:
父親の立場にならないとわからないことがある。
愛するが故に
なのだ。厳しく接するのは…。彼はヒトを最初から深く愛している。今も、永遠に。
要は、有史の遥か以前から其の存在はあったとするのが自分の立場であると声明したい
のと、人との関わり方は『有言実行の主』であると言いたいだけ。
このマナーが恐ろしくも重要。思い、考え、命令は、特殊な人たちに託して、介して、
皆へと伝えられた。「預」言者たちのこと。「予」言者でないところに注目。
実現化度については、イスラエルの再建国が一番の例だろう。これも振り返って見れ
ば、第一次も第二次も渦中の中心にあったのは彼ノ民族だった。再建國の前に備えられ
たる苦難だった。これもちゃんと預言されている。だからこそ看過できないのだ。
追記:[苦難の理由は、彼ノ一人子を認めず、受け入れずして、殺したことによる。]
*真実なりしこと汝等に宣べん。天地の滅び去るまで、すべての成就なさるるまで、
定められし戒律の一点一画、廃れるハ有り得じ。
全く古くはならない。計画にも全く変更はありません。天地の亡び去る其の時まで。
何の為に伝え知らしたかや?…。ヒトの健全なる成長と、其の結実として備われる
清められし魂、其の回収救済奪還の約束であるが為なり。
*戒のうちにて最も小さいものの一つでも破り、また同じゅう人に行う教えるものは、
天の国では最低と呼ばわれん。却って、これを行ない遵守するもの、そしてこれらの
戒の意義人に指南するものは、天の国にて立派と評されん。
法令遵守。道徳律を尊べ。寝しなには歯は磨け!。
*語り宣べおく。汝の義なるもの、律法書士、パリサイ人等の義よりまさっておら
ずんば、天の王国に入ること決して叶わじ。
この一節は殺す。
取り敢えず致命傷にたるるの一文。
あのパラノどもを越えて、糞真面目を更に徹底性せいと?…。
現場における柔軟なる臨機応変をモットーとする
いといい加減な人間には、この言葉は厳しすぎるのだ!。
信号赤でも車来なかったら渡るぜー。そばで子供が見ててもだぜー。ゲヘナだろう⤴️。
まあ、冗談はさておき。バカみたいに素直になんなきゃいけない。バカみたいに忍耐
強くあらなきゃいけない。頓悟果たし得しならば、其は当たり前の作法なりけり…。
*遠の昔、モウゼ民に向かいて、『殺すな』
『如何なるものなれど殺せば審判を仰がねばならない』と伝えせし。
是れ、汝等聞き知りてのこと。しかし、我、汝等に尚もて宣べ伝えん。
我ヲ認め、集ひしたる、これみな兄弟なり。
その兄弟たるに、もし叫怒あびせしあらば、此れ審議の的に相応しきかな。
再び、兄弟たるに「白痴」など悪口あびせたなら最高法廷にて審判かけられよう。
しかして、此れ「汝阿呆」などと言ひければ、誰かまわずして火焔の地獄
【gehenna】へと投げ込まれん。
初段は極論となる生殺与奪、その次元の話。
続けて、本論たる他者の感情を害する言動についてとなる。
トーカーは、「前提があるでしょ」として、持ち込みをここでは行なった。
「イエスに繋がりたるもの達は、皆兄弟だ」のとこ…。
ここに揃いたるは、もう一身同体なのだ。言わば、ファミリー、家族。
このコミューン内だけにて有効なる説法としたい。
この関係において、何の躊躇も配慮も無くして、仲間の誰それのこころを暴言で
傷つけた日にゃ~…。メチャ怒りまくって弁舌をば振るっておられるネここ。
最後にゃ~「地獄へ叩き落とすぞ!」とまでの脅しを息巻いてかけられておられる。
理由は簡単。その行いたるには、愛の不在を、明らかに見賜うたから。
後々も繰り返すことになるのだけれど、上位がされるように、下位も同じく行わ
なければならない。上位が愛もて苦なるを敢えて励むのなら、その行為の受益者
たるもの達は、仲間内には当然に(水平展開)、そして更には下位に向けても
同じくするのが道理となる。是れが至上の愛もて始まった、創造における
エマネーション(流出)の掟、鉄則、縛りなのである。
なんら、情緒論としての倫理の話しでまったくはない。もっと現実的な話し。
全宇宙の階層を貫いて機能しているもの。其の保守運営進展に不可欠な条件。
簡単には、ギブ&コマンドの話でいいと思う。
くどく言うと、与えるは苦しむのだ。そう、これは当然に嫌な、労苦なることなんだ。
だけど中和力として『愛』が働きすることによって、積極的な奉仕のドライブが
発生し、為すことが初めて可能になる。それも継続的に。
母が赤子に見せる関わりがいい例か。
この愛たるの、その不思議な働き、そのものが至上の価値とされる。
片や、受手には、是れがまた全くの、快、良、嬉として受け入れられる。
其れまでなのだ。よって、これで話は終わりとなれば不公平もいいとこになる。
同じ価値/理解/奉仕にて新たなる流出が、暫時、各自、各所にて起こらなければ
ならない。既にこの倍々連携による働きは末端、月へとまで及んでいる。あれ卵よ。
とにかく『愛』が、そのコミューンでは基調とされないとならない訳だ。
『トロゴオートエゴクラート』の支配下に、是れ尊びて…
*然りによりて、もし汝、神へ供えもの捧げおり、その場にて兄弟との諍いに
燻りたるある思ひ出したれば、供えもの、そのままに残し置き、行って先ずは
その兄弟と和解果たせよ。供えの捧げハ其れからだ。
まずは地において為すべきことをなしてから、調和を回復してから、天に向かへして、
成さるるべきを為せと。難儀ごと後回しにするべからず。其も主が与えたもうた試練
なりにして…。時間を掛ける、また、主に助け、其のややこしきたる片ずけの指導ヲ
祈り求めるが必要な局面。
*汝ヲ訴え、裁かんとす係争、定められして、やがて逼りて立ち現れん。これ肝に銘じ
おき、咎ありたれば、急ぎにて解消さるるべし。正に、その時への道行き半ばに、
彼(神)身近に未だありての内に、急ぎ和解執り持つこと、是れが正に肝要
ならんや?。然もなくば、汝裁定に儘もて委ねられん。然すれば裁定者、違わず、
汝を警吏に渡し、終いには獄へと投げ入れられん。
もうこれは、各自の死後と最後の審判の両建てにおける含みでしかないでしょ。
本解説では繰り返すこととなるが、その時節には、決算報告なるものがちゃんと
用意される。それに基づいて、その後の身の振り方が決められるまで。
ソレって、この現実でも、ずっと馴染みのあった作法でしかないよね。
ただ、其の時の考課対象は、今までの世俗的なものとはえらく違っているらしい。
他者に対しての、世界に対しての、倫理的な貢献とか負い目とかいうやつになる。
罪、咎とか呼ばれるものはマイナスの実績。
この節で重要なのは:
「生きている間なら、その埋め合わせができますよー」
「貴方の側には、其の裁き主で、かつ助け主たる方がおられますよー」
「でも、死んでからでは全ては遅いんですよー」ってところ。
*真実なるを汝に言いおく。最後の一部一厘一銭、の、其れの支払い、仕終わるる
まで、決して、其処より出るは叶わじ。
人類が生きている其のシステムにおいて…。
負債に関しての取立ては、情け容赦なく、厳しくなされることは覚悟しといた方が
良い。タダ食い、タダ乗りは、いいとこ取りは、許されませ~ん!。
見えないところで厳正なるカウンターがちゃんと回っている。
其れが、ほん僅かな負債であったとしても、ソノ全てが贖われるまでは、
厳しい境遇/環境に立たされる、置かれることとなる。
あなた本人が、若しくは、あなたの子々孫々、血縁関係者が…。
良くて煉獄になるな…。
しかしだ、この地球が既に煉獄である可能性もある。
ここで下手打つことは絶対にあってはならない話なのかも知れない。是れ妄想。
アンデルセンの「鳥になった少女」は、この節を題材に書かれてますね。
追加:
請求書が届いて、机の上においてある。見るだけでうんざりする。今日は忘れようと
思い、寝たとしても、次の朝にそれが消えて無くなっているわけではない。
You know what I mean ?
