1. Queen’s Palace 千里ニュータウン

文字数 2,297文字

  「千里ニュータウン」は、竹林地帯を切り開いて大阪府北部の千里丘陵に開発された。その広さは1,160ヘクタール。東京ドーム246個分である。日本最初の大規模な宅地開発であったらしい。1961年に起工式があり、1962年に最初の入居が始まる。この頃はまだ地下鉄は開通しておらず、さらには中国自動車道も新御堂筋もなく「陸の孤島」でしかなかった。しかし1970年万博の開催を目標に突貫で整備はされていく。その期間は、わずか8年間。*完全に高度経済成長期(1952年~1972年)とリンクしている。

  大阪北部の茨木市に、ボクが5歳のときに住まいしていた。1967年のことである。父の勤める東○○ムの社宅の団地。幼稚園への通いは、小さな旋盤工場が両側に数軒、立ち並ぶ細い土道であったのを覚えている。油の匂い、金属を削る音、螺旋の切り屑が散らばる道をトコトコ一人で歩いていってた。この頃、父は、あそこの分譲に応募を行う。母の《厳命》だったらしい。格安で、土地を手にいれる千載一遇のチャンスであったのだそうだ。抽選の結果は、ある区画における第三位であった。”が”、そこが団地(UR)のすぐ前の立地であることから、上位の方々は辞退をされてしまう。そして父母は、そこを手に入れることが叶う。執念の獲得であったらしい。*当選確率は多摩と同様、数百倍が当たり前だった。

  このニュータウンに引っ越してきたのは68年、ボクは6歳。まだ千里中央駅の周りは広大な荒野でしかなかった。何台ものトラックが彼方此方を走り回っていたのを思い出す。造成の真っ最中だったのだろう。むき出しの大地は、だただたドロ塗れの印象しか残っていない。その後も長く、十年を越えて、荒野は放置されていた。家から近いということもあり、幼少期のボクは、ここでよく一人で遊んだ。夏場は、蔓延(はびこ)る雑草を相手に、剣の腕を磨いていた。「プツッ」と、キレイに断たれ、静かにそれは落ちる。切り口には白濁した樹液が膨れる。切る感覚を、ボクは大いに楽しんだ。白土三平、カムイにおける「水毛剣」をイメージしていた。家は、小さなプレハブ一階建(坪は80程)。家族は五人となっている。庭には会社の研究所として、更に小ぶりなプレハブがあった。

  ボクが小学六年の時に家が建て替えにされている。両親は蓄財をはたいて鉄筋二階建ての大層な住居を構える。白いコンクリートのキュービック。設計は友人に頼んだそうだ。会社は既に江坂に移されている。この家に対する母の愛着は大きいものがあった。『絶対に人には売らない』などと、よく言ってた。ボクにも『絶対に売ったらあかんで!』と真剣に怖い顔で言い渡していた。余程、ボクの日頃の行いから、将来はいい加減なことしかしないと思っていたのだろう...。とにかく、母にとっては、夢の城であったのは間違いない。これは、自分が実現したのだとの思いであったのも間違いない。

  父が亡くなってから、母は、ここで一人で住まいすることとなった。根が大層さみしがり屋なので、これはキツかったと思う。頼りにすべき息子は、近いとは言え少し離れた場所にに家族で住んでいるし、あまり相性は良くはない。お手伝いさんを、取っ替え引っ替え何人も雇っていたが、みんな長くは続かなかった。彼女自身がだらしなく、よく失せ物をする。「あんた盗ったでしょう」が致命的だった。母は、人間を相手として付き合う事ができない人となっていた。人の心情としての機微に疎く、人が自分の思ったまま行動するのが当たり前になっていた。また、こちらが、そのように努力しても、なにがしか気に入らないことを見つけてきては、それを激しく訴状に上げて糾弾してくる。周期的に爆発するヒステリー。とてもタチが悪い。義理の娘としてのボクの妻に対しても、姑根性が露骨で、いい関係は築けてはいなかった。根は悪い人ではないのだが、育ちが、これまでの社長としての立場が、「拗れ」を、「甘え」を、助長強化してしまっていた。結果、大いなるジレンマを抱え込み、その挙句に苦しみを撒き散らす存在となる。ペインボディーの権化。コードは繰り返さない...。

  ボクは心配はするが、あまり立ち入りたくはなかった。せめて週末一度は家族での訪問を心がけていた。また、夫婦して、それなりに思いやっての努力もしていた。でも、おかしな敵愾心を煽ることがしばしばであった。要は、同居して欲しかったのだと思う。それも即座に。でも、これは、無理な話だった。

  そして、ある時から急に、長女の実家での滞在が始まっている。それも単独で。彼女は、アメリカで旦那と生活をしているはずだったのだが。ボクは、里帰りで来ているものとばかりに思っていた。彼女の身の回りで何事かが進行していたのだろうが、一切、母からも妹からも話はなかった。ボクは、あまり気にはしていなかった。
精一杯、胸襟を開き、親愛に接してみていた...。


追記:

父は、まだ健在な頃に、『母の面倒を見なあかんで』とボクに言った。ボクは、自分の奥さんの面倒は見るが、母は貴方が見て下さいと返す。子供として実直な思いではあったろうが、これを側で聞いていた母には、不快な、不誠実な言葉として響いていたのだろう。

コンクリートは、固くなさの象徴に思える。土台としては良いのだが。

フランス大使館関係の仕事で、一人一台ベンツが充てがわれている?...。
住友商事の子会社で、アメリカで生活している?...。
ありえない。

こちらも関与は無理な話であった。


  

  
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