⭐︎.   Monologue of Persian  二種類の女性。

文字数 11,604文字

TVのとある番組を見てショックを受けました。そん時のタイトルは
『ウソつけない女オーディション』でした。なんとも言えない不快感がありました。
そして居ても立っても居られなくなったのです。

今回は、まったく予定外の緊急投稿になります!。

**先にご注意!**
関係者がみたら頭から湯気出すほどの”強改訳”になっています。
『なんてことしてくれんのやー』の非難罵倒の(お)声が聞こえてく〜る〜(ザキヤマ調)。

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抜粋:from ” Beeelzebub's tales to his grandson”, the third book, chapter 42, p.600 〜 608
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先生…あなたがペルシャで我々と暮らしていた頃、男性が女性に接するときには特有の態度があったことに気づかれたと思います。 われわれペルシャ人は、「生理的」な反応として、
女性を無意識にではありますが二種類に分けます。
そして、それぞれに応じたきわめて対照的な「生理的態度」を女性に対してはとります。

第一の態度は、子供がいるいないに関わらず、
彼女を『母性的な存在』として意識する態度です。

第二の態度は、ぞんざいに言えば
「メスでしかない女」としての態度になります。

二、三世紀ほど前、地球上のいたるところ、とりわけアジア大陸で、隣国間で人々が殺し合うといったひどい戦争が長く続きました。これは明らかに宇宙からの影響により生じたことであったに違いありません。原因は兎も角も、この期間に、人々の心からは敬虔なる思いの感情がひどく衰えてしまったのです。一部の者などはこれを完全に失っていました。

そしてこの時期に、男たちの間ではある精神病が広まりました。これにかかった者は、完全な
発狂に至るか、あるいは自殺してしまいました。 この病の原因についての長期間にわたる厳正なる調査の結果、次のことが突き止められました。

まず第一に、この病にかかる者は、誰かに、または何かに対して、心の底からの、
全幅の信頼を預けていたという経験がないということ。

そして第二に、女性と、正常な性交渉を、

営んでいる男性には、
まったくこの病気は発症しなかったということでありました。

軍隊は男の集まりであり、彼らはたえまない戦争のせいで普通の家族生活が長く送れずにいた。 当時のアジア諸国の支配者たちはみな、健康で頑強なる兵士で軍隊は構成されるべきと確信していました。そこで支配者達は、和平を結んだうえで一時休戦し、共同で、この問題の解決にあたります。真剣な討議考察の結果、この問題を解決するにあたり、最も合理的かつ即物的な方法は、かのヨーロッパ大陸と同様の、いわゆる「売春制度」なるものをここアジアでも確立するべきとのことでした。この制度の普及とその発展促進のためには、時の権力者たちからの推奨と協力が絶対に必要でした。

権力者たちは、この発案に賛成を示し、実施に向けてを全面的に承認しました。なんら良心の
呵責などまったく感じることなくです。そして…もちろん自分らの娘は別でしょうが、
あらゆる不特定多数の女性たちに向けて、まともな人間なら〈吐き気を催すほどおぞましい〉と感じる[この職業]に従事することを、いろんな宣伝手段を使っては奨励していったのです。謳われた内容、住まいの保証と俸給の額は大変な魅力があるものでした。自分の出自や階級その他に全く左右されることはありません。権力者達は人道的な意味における人助けと考えて支援を惜しみませんでした。思慮ある行い…まるで恩恵でも施すかのような気持ちでいたのだと思います。この汚らわしい目的のためになら喜んで何処へでも行くという女性にたいしてですが…。

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ここで少しばかり脱線し、現代文明をむしばむこの邪悪な風習が蔓延るにいたった理由について、とある賢者の見解を紹介させていただきましょう...。

「いいかい、おまえはこの職業に従事する女たちを非難したり軽蔑するが、それは不公平と
いうものじゃ。 彼女たちの多くには、この嘆かわしい職業に従事するようになった運命に
おいての責任はない。本当に責められるべきは、彼女らの親両親、夫、
つまりは周りの保護者たちになる。

