☆. 回答編++。

文字数 12,444文字

 二つ目は連想的影響力による。つまりは他者との感情における相関関係において...。ここでは『反発作用の法則』が働く。先の牽引の法則とは逆である。他人の態度は往往にしてあなた自身の態度を反映していることを認めよう。あなたが始め、相手が同じことをする。あなたが愛し、彼女が愛する。あなたが否定し、彼があなたを批判する。この法則は、⓶『少ししかないところには、さらに多くが加えられる』で表される...。
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「相手を思いやる心、慈しむ心、つまりは〈愛〉が少なくなれば、諍い、争乱、騒動などによる苦しみが増すばかりとなる」がボクの見立てです。

多分間違っているでしょう!

むしろ、もしこの回答が正しければ、何故もってまわった表現を彼はしたのか?を考えてしまいます。決してカッコつけたわけじゃないでしょう。多分ですが、あまりに日常的に言葉としてはありふれていながら、実際世の中には真実としてのこれが見当たらないで、おいそれと明言したくなかったのでは?などと想像してしまいます。彼の奥ゆかしさの表れと取れるのかもしれません。

お付き合いいただきましてありがとうございました。」


追記:
オリジナルが揃えられたこと自体が奇跡だったのです。
なぜなら基本、彼はメモを取ることを禁じていたからなのです。
どれだけ真剣に皆が聴いていたかがうかがえますよね...。

『反発作用の法則』は悪く転がれば、続いてカルマの連鎖として世に広まっていってしまう。2004年のアメリカ映画『クラッシュ』(サンドラ・ブロック)なんかはそれがテーマだ。ある意味よくできてた。

予告:
このエピには追加を行います。関係する話があるのです。
あまりおおっぴらにしたくはありませんので、よろしくお願いします。

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追加①:『解放が解放へと導く』。 プリオーレ 1923.02.13

  これが、”真実” における最初の言葉である。カッコ付きの真実ではなく、この語が本当に意味する通りの真実。単に理論的な真実ではなく、単なる言葉でもない。実践して達成することのできる真実である。

  語られる解放は、あらゆる時代を通し、すべてのスクール、すべての宗教の目標とされた『解放』の意味である。この解放は、非常に困難なものであるがゆえに、偉大なる解放とされた。すべての人々がそれを求め、それを得ようとして奮闘した。だが、最初に、小さな解放を成し遂げられずには、獲得することのできないものでもあった。

  偉大なる解放は、われわれの『外からの影響力』からの解放を意味する。小さな解放とは、われわれの内で作用するものからの解放である。

  初心者にとっては、この小さな解放でさえ非常に偉大にみえる。初心者が、まったく少ししか外的影響力に依存していないためである。内的影響力から自由になった人だけが外的影響力の支配下に入る。このことは忘れてはならない。

  内的影響力は、人が外的影響力の支配下に入ることを妨げる。内的影響力、内的奴隷状態は、様々な根源と、多くの独立した要因から生ずる。独立の意味は、ある時は一つの要因であり、別の時は別の要因のためである。このことは、我々が多くの敵を自身の内に持っていることに原因する。

  内的影響の源泉としてある全部の敵を、ここで数えあげるのはむつかしい。敵は、あまりにも多い。それぞれにおいて、直接に、特別にワークをすることは困難で、また、敵が多すぎて、時間がかかりすぎる。一つ一つと戦い、一つ一つから自由になれるほど人生は長くはない。そこで、いくつかの敵から同時に自由になるために、同時に破壊できる方法、つまりはワークの方法を採用する必要がある。間接的な対処にもなる方法である。

  我々が多くの独立した敵を多々持っていることは述べた。しかし、主たる、大いなる力を振るう敵は、『虚栄心』と『自己愛』、この二つである。最も根源的なものとして、この二つはある。(ある教えでは、”悪魔の使者” と呼ばれる)。

