☆☆. 要約版+。

文字数 12,530文字

質問に関する部分においてのみを抜粋し、再校正、要約を行いました。
改めて内容をご確認ください。

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ある影響力においては許容し、しかしいつくかの影響力からは解放されるべきである。

『二種類の影響力から自由になることが可能だ。』

  一つ目は理化学的影響力だ。この影響力は、身体、感情、思考、(さらには、ある人においてはエーテル体も含む)、その人の大気の放射に起因する。これから自由になるには、受動的でなければならない。そうすれば少しは自由になることができる。ここでは『牽引の法則』が働く。類は類を呼ぶ。つまり、あらゆるものが同類がいっそう多く存在する場所へ向かって行く。たとえば、私が『平静』で落ち着いていれば、私の放射は重く安定的だ。また空白のスポットがあれば、外からの放射をそこが受け入れることができる。他者の放射が私に達すれば、私はそれをできるだけ吸収しすることとなる。放射は、静かで、摩擦のない、空白の場所に留まるのだ。他方、私が動揺してしまえば、逆に私の放射は他所に向けて出ていってしまい、私は十分な放射を持たなくなる。また隙間なく、あらゆるものが一杯であると、放射は私に突き当たるか、はね返るか、あるいは通過していってしまうだけになる。この場合も放射は私の邪魔をすることは無い。というわけで、どちらの場合にも、私は安全である。⓵『多くを持つものにはさらに与えられ、少ししか持たないものは、それさえ奪われる』この言葉がすべてを言い表している。

  二つ目は連想的影響力になる。つまりは他者との関わりにおける感情(快・不快)の反応においてである。これから自由になるには、『人為的努力』が必要とされる。ここでは『反発作用の法則』が働いてしまう。この法則は、⓶『少ししかないところには、さらに多くが加えられる』で表される。つまりは、今度は牽引の法則の逆である。この種の影響力のもとでは、あらゆるものが反発作用の法則によって起こる。まず他人のあなたに対する態度は、あなた次第であるということを知るべきである。知性を持って生きるためには、あなたに対するほとんどすべての好意や悪意が、あなたの内面と外面の態度に責任があるということを理解することが大切である。他人の態度は往往にしてあなた自身の態度を反映している。あなたが始め、相手が同じことをする。あなたが愛し、彼女が愛する。あなたが敵意を持ち、そして今度は彼女も...。これは法則である。ーー 人は自分が与えるものを受け取るだけだのだ…。
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さて、質問です。

上記の中の⓶『少ししかないところには、さらに多くが加えられる』において。

具体的な話として「 何が少ないところには、何が増し加えられるのか?」

ボクの回答は至極単純な話し。日常あまりに散見されていることを当てはめただけ。

でもネットの専門家は答えられなかったな〜。自分で問うておきながら何も答えない。

皆さんの回答は『何で『何が』になるでしょうか?

少し先で回答いたします。

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付録:

先の元訳おいて、『全文』、改稿を行いました。
何分にも幾人かのメモを元にまとめられたものであったためか、話しが部分部分重複している。多分数回分が全部ぶち込まれている。また翻訳者は真面目な方で、ボクのような「えいや」(無茶)がおできにはならなかったのだと思われます。結果、下に添えられているものは、個人の恣意性は避けられず、えらい間違ったものになっている可能性もありますので、ご注意ください。いつもありがとうございます。



改訳版:

  ニューヨーク  1924.2.24

  人は多くの影響力に支配されている。この影響力は二つの範疇に分類できる。第一は、『理化学的原因』により生じるものであり、第二は、われわれが条件づけされてしまっている『連想』によるものの結果である。

  理化学的影響力は、現実的に物質的な話しであり、二つの成分の混合から新しいものが生じることに関係する。このての影響力は、われわれのあり様に関係なく発生する。

  たとえば、ある人の放射が私の放射と組み合わさり、その混合から新しいものが生じる。これは、外面においての話しだけではなく、同じく人の内部においても反応による影響が起こってくる。