なぜかと言うと、根本においては、 親達が、娘が大人になるための準備期間中に、つまりは
本当の良識を身につけるべき期間に、彼女の内面において『怠惰』という傾向性が芽生えることを野放したことが原因だからだ。 若いうちには、彼女らはまだ、怠惰というのは単なる傾向性にすぎない。そんなものすごい努力をしないでも、それを克服することはまだ可能だ。
子供たちがこれに負けないよう心がけるなら、周りが上手に指導してやるならば、やがては
自分のまともな良識に基づき、怠惰なる性向が自分を完全に支配してしまうような事態は
避けようとはすることだろう。

しかし、女性は、その精神的資質において、特別な傾向を持つことを忘れていはいけない。
これは、端的に言えば、[受動性としての意識]のあり様となる。何か新しいことを始めるとき、何か良いことをしようとするときには、必ず能動原理の側(男性原理)の参画、リードが
なければならない...。 このことは人間がどうこうできることではないのじゃ。世界(宇宙)のその創造とその維持を支える絶対法則の反映でしかないのじゃから。

最近では、『男女同権』、『機会均等』などといったキャッチフレーズとともに『女性の権利』に関するさまざまな主張をどこにおいても耳にする。もし、まともに人生を生きてきた男ならば、こうした考えは戯論だと理解されるのじゃが、今の男の大部分は無思慮にもこれらを受け入れてしまっておる。

この風潮の為にえらいことが起こってしもとる...。

女性は本来的には母親となるべく定められた存在じゃ。結婚までに、この責任を果たすことが
できるよう母性的存在としての己を自覚し、完成しておく必要がある。成長期でもあろう未成年の時期には、法則に従って、合致して、彼女たちは必要とする能動原理からの介入を受けとかなければいけない。結婚後に夫がその責任を引き継ぐその日まで、親もしくは保護者は、正しい指導を愛情とともに提供せねばならない。ところがじゃ!…他にもいろんな理由はあるのじゃが、男らはこのことができんようになってしもうとる…。

またもう一方では、成長期の、大人になりかけの過渡的な年齢の女たちは、旺盛な想像力や熱狂やらが異常に高まり、それらに囚われやすくなっておる。この現象は物事を直感的に察し、良識を養うことができるようにと《自然》があらかじめ準備しておいたものなんじゃが...。
特にこの期間においては、同時に、絶対に、能動原理からの正しい指導があることは本当に
大切なことなのじゃ!。

それがじゃ…気概なく無責任な男親が世に溢れたがために、娘たちは傾向性としての怠惰を自然と本性深くに染み付かせてしまいよりよった。これは、だんだんと必要不可欠な性質として彼女らの本質の中に居座っていったのじゃ。そして、とうとう、最終的には、これは「絶対に満たされるべき欲求」、「満たされて当然の権利」であるとさえ思うようになった。

このような怠惰を、本性として身に付けてしまった女性は、当然な話として、『母的存在』と
しての義務を果たすことは厭い、せんようになる…。『たんなるメス』として生きたいという
思いが、抑えがたい欲求となって、次第に膨れ上がっていってしまう。ところで、売春という
のは自分からは特に何か働きをするでもなく、あまつさえ大きな快楽さえ味わえるてしまえる
もんじゃろ。だから彼女らの本性ならびに女性特有の『受動的精神』にとっては、あまりにハマり役な稼業となってしまう。易きに流されてしまえば結果、だんだんと生まれ付いての売春婦がごとくの存在となってしまう。

しかし、すべての女性に当然備わっている〈恥〉としての感情を呼び起こすのは、本能に蓄え
られた生来の記録である。これは、そう簡単に抹消削除できるようなものではない。自然と湧き上がる恥辱の念があるため、母国で売春婦になることに耐えられる女性はいない。結果、こうした女たちは、本能的に、または半意識的に、自分の国を離れて他の国に行くことを選ぶ。そして、そこで初めて、恥だの、なんだのを全く、なんら味わうことなく、あらゆる面で彼女らにとって最高に好都合であるこの職業に埋没していくのじゃ。

わしの意見では、人類を蝕むこの悪弊が地球のいたるところに広まったのは、結局は男どもの
せいでしかない。売春婦予備軍の怠惰な性格を身に付けた女たちとまったく同じような話で、『楽で楽しいこと以外はまったくしたくない』という生理的願望を、みずからの本性に宿らせた男どもが揃おてしもうたのが悪いのじゃ。現代における潰瘍にも似た存在であるこの〈蛆虫〉、この男達が、自分たちの願望を満たすための手段としたのは、その手の女性たちを見つけては、誘惑し、向こうで仕事をすることを説得することだったのじゃから。故郷を離れて外国に行くのを斡旋したわけじゃな。

歳食ったもんらが言うように、同じ病気の男と女は、
意識的にも本能的にもお互いを求め助け合う。

『漁師同士は遠くからでもお互いがわかる』

これはまさに、この古くからの格言のとおりではないか! 