意味:死んだらチャラってわけにはいかない!。
*『不義密通を禁ず』と伝えられしして、是れ汝等聞き知りたるところ。しかし、
我尚付け加えて宣べん。情欲掻き抱きて婦女子見たるらば、心中既に姦淫犯したる
も同然なりと。
これって、頭の中でする性的空想のことなんだろね。
思ったり想像することもあきませーんって。
『男女一体となるべし』があって伴侶が既に定まっているのなら当然の話しでしかない。
不幸なのは、間違った相手と結ばれてしまっているケース。
愛もなければ、エロースも最早ない。若ければ、外に目が行くのもやむを得まい。
*もし右の目汝を罪へと誘うなら、それ刳り出し投げにて捨てん。
体の一失うは、全身ゲヘナへ投じらるるよりましにありて。
見るんだから両目で見てるに決まってる。それをあえて、右目を上げているのは
何故なのだろう?。利き手ならぬ、利き目としての意味かも知れない。
積極的なる主体としての眼差しの座としてなのか?。
ここからは、独断と偏見で言わしてもらう。右目は本質と直結なのだ。本質はバカ
だから、なんでも魅力強きものに惹かれていってしまう。感受性がその真価なので、
尊ければ尊いほど、罪深ければ罪深いほど、惹かれてしまう。要はチャーム(魔力)
に弱いのだ。本体の窓口なので、危険なものにはシャッターを下ろした方がいい。
下手すれば、魂が、怒涛の如くに、罪へと走ってしまうやも知れないのだから…。
そのチャンネルを失っても、左目が残る。視覚情報のすべてを失うわけではない。
あくまでも、魂を清く保つ為の話し。
ここで念の為に言っとくけど視神経系がクロスしているのは知っている。でもね、ハードの
信号をマインドが、生活に齟齬が出ないよう、再構成しているのも事実なのだ。少なくとも
網膜に映った映像は上下を逆転して見してくれている。なので個人的には右は右なのだろうと
勝手に思っている。じゃないと、観察データに矛盾が出てきてしまうのです。
これ最後のは脱線。只のおしゃべりです。
*そして、もし汝の右の手、罪たるを叶ふるなら、それ切りにて捨て去りなむ。
五体の一失おうとも、全身これ地獄へと落ち逝くより汝にとりて遥かに幸いと
なりしかば。
ノーコメント。
これある限り、肉体との同一化は去らない。終わらない。執着になる。
*『妻を離縁するもの、ことに関わる証書、女に託せよ』との命じあるに、然れど我、
これに加えて述べん。不義働きしたる故除きて!、縁によりて婚姻したるにも関わら
ず、その妻離縁するハ、それに姦通行わしむるに等しき。更に離縁されしを、妻と迎
へるハ姦通行うに同じく等しからんや。
人間には二面あって、このうちの、その人の本質が、それに相応しい相手と自然と結ばれる
ことが先ずは祝福されたるの結実である。この組み合わせについては専門に譲りたい。
(占星学を本当~に理解している人に)ただ個人的に思うことは、生活において夫が頑張り、
妻がそれに理屈を越えてつき従えれたなら、期待されてある良き展開が、起こるのだろうな~
とは思う。互いに損得感情抜きで、愛しい想いで、関係を築く努力を長期で行い得たなら、
幸せなるものが醸し出され、現れてくる。
いい表現がある。
利き手がもう一方を労りをもって洗ってあげている。
次には反対の手が同じく行う。ありがとうと…。
兎に角、なんとなしに安心できる、信頼できる、あくまでも情緒的かつ直感的な判断が
決め手となり得よう。慎重にだが、自然なるをもって選んでね。
オープンに善良たれれば、縁は間違いなくに賜れるよ。
他方、人格と呼ばれる、世に染まっての、ムードにあてられての、真似て取り込んだ
の、嗜好性に基づくことにより発生したカップル。つまりは外形に向けて投影された
自分勝手なイメージに基づいてるやつ。「純本能的にのみにて」で、結ばれちゃった
もあるんかもネ。これは、完全に、互いを夢見しいの、その中で関係作っちゃって、
とうとう結ばれたやつ。これの顛末は余り芳しくないみたい。
これに関してはリセットもやむを得ないのかも…。
まあ争点は、前者において。ピッタリ合う鍵と鍵穴みたいな関係で、これが結婚という
形で果たされたのは、神の采配があったればこそなのだろう。奇跡の、運命の出会い
ってやつ。
でも、やっぱり人生には色々ある。二人にとっての試練がちゃんと別途、用意され
てしまう。不和が二人の間に当然に呼び込まれてしまう。その渦中において、
短絡的に、安易に離婚することはあってはならないよと。
両人が個人的に好き勝手できることでは基本もうなくなっているんだよと。
ここでは、天、神、定め、運命といったものにどれだけ重きをおけるかに依る。
個人的な文化素養もしくは背景に、左右されてしまうだろうとは思う。
イエスは当然に神の定められし、祝福されてなったカップルにおいてを語っている。
ps:
隣の芝生は青い。
旨きもの三つ、人妻、呆者、あと後家。こんな説が巷では囁かれている。
ヒトの持つ罪深さがよく表されているよね。
蛇足:
メチャクチャ筆のノリが悪い。でもね誰かさんは未だ希望を捨ててはいない。
*また、古きより民らに語り伝えられ、汝ら聞き知りてのこと。
『嘘、偽り、証言するべからざれ』
『宣誓せし破るるべからず』
『況してや主に誓いし果たすは、これ必定にして絶対なり」と。
然れど、我、汝らに加えて伝えん。誓ひする、是れ一切為すべからず。
天によりて誓ふ、ならぬ。其處は神の玉座なるによりて。
乃至、大地において誓ふ、ならぬ。その足台なるによりて。
乃至、エルサレムに向かって誓ふ、ならぬ。それ至聖所なる処によりて。
また、或いは、自己の名誉にかけて誓ふも、ならぬ。
自身の髪の毛一本さえ、白くも黒くも自在にすること叶わぬ故なりて…。
「天地神明に誓って!」
ありしこと、もう既に終わりたる、過ぎたるの、これらを証しする時の話しではない。
是れらには、このセリフは活きる。今現在も…。
要は、是れからのことにおいて。誓は絶対であることが先ずハ前提。
神との関係性において呪たりうる。The system just activated on your mark.