  みなさんは多分、そばにだれかが座っているとき、あなたの気分がくつろいだり、あるいは不安になったりしたことを覚えてないだろうか。

  誰もが異なる種類の放射を持ち、それぞれの法則により、さまざまな組み合わせによる影響が起こる。

  ある中枢部の放射と、他の中枢部の放射とで、多様な組み合わせがつくられる。これらの組み合わせは化学的な反応になる。あなたの放射は、お茶やコーヒーを飲んだかどうかによってさえ変わる。

  連想によって起こる影響力は、またまったく種類の異なったものになる。誰かが私を押したり、人が泣くのを見たとしよう、私の内面で起こることは、「機械的な反応」なのだ。それはある記憶を呼び起こし、この記憶、あるいはそのことからの連想が、私の中に他の連想を次々と誘発させる。この事態によって、私の感情、思考が変わる。このような過程は化学的ではなく、機械的だと言える。

  これら二種類の影響力は、われわれの身近なものだ。しかし、大きいもの、つまり、地球、惑星、太陽から来る別の影響力もある。それぞれは、異なる秩序の法則に支配される。だが、こうした偉大な存在の多くの影響力は、われわれが小さなものの影響力にに完全に支配されているならば、われわれに達することができない。注)この言葉を背景として、『彼は救いたくても救えないのだ』があると思われる。



  最初に、理化学的影響力について話そう。人間がいくつかの中枢部を持っていることは、すでに述べた。馬車、馬、御者、さらに車輪、手綱、エーテルについても語った。あらゆるものが放射と大気を持っている。それぞれが異なる起源を持ち、異なる特性、異なる含有物質を持っているため、各々の大気の特性は他とは異なる。互いに類似しているが、それぞれの物質の振動数は異なる。

  われわれの身体である馬車は、それ自体に固有の属性の大気を持っている。

  私の感情も大気を産出するが、その放射は遠くまで伸びるかもしれない。

  連想の結果、思考すれば、第三の放射が生じる。

  馬車が空でなく、中に乗客がいると、放射もまた異なり、御者の放射とは明らかに違う。乗客は、へたな田舎者ではない。ウイスキーのことではなく、フィロソフィー(哲学)についてを考える。注(この乗客は主人の座を占めるもので、本来は真我/キリスト意識の座。普通は、あれやこれやがデタラメにその座を占める。人格を表す御者は、ズルに流れることを考えがちで、酔っぱらったり白昼夢に浸ることことが大好き)

  このように、誰もが四種類の放射を持つことができるが、誰もがみんな同じというわけではない。ある人は一つの放射を多く持ち、他の放射は少ししか持たないかもしれない。みんな各人各様である。また、同じ人が、時を違えれば、またその放射の状態は違っている。私はコーヒーを飲んだが、彼は飲まなかった。大気は異なる。あるいは、私はタバコを吸うが、彼女はため息をついている。

  常に相互関係があり、私にとって、ある時は忌々しく作用し、別の時にはありがたいものとしてある。毎分、私はこれかあれであり、私のまわりは、それかあれである。私の内面の影響力も変化する。私は自分の意思では何も変えることができない。私は奴隷である。こうした影響力を、私は理化学的と呼ぶ。


  連想によって起こる影響力は、まったく異なる。

  連想的影響力の第一に、「形」が及ぼす影響を取り上げよう。注(視覚情報でいい。)形は私に影響する。私は特定の形を見ることに慣れていて、それがないと不安になる。形は、私の連想に最初の衝撃を与える。たえば、美も形である。実際には、われわれは形をそのまま見ることができず、その映像を見るにすぎない。注(恐らくは多分に本能領域(Gut センター)における影響の話し。+なぜか美の現れを、ある光景に直感するみたいな?)