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閑話休題。話を元に戻しましょう…

まあ、そんなわけで、我がペルシャにもいろんな国から売春婦達がやってきたのです。
基本、ペルシャの女性たちは、長年家系として説かれてきた道徳や家父長制に対する尊守の念を、本能的な態度として身に付けています。なので、外国からやってきたああいった女性たちとペルシャの女たちは交わることはできませんでした。その結果、前に言ったような、二種類の女たちなるものが生まれてきたのです。

外国からやってきた女たちは国内で自由に生活することが許されていました。マーケットや
いろんな公共の場所にもよく姿を現せました。やがて、われわれ男たちは性的な眼差しで
それら女達を見るようになっていました。やがて、男たちの内面には、これまでの
「母性的存在」としての女性に対する態度とは別なる、
「たんなるメス」としての女性に対する態度が無意識的に形成されていったのです。

二種類の女性に対する二種類の態度というこの様式は、代々引き継がれ、われわれペルシャの
男たちの本能に深く根を降ろしたものになりました。これは日常の意識とはまったく別のもの
なのです。二種類の態度は自動的に表に現れてきてしまうのです。 これの所為でしょうか、「チラリ」と見ただけで、今では羊や犬やろばを人間から区別するのと同じぐらい簡単に、この二種類の女たちをその外見から判別ができます。要は、この二種類の女たちを確実に見分ける本能的な嗅覚のようなものが備わってしまっているのです。

私も、ペルシャで暮らしていたころは、遠くから見ただけで、この二種類の女たちを判別できました。女たちの歩き方からこれを判断していたのか、それとも何らかの微妙な雰囲気で判断してたのか、自分でもわかりません。どんなに誠実に努力しても、これは言葉では説明できないことなのです。でも、事実として、この二種類の女たちは、たとえ同じような”ヴェール”で顔を隠していたとしても、私はこの二種類の女たちを区別でき、これに関して判断を誤まったことは一度もありませんでした。

ペルシャの男たちは、正常な精神状態にあるならば、「母性を宿した女性」と「メスになりきった女性」すなわち”ビッチ”を必ず識別できます。ペルシャの正常な男性ならば、「母性を宿した女性」は、自分の姉妹のように感じてしまうのです。そして、これは、そのタイプの女性すべてにで、彼女の出自や家柄、さらには自分が知っているいないに関わらずに感じてしまうことなのです。

これに対し、ペルシャの正常な男性にとって、「メスでしかない女性」は動物にすぎません。
そのような女性は、我々のうちに嫌悪感を引き起こすのです。 たとえば、若く美しいペルシャの若い娘が、何らかの突発的な成り行きで、近所のとある男と同じベッドで寝ることになったとしましょう。たとえ彼のなかで強い欲望が生じたとしても、彼は彼女を欲望の対象とすることは生理的にできないでしょう。 彼は彼女を、トラブルに巻き込まれた自分の姉妹かのように感じるのです。もし、逆に、彼女が彼に「欲望」を持ったならば、彼は彼女が「不浄な衝動にとりつかれた」と見なし、憐れみの感情において彼女がこの危機を脱することができるよう最大限の努力をするのです。 *(傷物にならないようにしてあげる)

また、ペルシャの男性は、正常な精神状態であれば、第二のカテゴリーの女性、すなわち売春婦を「メスでしかない女性」として扱うでしょう。といっても、それはいわゆる女として扱うことではないのです。彼女が、どれほど若く、どれほど美しく、いかに魅力的であっても、ペルシャの男性はこの種の女性に、生理的に、どうしようもない嫌悪感を憶えてしまうのです。

そんなわけで先生、私は二十歳になるまでペルシャに暮らし、普通のまともなペルシャ人のひとりとして、以上のような道徳や伝統の基で生きてきたのです。 そして、二十歳の時に遺産を相続して、事業のためにヨーロッパにやってきました。私は子供時代と青年時代を通じて「母性を宿した女性」と「売春婦」との間の違いを明確に見たり感じたりできましたが、ヨーロッパではどこの国に行っても、この違いを明確に認識することができなませんでした。

