19. Departure 大阪へ。

文字数 1,979文字

  ◯太書房での三年が過ぎた。様子をうかがっていたが、何の動きもないので、自分から「辞めます」と申し出た。日本は申請主義の国だ。*自分から申し出ないと、なにも変わらない。同僚からの引き止めもあったが決意は変わらなかった。これは単に「下働きがいなくなると困る」が正直な理由だったと思われる。社長さんはボクの意向を不快に思われたようで、機嫌の悪い素振りでボクにあたった。*本質は幼く我が儘な人であったのだ。「色々これから教えたい事がある」などと言われていたようだが、あまり興味は持てなかった。*ボクは飽きもきてもいた。送別会の場で、「すべてに先立って、キリスト教徒として働くことが目的でありました」とボクは話していた。あの、挨拶無しで怒鳴りつけた方は、「そのように有れた」とばかりに、しっかりと握手をして下さった。九州出身の情に厚い方であった。ここは、ボクがいることを(取りあえず)歓迎してくれた唯一の職場であったのだ...。以降、歓迎してくれる職場は一つもない。*ボクは基本、人気がない...。この面においては、今も感謝の念に堪えない。

  求人情報誌を買ってきて、次の勤め先を探した。だいたい、ボクは「あれこれ考えたり、迷ったりする必要がない」人なのだ。直ぐに、ボクに向けての求人らいしものを見つける。[飛行機が都市の上を飛んでいる]子供だましのイラストがページ上部に大きく描かれている。貿易商社で「君も世界を駆け回りませんか!」のキャッチがその下に添えられていた。場所は大阪は西本町とのことだった。小さく溜息をつき、詳細を読むことも無く応募をした。履歴書をアパート近くの喫茶店で書いた。〈さいふぉん亭〉と言う。このお店は、今はもう無いようだ。現在はTRATTORIA・AZZURROなるお店に代わっている。細い水路を小橋をわたって入る店だった。叡山電車の線路沿いにある△地で、変わった立地にそれはあった。立派な焙煎室も備えられていた。自家製ケーキも提供されていた。フロアーを取り仕切る女主人は、これぞ京都の[鑑]と思えた人だった。まあ、平たく言えば[やり手]さん。客の立場だからなんとかしのげたが、先ず隙がなく、客でさえ「舐めてんのかな〜」ぐらいに思える切れ味のある横柄な[あしらい]をされる方だった。京都で何代目ぐらいになれば、客としてのもてなしをしてもらえるのか訊いてみたかった。とにかくも、ここの珈琲は逸品で、インテリアもとても質素にて洗練されていた。このお店の持つ緊張感の助けを借りて履歴書を書き上げた。

  大阪は西本町で面接を受けた。信濃橋、交差点の角にある雑居ビルだった。お相手をしてくださったのは社長さんだった。六十代前後の京都人、いたく怜悧で洗練された雰囲気の方だった。*少し、自分の父親に似たものを感じた。この方にとってボクは悪くない印象だったようだ。むしろ、「この子は、うちを選ばないだろうな」とボクが辞退をすることを社長さんは想定されたようだ。ボクが「どうぞよろしくお願いします」と伝えると、少し驚かれていたのをボクは感じた。京都からの往復の交通費をもらえたので嬉しかった。サインとしては、「お金の面では恵まれるぞ」であった。

  この会社は、二人の熟年男性によって経営されていた(社長と副社長さん)。糸偏業界で揉まれ鍛えられ勝ち抜いてきた二人によって...。昭和の糸偏業界が、どういった世界であったのかは知る人ぞ知るものらしい...。このあと何処へいっても、この辺の話は耳にしたものだった。国が立ち上げる為の起爆産業であり、自動車産業へと発展していく基幹産業でもあった。現場の研鑽、国内/海外相手での競争は激烈なものであったと想像に難くない。ボクが在籍したころ、会社の主な海外の取引相手は韓国だった...。*中国は、まだ手を出せる状況ではなかった。

  同僚は、歳の近い男性が二人いた。一人は上海人。不思議なことに、[彼ら]はボクの少し前に入社したばかりの状況であった。あと若い女子(船積み担当)が三人いた。そして経理のおばさまが一人。前とは社内の人員の様相が「がらり」と変わる。

  京都がボクにとって[リハビリと調整期間]であったのだとしたら、ここは、これから長きにおいてつきあう弱肉強食を特徴とした商売(ビジネス)というものへの[慣れ]の為に用意された場所と言える。[修羅][畜生][餓鬼]が大挙して盲動、蠢動する世界。その現実の片鱗を、ここでボクはシャープに味わい知ることとなる。六道巡りの始まりだった。在籍期間は一年も無かったと思う。



聖書より..
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の群れ中に送るようなものである。だから、「蛇のように賢く」「鳩のように素直」、であれ。(マタイ10:16)

  
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