違えれば、返しが及ぶ。侮ってはいけない。
この節で明らかにされているに、もう一つの前提がある。人のこころハ移ろいやすい
のだ。我知らずして、違えてしまっている。非情、無情なる時の侵食のままにある。
自分においてさえ、何もコントロールが利かないのが実情である。
誓は違わず、絶対に時を越えて、そうあらねばならないものなので、控えるが宜しと…。
しかしだ!、イエスは先を預言し、其れら「すべて」を為している。
如何なる人間であっても、為すことの敵わぬ誓を成し遂げられている。
このことは、絶対に忘れてはいけない。語られしに、未だ時至らぬもあるのだから。
*ただ単純に、ただ心素直に在りて、覚へらるる侭もてで足る。もし汝、佳きと思わば
『肯』なりと、そしてもし、否と思わば『否』なりとのみ答へん。
これ越えて、言の葉継ぐるは、如何なるにても、悪しき顕れなりたるに。
なんらかの状況下にあって、証、もしくは選択をせねばならない時の話だろう。こころ
の良心に基づいてあるのが一番。内奥の魂自らの声に従って、真実と確信されること
だけ話す。それも、「そうです」「違います」の応答だけに留まる。下手に理屈を添えたり
言い訳したり、個人的な見解を披露しないことが肝要。余計なことは言わない。
当然に、無意識、無自覚に嘘を言うも許されない。相手があることだろうからね。
是れも、その時に最も重要なのは、父との関係を最優先に意識すること。
知られずして彼、側に居たもう。
*『他人の目潰さば自身の目同じく、歯折らば自身の歯同じに』の掟、汝ら聞き知りたるに、
然しながら我汝らに告げん。悪しきたる、是れ敵として関わる勿れ。もし、汝の右の頬打ち
て貶めんとすあらば、却って、それに向けて左の頬をも差し出さん。
ちょっと、ここでも訳には恣意性を挟ませてもらっている。
仕返しの倫理があって、だけど急転換がなされて、もう関係せずに済ましなさいよと。
あくまでも個人的な理解の範疇としてなんだが、悪しき態度、何かに憑かれたか、汚れに
染まっているような相手とは関係を取り持たないようにするのがベスト。伝染させられ
たらたまったもんじゃない。業の伝播。こちらが相手にしなければ、相手は勝手に
やりたいようにやったなら、もう去らずにはおれなくなる。やがて、時が過ぎれば、
その存在は自然と消え失せてしまうことになる。ジッと我慢忍耐するのがいるけどね。
だから、下手にやり返したり反発もしないで、むしろそれを歓迎協力する
かの態度を示して、相手の期待や思惑を裏切ってやればいい、みたいな?。
何やっても反応しないので、こいつ面白くないなと相手に思わせる?。
まっ、主との関係がなければできることではない。
あってもできることではないけれど。
努力する機会には恵まれるとは思うけど…。
もし、完全にできるなら、彼はもう死んでいるよ。現世には…。
*訴え起こし、汝の着て所有せる其の衣、奪いとらんとすあらば、
外套をも含め、取らせて去なせしめん。
強奪、略奪、剥奪、侵略、訴訟。なんか欲しくなって、居ても立っても居られなく
なって、とうとう一線を越えてきた。でも彼らは所詮、幻影を見て、夢見の中で無茶を
行なおうとしてるだけなんだ。哀れな哀れな存在。そんな眠りの中で生きているような
存在と、ムキになって争うことはしてはいけない。相互干渉、相互作用となる激烈なる
関係は、避けなければならない。こっちのレベルダウンになっちゃうから。
若し、そんな事態になるようなら、お前も、其れ等と同じくして、ありもしないものに
執着してしまっているんではないのか?と考える。地上のものは全て『糞土の如くせ
よ』がガイドとしてある。大事とすべきは、神との関わりにおける本体、核事、実相、
人生、つまりは『命』。これが肝要、枢要、本質、『至宝の価値』。
是れだけ尊び守りにて、無事にやり過ごさんとするのがとにかく正解。
盗られたるものも、後ほどにゃ〜、ちゃんと補填されるから。
その姿を変えてだけどネ。不増不減(般若心経)。
*もし誰か汝に1キロの距離、歩くを無理じいすらば、其の二倍も彼と共に行き給え。
求めるたるに与えん。又、なんぞ汝より借りんと求め来しあらば、決して是れに背向
くること勿れ。
処世訓と照らし合わせるなら、これは有り得ない話ではある…。
しかしだ、これは、他の節にも言えることなのだが、神との関係がまず前提とあること
を忘れてはいけない。極善として、神は、ヒトとの関係においてズバリここにあるよう
にして下さっている。であるならば、受益者たるヒトは、同じくこれらを、
水平展開、垂直下方展開するのが当たり前だよね~となってしまうだけなのだ。
それでこその関係、世界の成り立ち、The System なのである。
でも、おまんが自分の価値判断で、好き勝手を行うのなら、もう天の関わり様は、
これまでとは違ったもんになるかも知れんぜよと、暗に脅されているのかも知れない。
とにかく、神のヒトへの関わりは、それは忍耐深く、慈愛に溢れたありようなのだ。
でも限度がある。いったん反対に振れた時のあらましは…。
*『同胞を愛して、敵は憎めよ』是汝ら聞き知りたるに、
これがスタンダード。標準。自然。
*然れど、我は汝ら斯くあるべきなるヲ、新たに告げん。
『汝に敵あらば、是ヲ愛しもて』
『苛め虐げ貶めんとするあらば、此れ、やがてに回心されん、
救わるるよう祈り給へ』。
前節の、自然となる、あったり前を越えてあれと言い賜れる…。
愛することができるとしたら、同じ人間であることの一点のみ。自分と同じ時を
生きているヒトである。彼/彼女も、やがて死ぬことが定められている一人である。
現状、ソレには愛における理解がないので、備わっていないので、道徳に対する価値観
が重要とされていないので、故あって、品性下劣なるが性分と成り果てているので、
怖いもの知らずなので、こちらに、おかしな態度を示してきているだけ…。
簡単に言えば、神を未だ知らないのだ。そして、その結果、悪しき力の走狗にいとも
容易く簡単に成り下がってしまう。そんだから、哀れんで、愛もて祈ってあげなさい
と…。何故ならば、あなたも以前は、同じような、似たような輩だったんだからっと。
その祈りが聞き届けられることは、間違いのないことなんです。
これを聞かれることは、彼の誉であるし、喜びなのです。
また、容赦なき断罪が、いずれの時にか、彼らに臨むのも、これもまた間違いのない
ことなんです…。それにはまたそれで、別途、理由はあるのでしょう……。
当人に向けてする祈りではないです。あくまで神を暗に思いつつ、世界に向けて発する祈りです。
*汝、このように在るに依りて、天の父の子たる分限ヲば得ん。彼は、所有せし太陽
なるを、心邪なる、心正しきなる、その分け隔てなくして、そハ登らせ、そヲ輝かせ
にして賜わらるる。また、恵みの雨たるを、公正なるに、公正なきらに、違わずして
賜われんこと思へば。
先に脱線になるのだが、太陽は、彼の資質の、その一部を例えるには良いが、決して
象徴たりえることはありえない。農耕の民にとっては、それが最高神の象徴になるのは
よく分かる。だが、父なる神はそれを遥かに越えているのだ。だから、His Sun となって
いる。ここ間違わないで下さい。太陽を、彼の象徴として使っている人達は、なんか違うもん拝んでる。
追記:かって2.3 で明かしたように、真実は既にいつも表にハッキリと現わされれて
いる。もし太陽がその伽藍の中心に、さも彼の象徴として置かれているようならば、
そこは教会ではないのだ。キリスト教の皮を被った異教。真剣なる注意が求められる。
『いつも目を覚ましておきなさい』は、こういったことにも関係する。
閑話休題。太陽も恵の雨も、人類の全て、全ての生命にとって絶対に必要とされる
必需であればこそ、与えられている。力を振るわれての結果として、努めて働いて
下さった結果である。
人の細かな分け隔ては、人間らが勝手に作り出したものでしかない。
自己意識、エゴ、自我。
だから、そこにある実相をしっかりと、改めて弁えてありなさいと。
個にして全、全にして個としてのアイデンティティは未だ保たれてあるのだと…。
結論は前段が引き継いで同じく。
*もしに、愛されして、汝、愛行いたとて、如何なる報いヲば期待出来る?
仲間より搾取行ひするらでさえ、そのように行ひするにて有らずや?
尚に、汝、挨拶なるは輩のみ行ふとせんなら、他と比して何の違ひあらんや?
あれら、我らの神知らぬでさえそうするでないか?