ヨーロッパ諸国では、男が女に向ける理解は、ほとんどが知性的アプローチ、つまり思考による考察が主で、観念的なものでしかありません。肉の身に備わった他の機能からのアプローチ、感情や本能からの理解に乏しく、実質を欠いているとしか言えないものです。 たとえば、ここでは、妻がどれほど不誠実であろうと、夫はその現場を見るか噂を聞かないかぎり、まったくそれに気づくことはありません。 もし、これがペルシャでの話なら、夫は何も見聞きしなくともそれを本能的に察してしまいます。また女性にも同じです。妻のほうも、夫が浮気をすれば感じ取ることができます。

最近ヨーロッパから数人の科学者がペルシャを訪れ、この方面における我々ペルシャ人の本能的な察知能力に関する調査研究が行われました。 私が偶然知ったところによると、次のような結論が彼らによって導き出されたそうです。

一般的に語られる「一夫多妻」または「一妻多夫」、つまりは「一人以上の妻を持つこと」や「一人以上の夫を持つこと」がその地域に根ざした道徳において認められており、そこに暮らす者たちにおいては夫婦間では、特殊な「精神的/肉体的」関係が構築されるというのです!。われわれペルシャ人は、この「精神的/肉体的な」結びつきの感覚を身に付けています。

ご存知のとおり、われわれペルシャ人は、モハメッドの教えに従って一夫多妻制、つまりは法律によって男は七人まで妻を持つことが許されています。 ペルシャ人に見られるこの精神的/肉体的な特殊性について説明するならば、例えば、妻たる女性には、夫が、自分以外の他の妻たちと肉体関係を持とうと、自分に対する不実という感情は決して湧いてこないのです。つまりは、妻たちがこういった感情を持つのは、夫が全く見知らぬ女と肉体関係を持った時だけなのです。

先生、私はここヨーロッパに暮らしてみて、ここで夫婦間に起こるさまざまなことを見た今ごろになって初めて、ペルシャの一夫多妻制度がいかに思慮深い価値のあることを理解しました。男性にとっても女性にとっても、どれだけの恩恵をもたらすものかを、なんと有益なものであるかをです。

注:この内容の前提は、『真の男』の存在は稀であるということ。また彼の生活力が平均をはるかに超えているケースでしょうね。下手な男を当てがうより、彼が複数面倒見た方が将来の為になる。(talker)

ここヨーロッパではキリスト教が支配的で、男は一人の妻を持つことしか許されません。
これに対して、我々は複数の妻を持つことが許されています。しかしながら、ペルシアの男性の妻に対する誠実さと愛情深さは、ヨーロッパの男性が一般的に、一人の妻と家族とに対して持っている誠実さ良心とは比較になりません。

たとえばいまわれわれの周囲でどんなことが起きているか?…。

このカフェの店内は、いつも楽しそうにおしゃべりする男女でいっぱいいますよね。
一見すると、あれらのカップルは、皆結婚していて、観光か何か家族行事でここを訪れていると思われるでしょう。 ところがですねー、ほとんど間違いのない話として、今このカフェの店内を埋め尽くし、楽しそうにおしゃべりし、そろそろどこやらのホテルに行こうとしているカップルは、どれも法律上における本当の夫婦などは一組もいやしません。

〈略〉

そんな世渡り上手な男が、家では『立派な父親』『高潔なる父』として認められているやもしれません。まあここにいる、彼の周りに座っている人々にとっては、この父たる男が家で尊敬されていようが、何人「愛人」を囲っていようがどうでもいい話なのですが。得てして世間は、ひとりも愛人がいないような男よりは、たくさんの愛人を持てる彼のような男の方を評価する傾向があります。今ここに集っている、どうやってかは分かりませんが、なぜか経済力のある「ご立派な紳士たち」は、「正妻」の他に、七人どころか「七かける七人」の「法律外の妻」を持っているのです。

一方、ヨーロッパの男たちのうち、「正妻」とはまた別の「法律外の妻」を囲えないような奴は、日中「よだれを垂らす」ことになります。つまり、目につく女たち全員を、飽きもせずに延々と、のべつ幕無しに「視姦」しよるわけです。要するに、彼らは思考と感情においては、「正妻」を、実際は何度も裏切ってきているのです。