  また、この二つは、ある理由で、『虚栄夫人』と『自己愛氏』とも呼ばれる。

  これら悪魔の使者は、われわれと外を隔てる敷居に立ちつくし、良い外的影響だけでなく、悪い外的影響が入ることも阻止する。悪い面も良い面もある。

  自己が受ける影響力を区別することを望む人にとって、こうした番人がいることは有利かもしれない。しかし外部からの良い影響力だけを選べるわけではないのだから、すべてが入ってくることを望むべきである。可能な限り自己を解き放ち、これら好ましからざる番人から、ついには完全に自由になることを目指さなければならない。

  これについては、多くの方法があり、多数の手段がある。しかし私としては、不必要な理論を弄することなく、『簡潔に、かつ効果的に推論し、自己を自由にする方法』を勧める。

  『効果的な推論』が自己解放を可能にするに役立つ。

  たとえば、われわれの人生の大半を占めている自己愛を取り上げてみよう。

  誰が、または何かが、外部からわれわれの自己愛を傷つけるとする。その時だけではなく、その後長い間、その衝撃がすべての扉を閉ざし、人生を閉鎖することになる。

  私は外部とつながっている時、生きている。内面だけで生きているとなれば、それはもう人生とは呼べない。だが、あらゆる人がこのように生きてしまっている。

  私自身を調べるとき、私は外部とつながることとなる。

  たとえば、今私はここに座っている。Mがここにいる。Kもいる。我々は一緒に生きている。Mが私を馬鹿者と呼んだーー私は感情を害する。Kが私を軽蔑的に見たーー私は感情を害する。私は、これらのことを気にかけ、傷つき、平静さを失い、長い間自己を失った….。

  すべての人が、いつも、このように影響され、こうした経験をみんな持つ。ある経験がおさまると、その途端、同種の、他の経験が始まっている。われわれの機械構造は、異なる起源からの影響を同時に経験/感受できるように、複数の場所が配置されているわけではない。

  『われわれの心理的経験のための場所は、一つしかない』。

 *もしこの場所が、こうした様々な経験で占められてしまっていれば、(本人は望むままの経験をしているのだとの思いでいることには疑問の余地はないのではあるが)、ある『達成』、『解放』が、われわれを特別な経験の地平へと導くものだとしても、このような有様では、そうはいかない。

  Mが、私をバカ者と呼んだ。なぜ私は、感情を害されなければならないのか? そんなことでは私を傷つかない、私は腹を立てない。これは私が自己愛を持っていないからではなく、ここにいる誰よりも多くの自己愛を持っているためなのかもしれない。まさにこの自己愛こそが、私を腹立たせないようにしてくれている。

  私は普通の方法とは反対に考え、推論する。彼が私をバカ者と呼んだ。彼が賢いのは確かなのだろうか?。彼自身がバカか狂人であるかもしれない。彼の判断こそが馬鹿げている。もしかしたら、誰かが私に関して彼に何かを吹き込んだのだろうか?ーーそうであるならば、彼にははもっと悪い評価が下されることになる。

  私は自分がバカ者でないことを知っているので、腹を立てない。馬鹿者が私をバカ者呼ばわりしても、私の内面はなんら影響されはしない。

  だが、ある場合には確かに、私は馬鹿者であり、馬鹿者と呼ばれても傷つく訳にはいかない。私自身のワークは馬鹿者でないように努力することにあるーー(私は、これをあらゆる人の目標であるとも考える)。私は考え、反省し、おそらく次には同じことはしないであろう。

  それで、どちらの場合においても、私は傷つきはしない。

  Kが私を軽蔑的に見た。しかし、私は感情を害さない。逆に、私を蔑むように見た彼を憐れむ。蔑むように見るためには理由がなければならない。彼に、そのような理由があったのだろうか?。誰かが彼に、私についての悪い見解を持たせるような事を言ったのかもしれない。彼が、他人の目(見解)を通して、人を見計るほどの奴隷状態にあることを憐れむ。このことは、彼には”自己”がないことを証明している。彼は影響力の奴隷である。よって私を傷つけることはない。私は自分を知っている。自分についての知識で、自分を判断するこことができる。