極善なり給えよ!天の座す父たるが、非の打ち所なき存在たりければ。
結論は基調を違えずして、
父が、汝ら、子に対して行ふるを、子たる汝らは倣へと。
父たるの行いを理解して、同じく行いなさいよと。
其は命を愛するが故に、汝ら子らよ、同じくに、報いて、関わる命らに愛を行へよと。
それは完全なる一方通行としてなる。
どこよりか湧いて出るエネルギーの贈与、形象化、放出。
見返りは一切必要とされない。何故なら、尽きることのない泉より力は授かるから。
ギブ・アンド・テイクの常識は、ここでは完全に破綻している。それはあくまで人間界
だけにのみ留めての常識。神がおられなければ、これだけで足りるのだけれど…。
現状に恵みあるを認めて、天に感謝を返す。なんかの理解が深まって似たような
ものに変えられる。水平展開と垂直下方展開にて発現が起こる。
先ずは、世界観の一新が必要。
*良く肝に命じて行ふべからざるハ、『義行う』に、是れ人前にて見られんと願いて
為すること也。もし汝、是れすらば天の父よりの報い無かりしかば。
小学生の頃を思い出す。先生に褒めてもらいたくてしょうがない。
学校が初めての公共の場であるからこそなのだろう。
人がいようがいまいが関係ない、社会から知られようが知られまいがどうでもいい。
善行を積むは無心がいい。でも心が荒んでしまえば、これも行うのが難しくなる。
なので、せめて心に刻んでおくべきは、天は全てご存知で、喜びて、やがてに報いて
くださるだろうということ。
*故に汝、貧しきより乞われ、求めらして施しすらば、その善行、喇叭吹きもてする
勿れ。其れ、偽善者等の我知られんとして為すがものなりて。
民集会また大通りにて、評判得たいが為に行われたる。是よく見受けらるる…。
我、真なりけるヲ述べん。彼ら、既に、十全に報いなりしハ得したり、受けたりと。
今ならば、カメラの向け先に、多く居られる。自分の中にある虚栄心:認められたい、
褒められたい、尊敬されたい、先生と呼ばれたい、等の思いがあることが知れたなら
もう十分。善行は人知れずになされるよう注意して行いなさいって。
下手に見られて、知られちゃって、評価でもされようものなら、舞い上がって行って
しまう。スクリュー・アップの表現がまさにこれにぴったり。失敗するの意味ね。
それまでよって。十分エキサイトして快だったでしょって。
*然れど、施しするに、左の手、右手の行いするを知らすまじ。
然すれば、汝の施しするは内密とされん。隠れてなされしこと観給ふが汝の父なり。
然らば、彼、違うことなく報いてくださらん。
ここ恐ろしくテクニカル。とても重要、ある種の人たちにとってだけどね…。
狡賢さ、計算高さ、二重人格、こういったものが備わっている人。
暗黒の知のフォース(理力)に長けた人達に向けて語られた節。
其の力を振るうの中枢は『左』と称されてある。
片や、『右』は、善良なるの中枢である。
自分で采配をコントロールすんじゃなくて、それは天にお任せしなさいって。
才走って、あまり、セコイ真似しなさんなって。返って取り分少なくすることになるよって。
追記:[左は相対性に、右は絶対性に傾く。月と太陽とも喩えられる。両方要るは要る。]
*また汝祈るにおいて、偽善者のようにあるべからず。是れ等、公会堂や通りの角に
立ちて祈りけるは、民に見られん好みたるが故なり。彼ら既に、十全に報いなるは
得しにけり。
この報いって、注目されたからってこと?。皆の心に映り入ったことによる快感なん
だろうね。皆からの信任得る為には、こういったパフォーマンスも必要になる。
当選おめでとうございますってか~?!。
*然して、汝等、祈り捧ぐるにては、自室に入り、戸ば閉めに切りて、
それから不可視不可触不可侵たる、汝の父に向けて、祈り捧げられん。
然すれば、秘されて為されし、凡て見賜う汝の父、違うことなく報い下されん。
専用の秘匿回線でやりなさいって。完全にブラックボックス内で。
なんでも叶えてくださるって!。その答えのやり方は人知を超えている。
*また汝等、祈りにおきて、異教徒等するが如く、繰り言すること勿れ。
其れ等、言葉の多きによりて聞き届けらるる信じておらば也。
すぐに思い当たるのは、マントラとか念仏とか…。
そうだ!、説話で丁度いいのがある。
信仰熱心な婆さんがいて、いつも念仏を唱えている。
周りはそれを見て、立派なヒトだと思う。
さて、無事成仏されて、まずは閻魔様のお裁きの間へと引き立てられてゆく。
婆さんは、信仰厚く過ごしてまいりましたと訴える。
念仏も朝昼晩欠かさずに唱えていたと。
そこで、閻魔は部下に、婆さんの唱えいたとされる念仏を全部持ってこさせる。
そんで、取りいだしたる笊をもて、それらをみんな入れさせた。
バラバラとこぼれ落ちて、笊の中には何にも残らなかったそうな!。
真実の心からの念仏は、一つもなかったということだ…。
祈りは、恐ろしく重労働なものとして行うこともできる。
言葉の一つ一つの意味を噛み締めながら、
それに関わる今ある実際、現実を想起し、
全てを関連/連結する中で、本当にソレを求め願うみたいな。
最初に、言葉の確認として一回。これ助走。
そして、本気のものを三度、渾身の力を込めて。これで十分。
いえいえ日中、いつでも、何処でも、何度でも行いなさいがガイドでした。
ボクは真剣なものは毎朝、起きてすぐ。
あとは、いい加減なのを寝しな、布団の中で行なっている。
その前には今日一日が思い返されている。 ご参考までに。
*『彼等の如くに在るべからず!』
世界は多重にて存在している。そうで有り得てる。共有される場があり、ここで
みんなを見渡すことができる。これは個人的な認識。
信仰に入るとということは、とあるシステム内に移動し、その世界に包含されると
いうこと。簡単には「世界の色が変わった」なんて表現されるものかも知れない。
言っとくけど、一回入ったら、もう絶対に変えてはいけない。リスクが高すぎる…。
信仰も色々とあるはある。導く存在がやはり多々あるのは事実。キリスト教は…、
真のキリスト教は、その一つでしかない。
追記:
このことの最も特徴的かつ重要な変化は、「とある…」新たな関係性において自己を
再定義すること。強烈にして良く馴染む自己意識が生まれてくる。無軌道な生来のもの
(ただのエゴだ)は存在基盤を失ってしまう。代わって、ある種の世界(宇宙)秩序の
『一環』として自分の存在を意識するようになる。これは本来そうであるべきなだ…。
孤独では真実の生には絶対に至れない。
兎に角、もし、一つを選んだなら、もう他を見てはいけない。
育ちの中で、周りから習った習慣も、一旦離れて重きを置いてはならない。
ゼロから、あるべきを習得した方がいい。手探りで、経験として、どうするのが良い
のかを個人で発見する。これが一番良い。間違いなく導きはある。
自分の場合は最終、太古のヒンドスタン関係がかなり取り込まれている。
また、仏教もそれなりに組み込まれてしまっている。確事なるは外せない。
なによりも、導きに従っての結果なのだから…。
*汝等の父たるは、願い起さるる前、既に汝の要りたる知りて居らるる。
願いは、人知を超えた知恵によって、別途、答えが定められる。これは本当の幸福を、
その人に与えんとして。求めたことと、その見返りたるの実際は違うかもしれない。
ほんと~に必要なものにおける願いには、適宜答えてくださる。相応しきをもって。
エピソードを一つ:
ある月に、端た金しか用意できなくて、嫁が鬼のようになる。転職の為、空き時間が
あったのが災いしてたのだ。絶体絶命のピンチ!。ところが、数日後、介護福祉士の
資格のおかげで手当の臨時支給が突如起こった。それで、なんとか急場を凌ぐことが
できました。全く想定外の出来事だった。不思議。
ヒトに何が正解か?なんて、分かるか~い!。
だから、やがてには、そういった方がおられることに喜び感謝するようになる。
アーメンの気持ち。とても安心することができる。
*然らば、汝等の祈り斯くあるべし:
『父よ!、願わくは、御名、その至聖なりしもて崇め讃えられんことを』
『御国の来らんことを』
『御胸、天に行われるよう地にても行ひ賜へ』
『糧たるを、日々に我らに与ゑ賜へ』
『我らの犯したる罪、赦し賜へ、我ら既に、我らに罪なしたるを許し給へしかば』
『我らを試みに引き渡されすること勿れ』
「我らを悪よりより遠ざけ、安全ならしめ、守り賜へ」
「国と力と栄ゑとは永遠に汝のもの成り給へ 」
これは文章とすればの表現です。実際の祈りの言葉としてハ、
天にまします我らの父よ
願わくはみ名の尊ばれんことを
み国の来たらんことを
み旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを
我らに日用の糧を今日も我らに与え給え
我らが人に許すが如く我らの罪を許し給え
我らを試みにひきい入れたまわざれ
我らを惡より救い(出し)給え
アーメン
カトリックの文語バージョンですね。少し変えてしまっている。現在の教会でも文語体の
ものはもう使われません。でも新しいのは、どれも、自分には合わないので使いません。
でも、最初にビルトインしてしまったのは、
Father, may your name be honored for its holiness.