それに比べてわがペルシャの男たちの場合は、七人まで女性を「正妻」とすることができるのですが、夫は昼も夜も、妻たちの生活を内面的に外面的にも、豊かにしてあげるにはどうしてあげたらいいかを思考と感情をもって考えます。そして、妻たちも同じく、昼も夜も自分の夫のことだけを思い、この人生において、彼が与えられるすべての義務が無事に果たされるようにと全身全霊でサポートを行います。

『夫が妻にとる姿勢は、妻が夫にとる姿勢と同じである』という法則は、ここヨーロッパでも
変わりはしません。ここヨーロッパの、ほとんどの男たちの内心は、どうやって「妻」にバレずに浮気するかという考えばかりです。

片や、妻はといえば、結婚したあくる日から、家庭の外にばかりに関心は向けられっぱなしで
あるという始末です。 一般的にいって、ヨーロッパの女性たちは、結婚したその瞬間から、夫を「自分の所有物」だと本音では思うようになります。ヨーロッパの女性たちは、最初のベッドインが果たされたなら、もうこの男は自分の所有物になったのだと確信するのです。

そしてその後は...、内的生活のすべてを「あるもの」の追求に捧げるようになります。なんとこれは彼女が死ぬまで続くものなのです。その「あるもの」とは何か? それは彼女達が内面に抱く定義のしようもない「理想」と呼ばれるものなのです。ここヨーロッパにおける「名高い教育」のおかげで、あらゆる女性の内側で、子供のころから徐々に形成されていくものです。現代の良心のカケラもない宣伝作家たちが、 ますます大量に考案を加え続けている、かの有名な『教育』『啓蒙』『啓発』のせいなのです。

ヨーロッパの諸国での滞在の中で、女性の存在の中には、わがペルシアの女性とは違って、
「生理的羞恥心」と呼ばれるもの、もしくは少なくともこれに類する性向として絶えず保持しておくべき〈何か〉が、全く形成されていないことに気づきました。私の意見では、この「恥」と言うものの、感覚の中にこそ、いわゆる「妻としての義務」は根をもつものなのです。またこれこそが女性を不道徳な行いから遠ざける本能的な助けにもなるのです。この「生理的羞恥心」が欠けているせいで、ここの女たちは、機会さえあれば、なんらの葛藤も良心の呵責も感じることもなく、簡単に自分の夫を裏切るのです。

私が思いますに、恥じる能力を失ったが為に、ここヨーロッパでは、「母性としての女性」と「売春婦としての女」との境界線が徐々にに失われていったのではないでしょうか。この二つのカテゴリーは、もうすでに分かち難くなってしまっています。その結果でしょうか、ここヨーロッパの男たちは、もう頭でも、感情でも、女性を二つのカテゴリーに分類することを全く行っていません。ペルシャの男たちならば誰でもがすることなのですが…。現在ここヨーロッパでは、ある女性が「母性を宿した存在」なのか「たんなるメス」なのかを判別するには、その女性の一部始終の行動を自分の目で観察しなければなりません。

ヨーロッパでは家族という考えにおいて、一夫多妻制という有益な制度がなかったために、
存在する必要の全くない、不快な諍いや不都合なことがたくさん起こっています。私の意見では、統計が示すように、女性が男性よりはるかに人数的に多いという単純な理由だけからでも、ずっと昔に、この制度はヨーロッパに導入されるべきだったと思います。

というわけでね、先生…、私が女ったらしになった原因は、ここヨーロッパとは全く正反対の
道徳に根ざした伝統のなかで生まれ育った私が、男であればその動物的欲求が特段強くなる年齢の時期に、ここにやってきてしまったことにあるんです。さらに不都合なことだったのは、
こちらにやってきた時、私はとても若く、ここでの基準としては、とてもハンサムな部類に
入っていたことなんです。ペルシャ出自の私のルックスは、若い娘達にはとても魅力的に映ったようです。これまで目にしたことがないタイプだったのでしょう。とても個性的で野生的な匂いのする「オス」としての私は、女たちにしょっちゅう追いかけ回されました。実際、女たちにとって、私は「大きな獲物」だったのでしょう。