  こうした連想的影響力の第二は、私の感情、私の共感、または反感である。あなたの感情が私に影響し、私の感情がそれに相応して反応する。だが、時に逆の場合もある。その時の状況しだいである。あなたが私に影響を与えるか、私があなたに影響を与えるかのどちらかである。この影響は「関係」と呼べるかもしれない。注(感情センター間における話し。)

  連想的影響力の第三は、「説得」または「暗示」と呼べよう。たとえば、ある人が、他の人を言葉で説得する。誰かがあなたを説得し、あなたが誰かを説得する。誰もが説得し、誰もが暗示する。注(人格、マインド、知性センター間における話し。)

  連想的影響力の第四は、ある人の他の人に対する優位性である。ここでは、形や感情による影響力は存関係しない。たとえば、あなたは、ある人が利口であり、富裕で、ある事柄についての専門家であると思ったり感じたりしたとしよう。要するに、何か特別なもの、ある権威を彼が持っているとあなたは認めてしまう。自分より優れているとの思いは、彼の言葉に重きをおくことをあなた自身に納得させてしまう。この関係性に作用した影響力は、感情による作用は一切関係しない。注(同じく知性センターへの影響力について)。注)ある種の配慮のため人格間の例とされたが、”どちらが強い”になびいてのGUTセンター間の主従が決まる影響力としてもあると思う)。

  というわけで、これら八種類の影響力について語った。半分は理化学的であり。他の半分は連想的である。

  これに加え、われわれに決定的に作用する影響力が別にある。人生のあらゆる瞬間において、われわれのあらゆる感情、思考が『惑星』からの影響を受けているのが真実だ。人類は、この影響力を他の動植物と共に受け取っている。われわれは、これらの影響力に対しても無力で、また奴隷的である。なされるがままである…。

  この点については簡単にとどめ、その後で主題に戻ることとしよう。今まで話してきたことを忘れてはならない。たいていの人は矛盾し、絶えず主題から逸脱する。


  地球と他のすべての惑星は、それぞれ異なる速度で絶えす運動している。相互に近づいたり、遠のいたりする。惑星間に共通の相互作用は、強くなったり弱くなったりする。ときには完全に途絶えることさえもある。すべての惑星が放射を持っっているが、各々の惑星は、地球に最も近づいたときに、その放射は最も強力になる。概して、地球に対する惑星の影響は、今はある惑星が作用し、次には別の惑星が、その次は第三の惑星が、というように然るべき順序に基づいてに起こる。惑星はいずれも独自の影響を投影するが、それぞれの影響が混ざらずにいれるのは、短期間にすぎない。今はあるイメージで概要を理解してもらおう。

  惑星の影響力については、次のようにイメージするのがいいだろう。地球の上空に、垂直に掛かった大きな車輪があり規則正しく回転している。車輪のふちには七つまたは九つの巨大なカラースポットライトが固定されている。全ての惑星、星は地球に向けて固有の振動を宿した光を発している。ある種『色』と表現でき、物質的とも言える。こうして、地球は常に、そのときに地球を照らす特定のスポットライトの光にさらされて影響を受ける。時には、惑星全体が特殊な振動を発する。ここでもまた三の法則に従い、互いに相応することとなる。これらの関係が正しく働いたとき、結晶化が生じる。

  人は、三種類の物質の相互作用により生まれる。肯定(地球の大気)、否定(鉱物、金属)それに第三の中和力として天空の星々が関与する。原因がなくては結果がないように、結果がなければいかなる原因もあり得ない。

  地球に生を受けるすべての存在は、出生時に頭上に輝いていた『星々』の影響を刻印される。そして、この特定の組み合わせによる光の色合いの特徴を生涯持ち続けることとなる。確かに惑星は、人類全体の生存と、個人の人生とに多大な影響力を持っている。この影響力を認めないのは、現代科学の大きな誤りである。だがその反面、この影響力は、現代の占星学者たちが言うほど強くはない。

  色は特殊な振動を持つ。色が赤であれば、この存在が赤に出会ったときに共感する。

  ある色の組み合わせは、人を平静にさせる効果があり、他の組み合わせは、人を不安にさせる効果を持つ。それぞれの色は独自の個性を持つ。これには、化学的相違に基づく法則がある。適、不適の組み合わせである。たとえば、赤は怒りを刺激し、青は愛を目覚めさせる。好戦性は黄色に共感する。このような次第で、私が腹を立てやすいとすれば、それは惑星の影響に起因するw。