Pls send your kingdom soon.
Pls Give me food day by day.
Pls forgive our sins for we have forgiven those who sinned against us.
Pls don’t let me allowed to be tempted.
Amen
これは魂に刻んでしまったものなので、もう絶対に変えられない。
ルカ福音書からのものですね。あくまでも、ご参考までに!
ボクにはこれが一番。完了形、使っているところがしっくりくるのw。
追加1:
肝心な、訳における拘りについての説明が抜けました…。え〜とっ、「糧たるを」です。
[Food]なんで、「糧」だけでいいはずなんですが、それに敢えて「たる」を付け加えました。
その理由は、我々が生きるにおいて必要なのは「食いモン」だけではないからです。
後、[空気]と[印象]が絶対に必要になります。これも[空気]とするのは、体内に
肺を通して取り込まれるのは酸素だけではないからです。もっといろいろある。
残りの[印象]が特に重要になります。五門を通して感受性に映りこむ、いろんな雰囲気とか
各種の衝撃とか、味わいというか…。日常において絶えず取り込んでいる何か。生きることに
おいては、これが実質の動力源になっています。伝動ベルトみたいなものをイメージしてもらう
のがいい。これが途絶えたら、人間は一秒も生きておられないそうです。これ振動です。
追記2:
何事においても…有るのが当たり前などと思ってはいけない。
大人になって道理たるの理解が身についたなら「有難う」の
本当の意味が分からなければならない。
ここで語った三種の糧が現在ゆっくりと
劣化毀損変質されだしているのにお気づきか?。
追記3:
「deliver us from evil」の”deliver”が問題。
de 離して、liver 自由にするなので、一旦は手に落ちることが前提なのだ。
この前提もしくは渦中にあっての祈り。
*エイ・メン
Amen とは何なのか、一体どんな意味があるものなのか?
「心より、其のように、斯くの如しに、あり給え」若しくは、
「神、我等を助け賜う(へ)」という意味らしい。
So it to be と記憶され、So to be と今の辞書にはあるね。
個人的には『御胸のままに、なりたまえ』の念で祈っている。
G関係の、つまりはノットの記録によると、
ユダヤ教の遥か前から、この『聖音』は存在していたとGは述べている。
であるならば起源は超太古となる。何でも、この言葉には、『すべて』が
含まれているらしい。それも、糞から神に至るまでの全てが!。
インド文化圏、バラモン、ヒンズーそして仏教においても、似たようなものがある。
其れが- ”OM”。密教における”唵”は、このOMのサウンドに対するあて字らしい。
実質、梵と唱えるに等しく、つまりはブラフマンのことで、是れって神の一側面でしょ?。
阿吽の雛形もこれでしょ。両者は同根であると思われる。下手すりゃ、AUMがオリジナル?。
聖音たるものについては専門に当たられたし。
一言だけ、是れはチャンネルを開く為の呪文なのだ…。
*もし、汝に罪ノ行いたるに、汝、赦し給ふなら、汝等の天の父、汝にも赦し賜わ
らん。然して、もし、汝、罪犯せしを赦し得ざらば、父、汝等の罪赦し賜わる、
是れ成らず。
これ人生の輩として長くの付き合いになるよ。
何より自分の生まれてからこれまでの全てが引き合いにされなきゃいけないから。
自分もかってそうだったがどれほどあることか!。
怒り、憎しみが強ければ強いほど、過去の自分が如何にだったかを、しっかりと改めて自覚
しなければいけない。それをもって、自身の内において裁きへと傾く思いに囚われないよう
努力する。過去の自分の免罪の為にっと思ってブレーキをかける。
あとは、放っておいても、彼等/彼女等は勝手に自滅するだろうから。
これも悲しきかなっと思って、祈ってあげられるなら尚良いね…。
*汝等、食断ち行いするに、陰気なる面、周りに晒すこと勿れ。是れ、善者等為する
こと也て。其れ、見掛けの態、損なうに依りて、周りに食断ち行ふ知らしめんとす
行為也。我、汝等に真を宣べん。其れ等、既に、十分に報いは得しと。
紳の士たれ。みっともない真似は絶対にすんな!。
それらは、そゆことした時点で、もう満足は手に入ったでしょと。
*然れど、汝等、食断ち行ひすらば、油頭に付け、顔は洗いて清ふして保たれん。
然すれば、汝の食断ちするは周りに明らかならざりし。然して、隠れたるに在す、
汝の父のみ知りたるとならん。然すれば、隠れて在りし知り賜う汝の父、汝に報い
賜われん。
想像するならば、なんてダンディー!な奴なんだろう…。
武士ですな。「主君はイエス也」ってかー。
*己が為に、蓄へするに精だすこと勿れ。秘蔵されたる、ここ地上にては、
衣蛾やら錆やらによりて蝕まれん。また、盗人打ち破りに入りて盗り去られん。
そこそこ精出してました。でも、なんやらかややがありまして、全部消えてしまい
ました。ホント、人生一寸先は闇。何が起こるかなんて分かったもんじゃない。
人知を超えた意志が振るわれての故ならば、致し方あるのはずもなし。
悪い奴も多いからねー。
*然して、汝等の宝たる、天にて積み増し増やさん。其処にては、衣蛾もて錆もて
損なわるる有らずにして。また其処ならば、盗人、打ち破りに入りて、宝奪ふる
適わじにして。
文学的な表現にされているが、実相はもっと切実で現実的な話し。実は、人体には
物質変換の機能が備わっている。ある種のメタ物質を生成することができる。
錬金術の奥義、その真実でもある。
宇宙にとっての、その運営維持に絶対に必需なる物質を生み出すことができる。
とても貴重な物質。とても特殊な振動とも言える。金に喩えられている。
具体的には、これは苦しみにおいて生成される。これでしかあり得ない。
その具体的な内容は二つ:
①意識して、敢えて積極的に取り組まれる、なんらかの重労働において。
そして、
②周りに、恵まれて備わっている(くる)他者の、不愉快な発現、言動立ち振る舞いを
敢えて、耐えて忍んで我慢することによって。
やがては、宇宙そのものが、その供給に対しての対価を支払ってくれる。
厳正なる精査/審査をもって。とても合理的でシビア。
徳力とか言うものの増大としても結果を残してくれる。
世界は彼の影響力に従い、その意に沿って反映を返してくれる。不思議。
*汝の宝、有るところ、汝の心もまた在りしかば。
天に宝を積めが聞き慣れたセリフですね。でもね、自分が心をどこに置くかなんて考え
られないよ。もう世界に丸ごとお任せってな感じだから。もうどうとでもしてくりゃろ…。
あんまり難しいこと考えられない。考えたくない。でも、きっとどっかに置いてはいるん
だろね。そこがどこなんかは生きている間は知らなくたっていい。
知ってて、知らない方がいい。ただアーメン。
*眼、是れ体の光明なりし。若し、汝の双眼、曇りなく純粋なれば、汝、全身
隈無くに光、十全と備わりたる。
人は目を見れば分かるの言葉があるので、ここは難しくはないでしょう。
少し脱線するならば、左目と右目は違っていることはお気づきだろうか?。
左目が爛々としていて右目に精彩が乏しければ、その人との付き合いは全力で
ボクは避ける。何故なら、左目は人工的な構成部を表し、右目はその人の本質に
関わっていると見るからだ。両者共にバランスよく、力があるならば、その人は
素晴らしい。たとえ、ワルであってもだ。
*然して、若し汝の双の眼、邪まなれば、汝の体、全て闇満つるにやがて至らん。
然すれば、若し汝の内にての光、其れ暗くば、闇たるの何と大きいもので有ることか!