  私はこういうことは、すべて、推論の例としてもらうために話している…。

  実際には、われわれは(真の)『自己』も、(真の)『自己愛』も所有していないということに、いっさいの原因と秘密がある。

  概して、一般的にわれわれのイメージとしては、自己愛なるものは非難されるきらいが多い。しかし、残念ながら、われわれが持っていない『本当の自己愛』は、望ましく、しかも必要なものなのである。

  自己愛は偉大なものなのである。『自己愛を持つ者は、自由への途中』ということわざがある。 

  自己愛は、自己を高く評価している事に基づく。自己愛を持つことは、その人が自分自身であることを証明する。

  前に述べたように、確かに自己愛は悪魔の使いである。われわれにとっての最大の敵である。強い願望とその達成を妨げる「メイン・ブレーキ」であり、地獄の使者の主要な武器である。だが、同時にそれは魂の属性の一つでもある。人は、これによって霊を理解する。自己愛は、人間が天国の微片であることを示し、立証する。しかし、表面的に見るだけならば、一生かかっても、一方を他方から区別することはできない。

  ところで、ここに座っている人たちは、誰もが自己愛で満ちている。自己愛で溢れそうである。そうであるにも関わらず、自由のほんの一片すら獲得してはいない。

  いかにして、ある種類の自己愛を他の自己愛と区別したらよいか?外見は非常に難しいということを、すでに述べた。他人においてを見るときでさえ、そうであり、我々自身を見るときは、もっとむずかしい。しかし、ありがたいことに、ここに座っているわれわれは、一方を他方と混同する心配がない。幸運である! 本当の自己愛がまったくないから、混同するも何もないのである。

  われわれの目標は『本当の自己愛』を持つことでなければならない。真の自己愛を持てれば、まさにこの事実により、われわれの中の多くの敵から自由になることができる。自己愛氏と虚栄夫人という主要な敵から自由になることができる。

  この講義の初めに私は『効果的推論』という言葉を使った。効果的推論は実行により習得され、長期間さまざまな方法で実践されるべきである。

出典:
Early Talk of Gurdjieff / Views from the Real World
グルジェフ・弟子たちに語る
前田樹子=訳
めるくまーる
第五部 P.379-385

補記:
一つの自己愛は、自分をただ甘やかせるものとしと機能するもの。
もう一つは、道徳心に根ざす自己への信頼評価として確認されるものなのだと思う。さらに、『自己』は、本質の成長の結果として現れてくるものであって、人格としての話ではない。*えらい改稿になってます。だって、原訳が意味わっかんないんだもん..。

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追加②:【二つの河】。  ニューヨーク 1924.02.22

  人類の生存における全容については、様々な源から産まれ出て、やがては水流となる大河、それも、ある地点からは、二つに分岐する『河』としてイメージすることは有益である。(河は、それ自体、『全宇宙』として進展するシステムを構成する鎖の中の一つの環(わ)である)。

  この二つの流れは、絶えず出会い、互いに越えたり、並んで流れたりする。だが二つは決して合流することはない。互いに支え合い、互いに相手を必要とする。

  この二つの河は、「受動的なるもの」「能動的なるもの」と言える。(法則は、何においても、どこにおいても同じである)

  われわれ、一人一人の存在は、(他の生物であろうと)、河における「水滴」にたとえられる。

  宇宙の進展を支える共通の法則に従い、この河は、定められた方向へと流れを進める。「曲がり」「くねり」の変化が起こるのは、その役割のためである。河の構成要素であるそれぞれの水滴、(地球上の全ての生命)にも、同じく、果たすべく義務がある。

  しかし、人々が、『人間としては相応しくない生存をするようになった』ことが原因で、その義務を果たすことをしなくなってしまった。結果、現在の地球上における人類は、二つの河をいくようにされてしまったのだ。
  