  あなたや私が実際にこのようであると断言するわけにではないが、そうであるかもしれない。いや、もっと強烈な影響力が趨勢を占めているやもしれない。ときどき、内部からの影響力に気をとられて、外からの影響を感じることは妨げられてしまう。あなたはいわば鎧で身を固めたようで、注意力の多くを失っているかもしれない。それは惑星からの影響のためなのだろうか?往往にして、遠く離れすぎていると影響力はあなたに到達しない。遠く離れているほど作用は弱い。たとえ、その影響力が、あなたに向けられた状況だとしても、実は鎧が邪魔をしいて、あなたは受け取りことができないだけなのかもしれない...。


 
  九つの影響力について話してきた。

  常にあらゆるものがわれわれに影響する。あらゆる思考、感情、運動が、ある影響力のまたは他の影響力の結果である。われわれの行うあらゆること、われわれの発現のすべてがそのようであるのは、外部から何かがわれわれに影響するためだけである。この奴隷状態に屈辱を感じれば、それを感じない場合もある。それは、われわれの好むままである。

  発達した人間ほど種々の影響力を受けることになる。

  われわれは一、二の影響力から自由になりたいと願うかもしれないが、それから自由になると、他の十の影響力下に陥り、前よりもっと自由でなくなり、さらに奴隷のようになる場合もある。だが、われわれは一定の選択の自由度を持っていることは間違いない。つまり、ある影響力を取っておき、他の影響力から自由になるということである。

  『二種類の影響力から自由になることが可能である。』これらからは解放されるべきである。

  理化学的影響力から自由になるには、受動的でなければならない。繰り返して言うと、この影響力は、身体、感情、思考、さらには、ある人においてはエーテルも含む、その人の放射物に起因する。これらの影響力からな逃れるためには、受動的でなければならない。そうすれば少しは自由になることができる。ここでは牽引の法則が働く。類は類を呼ぶ。つまり、あらゆるものが同類がいっそう多く存在する場所へと向かって行く。⓵『多くを持つものにはさらに与えられ、少ししか持たないものは、それさえ奪われる』この言葉がすべてを言い表している。

  私が平静であれば、私の放射は重いので、他の放射が私に達すれば、私はそれを吸収できるだけ吸収する。私が動揺していれば、逆に私の放射は他所に向けて出ていくので、私は十分な放射を持たなくなる。

  放射が私に達すると、空白の場所を占めるが、これは真空空間が放射を必要とするためである。

  放射は、静かで、摩擦のない、空白の場所に残る。隙間なく、あらゆるもので一杯であると、放射は私に突き当たるか、はね返るか、あるいは通過していってしまう。私が平静であれば空白の場所を持ち、放射を受け入れることができる。もし私が一杯であれば、放射は私の邪魔をしない。というわけで、どちらの場合にも、私は安全である。


  第二の影響力、すなわち、連想的影響力から自由になるには、人為的努力を必要とする。ここでは反発作用の法則が働く。この法則は、⓶『少ししかないところには、さらに多くが加えられる』と表されり。つまりは、第一の法則の逆である。この種の影響力のもとでは、あらゆるものが反発作用の法則に従って起こる。

  このように、これらの影響力から自由になるには、二つの異なる種類があり、二つの別個の原則があることをまず知っておかなければならない。自由になりたければ、特定の状況において、どちらの法則を適用するかを判断できなければならない。牽引が必要なところに反発作用を適用すれば、失敗する。多くの人が、必要なことの逆を行う。この二つの影響力を区別するのは非常にやさしく、直ちに区別できる。

  この他の影響力については、非常に多くを知らなければならない。だが、この二つの種類の影響力は明白である。誰でも、観る労を取れば、それがどの種類の影響であるかを理解することができる。ところが、放射の存在を知ってはいても、影響の相違を知らない人たちがいる。それでも、よく観察すれば、容易に影響を区別することができるようになる。このような研究に着手することはとても面白く、次々に、もっと重要な結果を毎日入手し、影響の区別を知り始める。だが理論的に説明することは非常にむつかしい。