目を見ただけで、邪なるものとの関わりがあることが察せられる。その魂は、やがて
地獄の存在に丸ごと飲み込まれてしまうことになろう。そうなれば、もう救われること
はない。
ヒトには、元々光が備わっているはずなのに、それが暗くなってしまっているとなれ
ば、どれだけ闇による侵略が進んでしまったことだろうか…。
これを許してはいけない!
光を、明るきを志向し、見つめて此れを愛し、内なる光を喜ばせよ。アーメン。
*誰も、二君に仕える、是れ叶わじ。一憎みて、他愛されん。もしくは一堅く守りて、
他見くびりて捨て置かれん。どちらかならんや。汝等、神と富、共に仕える、
是れ叶わじ。
ある時までは、両建てで奮闘するのが当たり前。入り用の時節もあるのだから。
でも、良心は守りたいよね。この節は真実においての極論であり、また軈ては
経験則ともなってしまうもの。そんな器用ごとができるのにも限界がある。
そうして思うのさ、「もう、しんどい」と…。
多くを諦めて、手放して、忘れ、切り捨てて、絶望の果てに辿り着くのがこの境地。
そうなったのならば、ただの幸せな、だが孤独なる人。
主は改めて、其の存在感を増してきて下さる。
*然るによりて、我、汝等に宣べん。生きるに心煩いすること勿れ。
何食せんや?何飲せんか?、若しくは、体に何まといするや?。
飲み食い、是れ人生より要也しか?。然して、体、衣服より大切ならんや?。
アソコも、ココももう行き飽きたしな~。どこ入っても大したことないのに軽く千円
近く取られるし、もうどないしよ?。着た切り雀は、男やし、うん、気にはならへん。
そんなこっちゃないわ、どこ行こ?
「あ~っ、あ~っ、悩む~!」
『ズバッ』
『変移抜刀十文字霞斬り』
*空ゆく鳥等見ひ。彼れ等、種撒くせず、刈取りせず、蔵に収めるもない。
然るにて、汝等の天の父たる、彼れ等養ひ育て賜ひておられん。
汝等、彼れ等より遥か優れたるならんや?。
ホント、是れって不思議。学校で自然についてを学びますた。食物連鎖とか恒常化
システムとか。是れらを自然発生的とか偶然の産物とか言うアホがいるんだが…。
どんな頭してんだろねー?。感性も知性も備えていなくても先生様にはなれるんだなー
としか思われない。
自ら然るべくあるなるを総じ称して自然。その諸相に直感を働かせるなら、背後に
超巨大知性あるは間違いなかりきこと。誠、畏れるべきと思われしたれば、是れ、
ただ拝して崇めにて崇めして奉らん。
え~っと、この別途、プラクリティーともインド文化では呼ばれ、またさらに智の女神
ソフィアが愛の限りを尽くして整えたとされる世界の只中において、人類も育まれている。
人間が、それからどれほど離れようとも、大枠において、及ぶ作用に変化は一切あり得ない。
愛しい魂たちが、そこを卒業できるようにとの願いと祈りの元、絶えず環境の再創造は
行われている。この脱出とも言えるミッションは人間だけに可能とされている。
*汝等の内にて、誰、心配するによりて生き在るに一時を加えれん?
また、何故に衣のこと思ひて悩み給う?
野の百合は如何にして育つか思ひ給え。勤労なくして、糸紡ぐもせずなり。
既に十全なる世界と一体になって生きていればこそ。
人は、これから外れてしまっている。
でもこれも既定路線。であってこその回心なのだ。
其の自由意志をもって主に帰還させるが課題であるらしい。
放蕩息子/放蕩娘の帰還に対して、父たる神がどのような対応をしてくれるか、
そいの思いたるや、いくばかりたるかについてはは聖書に当たられたし。
焦れて待つのも苦しきかろ。
アーメン。
*然れど、我汝等に告げん。かの名高き壮麗たる都ソロモン、その全盛期も、
野百合の一輪にも及ばざりき。
ここで確認されるのはイエスの感受性。美意識。理解力の凄さ。
独自に付け加えるのなら、花は霊光を発している。人はなんとなくとしか気づいて
いないが、特別な放射を行なっている。これに匹敵するのが天空の星々。共にあまりに
超越的なる味わい備ひたるたるがその真価なり。其れ等創られし方思へば、偉大さ初め
て覚え知られん。人の作った如何に立派な建築物といえども、もう最初からその土台が
違っている。
しかしながら、花は、やがては「褪せて」「萎れて」「醜き」へと移りゆく。
最後には、誰からも見向きされずに炉に投じられる単なるゴミへと成り果てる。
*何故に、神、野の草花さえかくの如く粧ひ賜れるか、若し汝等知りたれば…
其れら、今日ありても、明日は炉の火へと投じ入れさるる身たるものなるぞ。
彼、汝等の粧ひ、更に豊かなるにて賜れんことなどあるだろうか?
ここは再掲させていただく:
高卒の女の子たちがアクセル全開で仕事を続ける中、やがて臭い立つほどの生気の
オーラを放つようになっていく様を見て驚くととになる。彼女らは容姿の関係なく、
みるみる魅力的になっていった。営業の補佐的な仕事で、激務ではあったが、頼りと
されていること、女子は各部署では自分一人であったこと、また彼女らの潜在能力が実は、
かなり高かったことも関係してたのだがろうが、その変化には目を見はるものがあった。
*嗚呼、汝等斯くも信仰、少、也か?