  偉大なる自然は、好ましからざる人類の頽落を予見し、すべての存在の中に、この二つの流れと各々呼応する『特質』が獲得されるよう、徐々に調整をおこなった。結果、『生存』という名の河の分岐点において、どちらの流れに入るかは、各存在の持つこの特質において、峻別が行われるようになった。

  自主的に『自分自身の否定的な部分との戦い』を行う人間の場合、その奮闘の結果、「あるもの」が生じ、蓄積される。この特質がある一定量獲得されると、それに呼応する相応しい流れに入る可能性が開かれる。

  さて、普通の人々の場合は、全員一緒くたにされてしまう。第一の河、それ[全体]としての存在となる。

  第一の河においては、法則は、その潮流自体、河全体に働くだけのものだ。「個々の水滴」への考慮は一切ない。つまりは、水滴の位置、運動、方向の変化は、完全に「偶発的」なものとなる。

  ある人間の「生」が、容易であるか、困難なものであるかは、その水滴の位置によって決まる。

  ある瞬間には、水滴はここにあり、次の瞬間にはあそこにある。今、水面にいるかと思うと、次に瞬間には河底へと沈んでいってしまう。偶然に浮上し、他と衝突し、また下降する。素早く動いたかと思うと、今度はゆっくりゆったり流れている…。

  水滴のための法則ではないので、ここでは、「個人の運命」と呼べるものは、実質、「存在しえない」。河全体が一つの運命を持ち、その運命をすべての水滴が共有するだけなのだ。個人の悲しみ、喜び、幸福、苦悩の全ては、この流れの中では「偶発的に起こる」だけのものでしかない。
注:(戦争や事故天災などにおける大量死を思われたし)

  だが原則として、水滴は、この全体としての流れから脱出し、第二の(隣の)河へと飛び移れる可能性を持っている。これもまた、自然の用意した法則である。

  その為には、飛び越えやすいところで、水面に浮上し、堤(つつみ)に近寄れるように、水滴は、「偶然の衝撃」と「河全体の弾み」をいかに利用するかを知っておかなければならない。水滴は「風」と「水の流れ」と「嵐」を利用する為に、「適切な場所」だけではなく、「適切な時」も選ばなければならない。そうすれば、彼は水煙とともに上昇し、他の河に飛び越えられるチャンスを得る。
注:(とてつもなく重要な箇所。かなり即物的かつ現実的な話と理解した方がいい。水煙とともに..の部分は実際に経験した人のみの表現だと思う)

  〈第二の河〉に入った瞬間から水滴は、異なる世界、異なる存在となる。今までとは異なる法則に支配されることとなる。こちらでは、「個々の水滴」のために法則がある。そこでは、「交互前進」の法則が働く。水滴は、前と同じく、上にいったり、底にいったりはするが、それはもはや偶然ではなくなる。

  水面に来ると、水滴は徐々に重くなり、沈下する。水底で重さを失い、再び上昇する。水滴にとって、水面に浮くことは良いことであり、水底にいることは悪いことではある。これは同じことである。しかし、第二の河では、状況の多くは、各人における熟練と努力にかかってくるのだ。

  更に、この第二の河には、異なる多くの支流があり、水滴は定められたものに入らなければならない。自己を準備し、もう一つの、その次の、そのまた次の流れに入る可能性を獲得するために、水滴は、できるだけ水面に浮いていなければならない。

               ***

  現在、ここにいるわれわれは、全員、『第一の河』にいる。この「受動的な流れ」にいるかぎり、「受動的」であるかぎり、われわれは小突き回され、あらゆる偶然のなすがままにされるだけだ。われわれは「偶然の奴隷」である。

  しかし、自然はわれわれに、この奴隷状態から抜け出す可能性を与えてくれている。

  われわれが『自由』について話す場合は、まさに、この『第二の河』に渡れる可能性についてを話しているのである。

  もちろん、ことはそう簡単な話ではない。ただ願うだけでは渡れない。強い願望と長期の準備が必要である。第一の河の持つすべての「魅力」と「自己同一化」することことから抜け出さなければならない。この河においては、(これまでの価値観、人生観においては)、あなたは「死ななければならない」。