  直ちに結果を得、すぐにこうした影響力から自由になることは不可能である。だが、研究することと、区別することは、誰にでもすぐできる。

  あなた自身が変わることは、遠い目標であり、多くの時間と労働を要する。だが、研究にはあまり時間はかからない。さらには、あなた方自身が変わるために自己を準備すれば、変わることはそれほど難しくなくなる。区別に時間を浪費する必要はないだろう。



  第二の影響力、つまり連想的影響力の研究は、実践しやすい。例えば、形による影響力を取り上げてみよう。あなたか私のどちらかが、相手に影響を与える。だが、形は外面である。相手の動作や、衣服や、清潔さ、さらには一般に「仮面」と呼ばれるものである。自分の見かけは容易に変えることができる。たとえば、彼はあなたが黒を着ることを好むので、あなたは黒を着て、彼に影響を与えることができる。あるいは、注(左の女性を差し示し)彼女があなたに影響を与えることができる。しかし、あなたは彼のためだけにドレスを変えたいのか、それとも世間に向けてそうしたいのか?。ある人々は彼だけのためにそうすることを望み、他の人々はそうではない。しかし、時には妥協が必要である。注(たとえば、彼との関係の改善が優先される場合は、彼の好みの外形を嫌でも整える)

  何事も決して文字どうりに取ってはいけない。私はこれを単に一つの例として述べているにすぎない。

  連想的影響力の第二の種類、つまり感情と関係するものについては、他人のわれわれに対する態度は、われわれ次第であるということを知るべきである。知性を持って生きるためには、あなたに対するほとんどすべての好意や悪意が、あなたの中、あなたの内面と外面の態度に責任があるということを理解することが大切である。他人の態度は往往にしてあなた自身の態度を反映している。あなたが始め、相手が同じことをする。あなたが愛し、彼女が愛する。あなたが敵意を持ち、そして今度は彼女がだ..。これは法則である。『人は自分が与えるものを受け取る。』

  だが、時と場合によっては話は違ってくる。ときには一人を愛し、もう一人を愛してはいけない。また、あなたがある女性を好むと、彼女はあなたを嫌い始めるが、あなたが彼女を好むのをやめると、とたんに、彼女はあなたが好きになり始めたりもする。これも理化学的法則に起因する。

  男同士の場合においても考えてみよう。私は彼に求めることがあるので話しあう。私が押して、彼が受け入れる場合と、そうはならずに即座に抗ってくる場合とでは、結果は異なる。一方は、他方に依存する。話が聞き入れられないので、私は平静でいられなくなってしまった…。これは彼と私の双方がお互いを激しく拒絶し合うことへとつながり、結果、話は決裂してしまう。

  ときには、それなりの相応を行えば、反発により生ずる影響力を穏やかなものにすることができる。押しには一時停止を持ち込める法則がある。私が次の押しを急がず、停止を持てば時間を延長させることができる。この停止を活かす。私が平静を保てる状態になってから、残りの押しの振動を改めての機会に活用した...。結果はまた違ったものになった。

  あらゆるものが機械的である。あらゆるものが、弾みが続く間だけ運動するのが法則なのだ(準E保存の法則)。誰でも停止することが可能だ。彼か私のどちらかが、停止することができる。

  あらゆることがこのように起こる。同じことが脳の振動においても起こる。脳を刺激すると振動が起こる。振動は弾みを得て、石を投げたとき水面に生じる輪のように継続する。衝撃が強ければ、運動がおさまるまでに長い時間を必要とする。衝撃を与えることをやめれば、振動は止み、静まる。

『振動を止めることを習得すべきである』注(落ち着いたマインド、禅定、無思念)