『なんでここまで話さなならんのかー!』
『こんなことも分かっとらんのかー!』
『どれだけ…どれほど…愛し、思いやって下さっておられることかー!』
少し、感極まっておられる所です。みんな知らなすぎ、分かってなさ過ぎって。
父への愛、深きが故ですね。
*然るにて、『何食みて?』、若しくは『何飲むに?』、
若しくは『何をまといし?』などと曰ひて悩みすること勿れ。
是れ等、全て神知らざる異邦人らが、心砕いて好んですること也。
更に、汝等の天に在したる父たるは、汝等がそれ等要されんもちゃんと存知ある。
日々に入り用となること。悩むよね~(誰?)。それらにおいても考慮してくださってる。
食べたいもの食べればいいし、飲みたいもの飲めばいいし、ピンとくるもの着ればいい。
要は、日々の生活において、重心が何処にあるかってことだけ。
*然れど、第一に求むるべきは彼の王国たるぞ。そして、彼にある『義』をば尊びて
生くることにあらん。然すれば、要されてある全て、汝等に良くにして彼賜れん。
義は正しいことで、これを行うには勇気がいる。奮起しないとできませ~ん。
めんどくさい事ばかりです。メチャ負荷かが掛かるかも知れませ~ん。
真実を見ておいでの方が、これに報いて下さいます。
こっちの方が嬉しい。
*然るにして、明日につきて思い煩うこと勿れ。
明日は、それ自身が自らにて心配するに依りて。
日々に障害起こりにて、其れのみにてで十分足る。
これ、面白い表現だな~と思う。明日が人格化されて、それが考えるんだって。
つまりは、明日に居る、その自分が考えることだって話しなんだろうな。
あるひとの体験談を:
後数年で備蓄は尽き果てる。然るに、これから子供達の教育費においてますます入用に
なるではないか。なのに、実入りが大きく増える見通しは一切ない。給湯器も何やら
不調で、買換えが必要だと妻はくどくどしく報告してくる。古い家なので、彼方此方に
相当ガタがきているのだ。修繕交換が必要だが、そんな余裕はどこにもない。
門灯は切れたまま長くに放置され、庭へと降りる木のはしごは腐れて崩れ落ちてる。
未来を思えば、想定されるその展開には、ただただ絶望するしかなくなる…。
以上は実際に自分が経験したこと。でも、父なる神は、ボクが覚悟していたようには
されず、最後は大きく状況を変えて下さった。つまり、すべては杞憂なりしだった訳だ。
この観念でしかない妄想が、人の心を蝕むのだ。
日々の努力はいる。だが至らぬ未来において心配するは、要らぬ消耗であると。ここで
も、父なる神をどれだけ信じられるかに関わってくる。ガイドがあって、実体験され、
やがて信の深まりをもって、この感慨へと辿り着く。これが理解。
*裁くこと勿れ。然もなくば、汝も裁かれてに有らん。汝が輩、裁くに依りて、
汝同じく裁かれん。そして汝、用いたる同じ物差にて、汝も測られん。
これは言葉によって批判するだけに留まらない。無意識か、無自覚か知らないけれど、
「こと」は行なわれている。日に数十回?、いやもっと?…。
とにかくヒトは、誰かしら気いらない、気に食わないのだ。理由は多々あるが、救われ
ないのは、同じ欠点を思つものに対して抱くどうしようもない敵愾心ゆえのもの。
何を観て、何を感じて、何がどうなっているのか知らないが、是れは通常イジメに傾く
のが世間では一般。幼きが故に、自己の未発達部位への無自覚さ満載なるが原因。
つまりは甘えの構造にかっしり嵌ってるのだ。実態は自己憎悪でしかない…。
もう一つ。羨ましいから、妬ましいから、それが権威と社会認知されているから、
自分にとって脅威の芽と意識されるから……。だから、貶めることに精を出す。
自尊心、プライド、虚栄心等の賜物。
裁くなんて言うより「やっつける」の方があからさまで判り良い。
このやっつけるの態度は、結局は自分に返ってくるのが法則。
流行りの言葉としてのブーメラン。
もし、そこに見逃し難い「非」があるならば、それなりのマナーで伝えた後は、
静観決め込んだら良い。其の後で、彼が/彼女がどうなろうが、それは、所詮は、
彼等の責任なのだから。客観的な意味において、自分とは全く関係はない。
然るべくして、やがてはシステムが作動してしまう…。
是れは人には拠らないが故に、真実に非情なるもの。
時はかかるかもしれないけどね。
*何故に兄弟の眼におが屑あるを認め得るのに、汝自身の眼に梁、張り出したるに注意
払ふせん?。己が眼に、張り出したる梁の絶えず備わるに関わらず、如何して、兄弟に
向かいて、汝の眼よりおが屑取らせよなどと曰ひ得る?
素晴らしい喩え。素地は大工さんだからかもね。偏見、臆見、色眼鏡。
自分にはそんなものはありません、なんて言わないでね。
各タイプ毎に、傾向性が間違いなくある。バイアスと呼ばれるるものが。
この骨子については、エニアグラム人格論に当たられるのが良い。
ここではやり切れません。
兎に角、他人は置いといて、何はさておき、自分を知って改めることが一番肝要。
是れに取り組めるってことは、それは幸せなことなんだ…。
目から鱗ってな表現もあるよね。是れ経験から生まれた言葉なんだと思う。
この言葉、よくぞあり得たなと関心する。
*汝、偽善者ならんや!
善者なるの立場をもって他人を裁く。上目目線で周りを批判する。
それが間違いをもってとなれば、ことは悲劇で、もう騒動にしか繋がらない。
当然に、反発、逆襲がなされてしまう。ただの悪循環、不幸の伝播でしかない。
こういったものには、こころ和かに従順たるに接して、
されど本心ハ無限距離ヲ離れて保ちするが吉。
ところで、善者であることに拘る必要はないと個人的には言いたい。
周りから、そう認知されることに執心すべきではない。
ただ闇雲に相手の欲求に応える、埋めることが善行ではない。是れを習慣として
励んでいる人がいる。ほんとーに相手を慮って、かつ自分を大切にするならば、
厳しい態度で接することも時には必要である。もしかしたら、相手は未だ豚状態に
あるかもしれないよ…。あなたは、ただ利用すべき相手としか写ってないかもよ…。
まず何よりも、自己の良心を大切にしなければならない。
己の本質を、愛しみ、一番大切に思わなければならない。
長の人生において、是れを、育み、鍛え、自由に成長させなければならない。
それがあってこそ、できてこそ、幸福なるものは味わい得るようになる。
外見上、酷い有り様に成り果てているかも知れないけどネー。
*先ずは、己が眼より張り出したる梁をば除き給へ。然すれば、汝、事物明白に見る
こと得んしかば。兄弟の眼よりおが屑取り除けるは、それからにせい。
お前自身ができていない。自分を棚にあげてる。感情論だけでもの言ってる。頭だけで
しか考えてない。優劣しか行動原理がないん?。なにを勇んで口頭激しくも、モノ言い
よるん?。なにっ?、もうそれしか生き甲斐がないって?、止められへんって?。
困ったことに、酷ければ酷いほど、それの伝染性が増していってしまう。
*聖別さるるべき尊きもの、犬に与ふる勿れ。
また汝に備わりしその真珠、豚に投げ与ふる勿れ。
若しに、汝、其れ行わば、彼のものども、足によりて踏んで躙りてせん。
然して、やがて、振り向き返りて、汝牙もて引き裂かれん。
完全に機械的で無意識的な反射反応。
与えるまでいかなくても、触れただけ、察知しただけで拒否反応が起こっている。
何故?を探ってみても、何やら得体の知れないものをその頭蓋に囲っているとしか
思いようがない。無慈悲にてが当たり前の、「殺伐とした動物性」が、せめてもの
其れへの名付けになる。これに染まって、馴染んでしまってて、もうどうしようも
ないのだ。マスヒステリーとなって集団として顕在してくることも多々見かける。
善良なるものを痛め傷つけ、聖なるものを汚し、貶め、引き摺り落としたくて
しょうがないのだ。
真珠は、純粋なる真心でいいだろう。真心をもって与える金品、価値ある物品。
犬豚は、動物次元に生きている、畜生、餓鬼として表される人間。
豚は、貪り食い散らすしか頭にない。道理に関して全く感知することはない。
汚物の中でも、品性に関しての意識がないので、全く頓着しないでおれる。
これ、子供達において、ずっと増えてきている。それも女子において……。
その解禁はバブルの頃。好き放題できてが当たり前。是れが権利とな?。
*汝等、食断ち行いするに、陰気なる面、周りに晒すこと勿れ。
是れ、善者等為すること也て。
其れ、見掛けの態、損なうに依りて、周りに食断ち行ふ知らしめんとす行為也。
我、汝等に真を宣べん。其れ等、既に、十分に報いは得しと。
紳の士たれ。
みっともない真似は、絶対にすんな!
それらは、そゆことした時点で、もう満足果たしとる。
*頼み求めよっ、然らば、与えられん。探し求めよっ、然らば、見つけられん。
打ちて叩けよ、然らば、扉、汝に開かれん。
求めしは、誰もが受け取るによりて、探すは見つけ、そして叩くに戸開かれん。
アクションありき。
個人的に一番、有意義となったことわざを教えよう!。
『訊くのはタ~ダ!』。
恥ずかしがって、なにも口にしないのは駄目。甘えて、待ってても
なにも変わりはしない。赤の他人でもちゃんと答えてくれるよ!。
*汝等の内にて、誰が食む求めし己が子おりて、石をば与えん?
若しくは、彼の子が魚を求めしに、蛇与える真似だれするぞや?