  『死せずして、再び生を得ることなし』と言うように、すべての宗教がこの死についてを教えている。

  これは肉体の死を意味するわけではない。そういった死から復活する必要はないのだ。なぜなら、『魂がありそれが不滅なら』、肉体なしにやっていけるからである。肉体の喪失を、われわれは通常、「死」と呼んでいる。『復活』することの実際は、教会の神父たちが教えるような、審判の日に主なる神の前に出るためではない。
注:(魂は、ある種の努力の結果として、獲得されるものであると、G は語る。最初から持っているものではないとする。これは方便だ。繭を破れない、発芽しないものには存在価値がないだけ。)

  『否』、キリストや他のすべての教えは、生の渦中における死と復活についての話なのだ。

  これは人間が、最初の、基本的解放を得る為の必要条件である。

  人から諸々の幻想を奪い、真実を見ることを妨げる一切のもの、つまり、その人の「関心」「心配」「期待」「夢」「希望」を奪ったならば、一切の努力が脆くも崩れさり、あらゆるものが無意味になる。空の存在、空の肉体が残り、彼は、ただ生理学的に生きている状態になろう…。これこそが「私」の死である。

  「私」を作り上げているあらゆるものの死、無知と未経験から集められた、すべての虚偽を破壊することである。後に、これらのいっさいは、単に材料としてその人の中に残るが、選択されることになる。そうなると、人は自分で選ぶことができるようになり、他の人たちが好むもの、望むことを押し付けられることはなくなる。意識して選べるようになる。

  これはむずかしい…。いや、むずかしいというのは正しくない。「不可能」という言葉も誤っている。というのは、原則として可能であるが、正直に働いて億万長者になるより、一千倍むずかしいだけにすぎないからである。

   ***

[問い]:二つの河がありますが、水滴はどうやって第一の河から第二の河へいくことが出来るのですか?

[答え]:切符を買わければならない(対価を支払う)。「変わることができる本当の可能性を持つ人」だけが渡れる。この可能性は、願望、非常に強い特別な願いを、人格ではなく、本質として持つこどができるかにかかっている。自己に誠実であることは非常に難しい。人は、真実を見ることを「とても恐る」ということを理解しなければならない。

  「誠実」とは、良心の機能である。一人残らず良心を持ってはいる。これは正常な人間の属性である。だが文明のために、この機能は外皮で厚く覆われてしまい、連想が強く作用する状況を除いて、働くことがなくなってしまった。そのような機会は、強い衝撃、大きな悲しみ、あるいは侮蔑受けることから起こる。そのとき、『良心』は、〈人格〉と〈本質〉を結びつける役割を果たす。そうでないときは、人格と本質は全く分離してしまっている。良心は少しの間機能し、再び姿を消すこととなる。
注:(道徳力なるものも、ここでの話を背景として理解されるものだと思う)

  あなたの質問も、(本当のものがみんなそうであるように)、『本質』に関係している。あなたの本質は、不変なる属性である。他方、「人格」とは、あなたの環境により生じた、外から来たものに過ぎない。教育、思想、信念、規律、つまりこういったものは、手に入れることも、失うことも容易くできるものなのだ。

  私の話の目的は、あなたが「何か本当のもの」を得るように助けることである。だが、今我々は、これを真剣に論じることはできない。「この問題を考えるには、いかに私自身を準備すべきか?」ということを、まず第一に問わなければならない。

  人格についての幾らかの理解が、あなたを、このままの人生おいての不満に導き、もっと優れたものを見出そうという希望に至らせた、と私は推察する。あなたは、私が、あなたの知らないことを教え、第一歩を示すように望んでいる。