  また、違うケースでは、私があることを肯定すると、彼はそれを否定し始める。私が黒と言うと、彼はそれが黒であることを知っているが、反抗したくて、白であると主張し始める。私がわざと同意すると、彼は意見を変え、前に否定したことを肯定し始めた。あらゆる刺激が彼の中に反対のものを誘発するので、彼は同意することができない。飽きれば外面は同意するかもしれないが、内面は決して同意はしない。

  他人の会話を観察することは、それに巻き込まれなければ、非常に面白い。映画よりずっと面白い。ときどき、二人が同じ考えなのに議論をしている。一人が主張し、もう一人が同じであるのに、理解せずに言い争う。



  あらゆるものが三つの影響力の結果である。いたるところに肯定と否定、陽極と陰極がある。人間、地球、あらゆるものが磁石のようである。単に、放射のスケールが異なるだけである。いたるところで二つの影響力が働いている。一方が惹きつけ、もう一方がはねのける。今述べたように、人間も磁石である。右手が押し、左手が引く。または、その逆である、あるものは数多くの放射を持ち、他のものは少しの放射しか持たない…。あらゆるものが引きつけるか、はねつけるかをしている。常に押しと引き、引きと押しがある。押しと引きが互いによくつり合っているとき、あなたは愛を持ち得、また初めて正しい判断を持つこととなる。

  意識して行動すれば、相互作用は意識的なものに変え得る。意識しないで行動すれば、すべては〈私〉が無自覚に無意識的に放射するものの結果でしかない。

  感情においては、次のように述べることができる。われわれの他者との関係は、われわれいかんである。必要な手段を取れば関係を変えることができる。


  第三の種類の影響である暗示は、非常に強い力を持つ。あらゆる人が暗示の影響を受けている。一人がもう一人に暗示する。多くの暗示が非常に容易に起こり、特に、われわれが暗示にさらされていることを知らないとそうなる。だが知っていてさえ、暗示は浸透してしまう。注(最近の例では森友・加計問題における与党の支持率なんか)


  ある事実を理解することが非常に重要である。一般に、われわれの人生のあらゆる瞬間において、われわれの内部では一つの中枢部しか働いていないのだ。知性か感情のどちらかであろう。われわれの感情は、他の中枢部が見ていないと、つまりは批判対象としてないと、ただの一器官でしかない。中枢部は、それ単体では意識や記憶を持たない。中枢部は『塩(よそへの批判能力)を持たないのなら』ただの肉塊、つまり、一器官でしかなく、単に記録するという受容的な役割を持つに留まる。注(スタンドアローン)

  確かに中枢部は、録音テープの上塗りに酷似している。私が何かを言うと、後で繰り返すことができる。中枢部は完全に機械的であり、有機的構造の機械と言える。すべての中枢部は、成分に関してやや異なるが、特性は同じである。

  さて、ある中枢部に、お前は美しいと言えば、中枢部はそれを信じる。これは赤であると言えば、それも信じる。だが中枢部は、何も本当には理解などはしてはいないのだ。中枢部の理解は全く主観的である。後で中枢部に質問すると、回答として私の言ったことを反復するだけだ。中枢部は百年たっても先年たっても変わらないーー常に同じままである。われわれの知性はそれ自体単独では、批判能力も意識も何も持ち得ない。他のすべての中枢も、同様である。

  では、われわれの意識、記憶、批判とはなんであろうか?非常に明白である。それは、ある中枢部が他の中枢部を観察し、そこで何が起こっていることを見たり感じたりし、その印象を自己の中枢部でも記録/処理することである。

  中枢部が新しい印象を得、後にわれわれがこの前何が起こったかを知ろうとするなら、そのことを他の中枢部にも尋ね、照会すれば、第一の中枢部に何が起こったかを確認することができる。「批判」も同じ話であるーーある中枢部を観察する。ある中枢部はこれが赤であると受容/認識するのだが、他の中枢部はそれを青と見る。中枢部間での批判や説得が合意に向けてなされることとなる。これが反省/批判というものの健全な場合における実態である。注(例のマギシステムを思い起こされたし)