若し、汝らそうであらば、汝等、邪まな侭に在りしても、
汝等、自身の子らに良きもの給うは如何にしてかヲ知りてある。
天国に座す汝の父たれば、彼、求め給いし子等に尚更に、
素晴らしく良き贈り物、賜れんこと確かにして明らかならんや!。
親子の情の機微、情愛も何かしらかの反映に基づいて発生進化してきたものなのかも
しれない。其の雛形であろう、神とヒトとの関係においては、もう完璧なる贈与が求め
に際しては行われる。重要なのは、可能性として与えられた自由意志である。これは、
どうするかを”自分で”考え決めて実行しなければならないといった制約である。
声をあげて望むこと、求めることを外に向けて声明することがどうしても必要。
甘えて、おねぐりして、黙って待ってるのは駄目。
放蕩息子/娘の帰還の章も、ここにおいては参照すべきである。
*然すれば、全ての、凡ゆるに於て、汝自身が人から『我為されたし』と、
願い、請い求め、祈念さるるを、皆に同じく為し施されん。
是れこそ、律法と預言者の預かりしの真髄なりき。
辛い経験が活きてくる。とりあえずは、同じ想いはさせたくない。
また、どうすれば良いかは自分の満たされなかった思い経験を参考にするのが一番。
問題はだ、PDCAのサイクルは絶対にこの世界では回らないことにある。
推測実験観察の科学的アプローチってやつ。見かけは完全無欠な方法論。
絶対に何がしかの原因が元で、破綻してしまう。何故か何処かで挫かれてしまう。
インターバルを越えてゆく為には、神が庇護賜える強力な枠が前提になるのであろう。
ショックとして与えるに有効なるは自己放下。自分の立場を、その関係においては、
一旦リセットしてしまうこと。デフォルト?。結果、再構築のプロセスが自動的に
起こってくる。これが全体にとって良い展開となれば、当然に自分にとても良いことになる。
簡単に言うと、敢えて、優位性を手放す、捨てる。自主的に人柱たらんとすること。
*狭き門より入れ。広きなるは彼の門なり。それ幅広ふにてして破滅へと導き往か
せんとする道なり。多くの者、其れ潜りて入らん。
「よっしゃ、分かったー」
「でっ、その狭き門とやらは、どこにあるねん?」
「早よ、教えたってや!」
*然れど、小さきなりしが彼の門なり。然して、その狭きの道、命へと
汝ら導かれん。ほん僅かのみしか、それ見つけるを得じ。
是れは、当人と主との関係ごとにしかならない。
導きがされて、是れが「そうだ」と自ずと当人に知れるだけ。
碌でもない展開が用意される場合もあるw。
サレンダーがキーとなります。皆んな、聡いから、逃げは万端となりやすい。
馬鹿な方が良いんかもね…。
*偽りの預言者に用心せん。其れ等、羊の皮被りて汝等の元來たるも、
然れど、心中に於きて、残忍にしてなる狼たりける。
シャルル・ドゴール・ペローによる 『Le Petit Chaperon rouge』 を参照。
(赤○○ん)
*彼等の持ちて寄らるる『実』に依りて、汝等、彼等見分けされん。
荊棘の茂みより、葡萄なる、人が摘みて取り出せるや?
若しくは、無花果、薊に依りにて、その実たる出づれ得るや?
純然たる OUT PUT のみにて、其れの評価はされなければならい。
厳正なる審査、評価、賞味もて。
*如此の理に依りて、凡て良き樹々よりハ、良き実結びして現われ出で給ふ。
然れど、悪しき樹々なれば、そのままに、悪しきの実結ばれして出ずらん。
是れ、道理なりたりければ。
*良き実、結ばざる木々、すべて切り倒されして、やがて炎の中へと投じ入れられん。
肝に命じ、是れ覚へして、夢夢、忘るることあるまじ。
*斯様なるにして、其れのもたらす実に依りて、汝等、彼等の真実何たるか知るを得ん。
上部のみの取り繕いで、何ともするハ是れ適わじ。
*我に向かひて、『主よ』『主よ』と呼びかけせん。
其のことごとく天の御国入るは成らず。
然れども、だた我父たるの御意志たる行ひたるのみには此れなされん。
状況を思い描くなら、無残でしかありえない。ほんとーに、僅かしかいないのだろう。
片や、大海の如き阿鼻叫喚の叫び声が、渦となって巻き起こっているのが分かる。
*其の日、大勢のものら、我に向かいて、
『主よ、主よ、我等、御名に依りて預言せしにあらずや?』そして、
『御名によりて悪魔払いて、多くの奇跡行ひせしにあらずや?』と訴へせん。
クリスチャンとの自覚で生きてきたとしても、洗礼を受けたとしても、天との
関わり合いが持たれたとしても、其の全生涯においての実際において、裁きは
下される。一時、天よりの恵みがあったが為に、その後、返って傲慢になって
しまい、かっての成果を台無しにしてしまうこともある。
自尊心と虚栄心は最後まで強敵として残る。
*然して、我、向かいて宣言せん、『我、汝等知りたるを得ず』と率直なる
想いもて。『我より離れ、去りて往ね!汝等、悪しき行いたるよ!』
旧知の間柄でありながら、『I do not know you』って言われることほど
ショックなことはない。
*然るにて、凡ての、我語りし其れ等の言葉聞き入れして、
そして其れ実践したるハ、岩の上に家建てたる賢い男に似たり。
目の前にあるものがその証明であり、言葉の背後には確固たる存在がいること
に改めて気付かされる。ならば、それは信を預けるに足りる、間違いのない話
であったことであろう…。
後は実践あるのみとなる。
それは最後まで、後々まで、惑い、不安に思い煩う、孤独な孤独な営為にしか
ならない。取り敢えず、揺らぐことは許されないである。
なぜならば…支えてくださっているのだから。
*雨降りて、大水下り來たらん。流れ高まりて襲ひしせん。風ハ強ふに吹き
付け來らん。其の家、連打にて損なわれんとす。然れど、其れ倒るるは有ら
ざりし。其れの基礎、岩の上に据えて置かれたるが故なりしかば。
自分には、これはあったと言わざる得ない。その実際は本体に当たっていただくとして、
なにがしかかの人災/天災が、試練として用意されるのが人生はないだろうか?。
みんながみんな、そうとは限りはしないが…。そんなことはどうでも良い。
各自、頼るべきも縋るべきもなくなる。長く長く、苦しみは続く。孤独も孤独、
これ極まれりとなる。縁ありてにより、なんとか過ごすことができた。
この経験は貴重でした。まだまだ続いているから言わぬが吉かもね…。
*然れど、我語りし是れ等言葉、聞きしても、尚も、実践せぬは、
凡て、砂上に彼の家建てたる愚かな人に似たらん。
雨降りて洪水押し寄せし。流れ高まりにて、
風強く吹き付けし、其の家を蝕み打ちてを重ぬん。
此の様ありにて、其の家、軈てに激しく崩れたり。
ここは、もうイザヤ6・9-11置くしかないでしょう。
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい、
よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心を頑なにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、
悔い改めていやされることのないために。」
わたしは言った。
「主よ、いつまででしょうか。」
主は答えられた。
「町々が崩れ去って、住む者もなく家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
*イエスの、言ノ葉語らるを終へ仕まいしに、群衆、彼の教えに甚く驚き当惑されし。
故なりしは、彼、権威備ゑたる人の如くして在るに、そして語るに教へ賜いしに。
然して、其れ等、彼等の既に知りたる四角四面の教師の如く悉くにあらざれば也。
以上です。
これが一時にヒトが話し得る内容だろうか?。
複数の記録者が残した文書から、証人がたくさんいたことが知れる。
ならば、やっぱり、垂訓が語られた舞台は事実、本当にあったのだ…。
なんたる知性であったことか!。
度肝抜かれて、その内容には惑乱動揺を覚えてしまう。
〈了〉
あとがき
自分が経てきた道筋は、一般の信徒のものではありません。
最初に体験があって、すぐに聖書を読んで、そしてグルジェフをガイドとして渡され、
そのあとは社会生活を教えの実践の場として生きてきたのです。
洗礼も、かの時より32年を経てからやっと受けた。(今日のことです。)
そんな人間が、思いの丈のありったけを込めて意訳を行い、
思いっきりッ、遣っ付けで、解説をまとめあげたのです。
洗礼の、まさに前夜に、あれら三編は編まれたのでありました。
不思議。
2019.Apr.28
イオフィエル(Iofiel)崇
いく箇所か、自動書記がある。誰でしょね?。しんがでしょ…