  あなたが普通「私」と呼ぶものは、私ではないということを理解するようになりなさい。たくさんの「私」が異なる願いを持っている。これを確かめなさい。あなたは変わることを願っているが、あなたのどの部分が、この願いを持っているのだろうか?あなたの多くの部分が、また違った多くのことを求める。だが、ただ一つの部分だけが真実のあなたである。そのあなたがこの願いを持つのだろうか?。

  あなたが、自身に対して誠実であるように務めることは、非常に有益である。誠実さが、扉を開く鍵なのだから。その扉から、あなたは自己の別々の部分を見る。まったく新しくものを見る。誠実であるように努力を続けなければならない。あなたは日ごとに仮面をつけ変えて過ごす。それらを、少しずつ剥がさなければならない。

  だが気づかなければならない重要なことがある。人は自分自身を自由にすることはできない。自己をいつも観察し続けることはできない。たぶん五分ならできるかもしれないが、自分を本当に知るには、自分が一日中、どのように過ごすかを知らなければならない。注:(これが師の必要性の由縁)

  また、人は「一つの注意力」しか持っていない。だから、常に新しいものを見ることができないのだ。だが、時には偶然に発見することができ、それらを再び確認することもできる。しかし、人間は機械的に生活しているため、自己の弱点を見ることは非常に稀である。注:(肉体にか、感情にか)(自動化、習慣化された有様)

  あなたは何か新しいものを見ると、その印象は記録される。以後は、それを同じ印象で見てしまう。それは正しいかもしれないし、誤っているかもしれない。

  ある人のことを、その人と会う前に聞くと、あなたは勝手にその人のイメージを作り上げてしまう。それが少しでも本人に近いとなれば、現物でなく、勝手なイメージの方が強化されてしまう。われわれは、目の前にあるものを、非常に稀にしか見ていないのは真実である。
注:第一印象が、後々まで影響するがいい例。
注:過去に記録された印象(記憶)が機械的に呼び起こされ、現在を真っ当に、素直に、新鮮に、真っさらに感受できない。夢見の中で、幻想の中で人は生きているとされる背景がこれ。

  人は先入観に満ち満ちた人格である。

  先入観にも二種類がある。本質による先入観と、人格による先入観である。

  人はなにも知らず分からず、ただ権威に従って生き、あらゆる影響を受け入れ、信じる。注(あるグループがあり、あなたはそのメンバー。その場を支配的なムードに沿って、傾向に従い、ものを見、感じる。群衆心理、マスヒステリーの実相がこれ)

  われわれは、本当には、何事も知っては…、分かってはいないのだ。

  ある人が、本当に理解している主題について話している場合と、不理解にもかかわらず言葉を無意味に話している場合がある。われわれは、それらを区別できず全部受け入れ、信じてしまう。

  われわれは、自分のものを何も持っていない。ポケットに入っているものは、どれもこれも自分のものではない。

  われわれは、内面には何も持っていない。空っぽである…。

  赤子の時からほとんど何も吸収してこなかったからである。けれども、時には偶然に何かが入ってきているかもしれない。われわれは人格の中に、拾ってきたかと思われる二十か三十の概念を持っている。これらと類似の概念と遭遇すると、われわれは、それを理解したと思う。だが、これは記録された印象のだたの連想による再帰に過ぎない。『理解』などと呼べるようなも代物ではない。

  われわれは、先入観と先入観の釣り合わせ、辻褄合わせをしているだけなのである。ここでも現実の(幻想の)奴隷である。

  本質も、これと似たような感受性を持つ。例えば、色についての話だ。誰もが、自分が愛着する特別な色を持っていると話したが、そうした特殊性も実は、偶然に機械的に身についただけの話なのだ。

  さて、質問について、次のように答えることができる。真の知識を持ち、あなたを助けようと願う師を、あなたが見出し、あなたも学びたいと願うとしよう。そうであっても、師はあなたを助けることはできない。あなたが正しい方法で願うときだけ、助けることができる。これがあなたの最初の目標となる。

  だが、この目標も、かけ離れ過ぎている。何があなたを、この目標への思いへと至らせたのか?、あるいは少なくともあなたをそれに接近させるのか?、ということを先ずは見出さなければならない。