  二つの中枢部が、あることがらについて長い間一致しないと、そのことについてわれわれがさらに考えを進める場合に障害になる。

  他の中枢部が介入していないと、第一の中枢部は初めに考えたとうりに考え続ける。われわれが複数の中枢部を同時に意識することは非常に稀であり、ほんのときたまで、一日に 『 1分ほど 』であろうか...。眠っているときには、われわれは決してある中枢部を他の中枢部から見ることはない。注(睡眠時は連結は解除されるのが本来)
目覚めているとき、ときたまそうしている…。注(覚醒とは常時三位一体+主人の状態)

  たいていの場合、それぞれの中枢部はそれ単体固有の生活を営む。あらゆることを批判せずにただ鵜呑みにする。入ってくるまますべてを記録する。前に聞いたことのあることを聞くと、またそのまま記録する。事実に反すること、とたえば、前に赤であったものが今度は青であるというようなことを聞くと、中枢部は抵抗はするが、何が正しいかを見出したいからではなく、単に前とは違うからだけである。だが基本。中枢部はあらゆることを信ずる。何かが違っていると、それの意識が平静になるまでの時間を必要とするだけである。そのとき他の中枢部が監視していないと、その中枢部は今度は青を赤の上に置く。そんなことをすれば、青と赤はいっしょくたになってしまう。後にわれわれが記録を呼び起こす場合、中枢部は直近の「青」と答える。しかし「赤」も、飛び出してきそうであるw。注)10回「ピザ」を言わせてから「ヒジ」を言わせるゲームがいい例。高齢者なればなるほど、一センターにお任せが習慣づいていて、間違えにストップがかからない。注)この中では触れられてはいないが、注意力も相手の感情の変化等へものか、運動機能をベースとした物理的接触衝突の回避等を目的としたものかのどちらかしか持っていないも傾向性して語られている。

  新しい材料(情報、知覚、印象)を批判的に認識することは可能である。その知覚の最中に、別の中枢部も同時に参加させるのだ。この材料を傍から一緒に知覚するよう、われわれの注意を向ければそうすることができる。仮に私が今何か新しいことを話すとしよう。一つの中枢部だけで聞けば、あなたにとって私が話していることは、何も新しいものとは思えないだろう。別の聴き方をしなければいけない。注(言葉の背景にある彼の経験や、語り口における真剣さ、リアルな存在を感情や感覚でも探査、感受するみたいな..)さもないと、今日まで前に何もなかったように、これからも何も変化は起こりえないであろう。価値は何も変わらない。青は赤であろうし、その逆でもあり、いかなる知識もない。青はいつの間にやら黄になっているやもしれないw。

  新しいことを聞こうとするならば、新しい聞き方で聴かなければならない。これは、ワークにおいてではなく、人生においても必要である。すべての新しく興味を持つ事柄には、この新しい方法をもって記憶/処理すれば、あなたは人生において幾分か自由になり確信を得る。この新しい方法を理解することは容易い。もはや完全に自動的ではなくなり、半自動的である。その方法は、次の通りである..

『思考がすでにあるなら、それを感じるように努めなさい。何かを感じるときは思考を感情に向けるように努めなさい。』

現在までは、思考と感情は別々であった。

  あなたの心を観察するようにしなさい。あなたが考えることを感じなさい。明日に備え、自己欺瞞からあなたを守りなさい。総じて、ただ単に聞くだけでなら、私が伝えたいと願っていることを、あなたは決して理解することはないであろう。


出典:
Early Talk of Gurdjieff / Views from the Real World
グルジェフ・弟子たちに語る
前田樹子=訳
めるくまーる(1985初版)
第五部 P.362 ~ 377


追補:

質問者:
「あなたが説いている教えとキリスト教とはどういった関係にあるのでしょうか?」

Gurudjieff:
『私はあなたがキリスト教について何を知っているのか知らない。君がこの語において何を理解しているのかをはっきりさせるためには、長時間いろいろと話をする必要があるだろう。しかしすでに知っている人のために、お望みとあればこう言おうーーー
これは秘教的キリスト教なのだ...』 

(Fragments P.169)
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