  『願うという能力』(祈る)が、持てるようになれることを目標とせねばならない。これを真実に達成できるのは、『自己が無である』ことに、『無力である』ことに、気づいた人だけである。

  われわれの持つ価値観を、再吟味し直さなければなければならない。そして新たな評価づけは、必要性に基づいて行わなければならない。自分一人ではできないことなのだ…。

  何も、誰も、あなたを、ただ助けることはできない。あなたが道を進むとき、初めて助けを受けることができる。だが、あなたは未だ、何も道を進んではいない。

  直ちに誠実になることは非常に困難だが、努力すれば徐々にできるようになる。あなたが誠実になれば、私はあなたに、あなたが恐れるものを見せてあげれるし、あるいはあなたが見ることを助けることができる。そうすれば、あなたは自己にとって何が必要であり、何が役立つか見出すであろう。こうして価値観は本当に変えることができるようになる。

  あなたの心は(人格として抱く思いは)日々変わるが、本質は変わらない...。

  だが、危険が伴う。こうした心の準備さえ、結果を生じる。人はときたま、自分にとって非常に都合の悪い、居心地の悪い、少なくともその人の心の平和を乱すものを、本質はそこに察知する。その時、彼はなにかを味わったのであり、たとえ忘れても、その味わいは、やがてまた戻ってくる。この経験が強ければ、連想があなたにそれを思い起こさせ続ける。経験が極度に強ければ、あなたは半分はある場所に、もう半分は他の場所にいることになる。完全な居心地良さは失われてしまう…。

  魚でもなく、人間でもなく、鰊(ニシン)でもないという非常に不幸な状態にもなる。冗談ではすまされない危険性がある。

  これは、変わることができる真の可能性を持っている人だけに良いことであり、その人が変わる好機である。

  席を変えようとする前に、よく考え、二種類の椅子をじっくり眺めるのが賢明であろう。

  普通の椅子に座る人は幸せである。天使の椅子に座る人は更に一千倍幸せだが、落ち着くべき椅子を持たない人は、ただ単に惨めなだけの存在である。

  価値のあることかどうかは、あなたが決めなければならない。椅子をよく調べ、自分の信ずる価値を再吟味しなさい。注:(仕事、お金、社会的地位、趣味、ファッション、友達、好きな女の子のタイプ、理想とするの家庭、支持する政党、...)

  最初の目標は、他のことは全部忘れ、友達にも話し、椅子を研究すること、よく調べることである。警告しておくが、調べはじめると、現在の現在の椅子に落ち着くことには、多くの悪いものを見出すことになるであろう。注:(第一の河の中にあり続けるということ)

  自分を本当には知らないのだから、自分を改めて見つめるように努めなさい。

  あなたは危険を認識しなければならない。すなわち、自分自身を見ようとすれば、人は非常に惨めになるかもしれない。しかし、多くの悪い面を初めて理解し、それらを心から変えたいとの願いを持つようになる。

  そして、変化は非常にむつかしいということに気がつく。始めることはやさしいが、いったん自分が今いる椅子を放棄すれば、他の新たな椅子を得うることは非常に困難であり、大きな不幸の原因となるかもしれない。

  誰もが良心の呵責を知っている。しかし今のあなたの良心は相対的である。

  価値観を変えると、自己を偽ることは、やめなければならなくなる。

  一つ見てしまうと、もう一つを見るのはずっと容易になる。目を閉じるのが難しくなる。

  変化を求めることを諦めるか? 進んで危険を冒すのか?、どちらかである。』

出典:同書
第五部 P.337-347

お断り:
かなりの変更と加筆を加えています。ご注意ください。
原訳自体が、めちゃめちゃ分かりずらいものなのです(メモのごった煮だったのでしょう)。しかし、大変に重要な情報です。できるだけ意味が通るようにいたしました。

*しゃべログに関連情報をUPしております。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

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