私が彼女らの狩りの対象となったのは、私が生粋の南方人としての独特な外見であっただけで
なく、ペルシャにおいて、母たる存在たちとの接触の始まった幼い頃から私の中で育まれた
特性、つまりは女性に対しては思いやりの深く、礼儀正しく、やさしくあったせいなのです。
私の、女性に対するこのような態度は、ペルシャにおいて、「母性を宿した存在」であった多くの女性たちとの(子供時代の幼い頃からの)関係において、自分のなかで自然と育まれたものです。 私は、ここににきてからも、特別な意識もしないで、出会う女性達皆に、やさしく親切に、礼儀正しく接していました。

最初のころは、親しくなった女性達ともとおしゃべりをするぐらいでした。話題となったのは、現代文明とペルシアの比較に関することです。ペルシャのいわゆる「後進性」なんかを話してました。

私は、そのころ、すでに、かなりのアルコールを飲むようになっていました。
このアルコールのせいで、私は生まれて初めて罪を犯してしまいました。つまりは、
『やがては一家の主人になるべき人間として』、恥ずべき行為をしてしまったのです。

事後、私はこのことで、ひどい良心の呵責に責め苛まれ、苦しみました。でも、まわりの生活環境からの影響と、アルコール中毒により、私は、その後も度々、あの罪を犯してしまったのです。もう後は、いわば雪だるまが雪の斜面を転がり落ちるるようなもんです。私は堕落してしまい、落ちるところまで堕ち、そしてご覧のとおりの、不潔きわまりない、動物じみた存在に成り果ててしまっているのです。

今でも、たまにアルコールの影響から完全に自由になった折には、私の全身は道徳的な憤りを
感じてか我ながら胸くそが悪くなります。でも、そうなったのなら、急いで、昨日飲んだ量を
上回るアルコールを胃に流し込むまでです。その度に、またアルコールにひたり、自分を忘れ、苦しみを紛らわせるのです。

先ほどお話しましたように、ヨーロッパの国々で、このようなブザマな生活を送った後、
私はこのパリに落ち着きました。このパリという都市には、男の法律上の半身(妻)に〈角〉を生やせようという明らかな意図を持って、ヨーロッパ各地や他の大陸からその手の女達がやってきます。

私はここパリで、人類にとっての二大悪癖、つまり「アルコール中毒」と「女の尻追い」にどっぷりと浸かっています。今では、健全に理性を働かせることはもうなく、ただブラブラ生きているだけなのです。はっきり言いまして、この二つの悪癖を満足させることは、もう私にとっては空腹を欲を満たすこと以上に大切なこととなってしまっているのです。

以上が私のこれまでの人生です。
これから先、どうすればいいのか分かりません。
いや、むしろ...私は知りたいなどとは、ちっとも思っていないのです。
これまでも、私はずっと、自分の将来については考えまいと、
全力をあげて、そう務めてきたのです。』

こう言い終えると、彼は深いためいきをつき、頭をうなだれた...。

〈了〉




追記:

上記内容は男性ならばしっかり理解しておくべきものです。
「なんら新しいことはなかった」なら逆にとても安心いたします。
とどのつまりは、みんな男の責任、悪けりゃそりゃあ男のせいなのよーなのです。

これから伴侶を探される方、そして娘さんを持たれている方には重要な内容かと思います。

女性の方ならば、ここにある内容を修めた男性を理想として下さい。(超無責任な独り言)

Gの語法はクドイ面があります。これでもかなり脱色をさせていただいています。でも、大切な語彙として色々、読者の印象として植え込まれたい、といった彼の思惑も窺えますので、残すべきは残しました。これを準備させていただいた者としましては、読者の皆様は素直に、すべてを受け入れてしまわれるのが一番いいと思います。染められきって、長~く、大切なデータとして保持し、やがては結晶(確信)となるよう経験を積んでいってくだされば、やった甲斐もあったというもんです。

上の『統計』『調査』なるものは、
 Gという存在が行ってきた観察の積み重ねのことでしょう。


*最後に締めとして、他から、もう一つ抜粋をここに配しておきます。


質問者:
「感情に対する教育、育成は、なぜ失われてしまったのですか?」

G:
『爺さんや婆さんらが忘れ始め、やがては家のものみんながそのことを忘れてしまったのだ。
教育には時間がかかり、苦しみが伴う。生活の居心地よさが減少してしまう。
初めは怠惰なばかりに馬の教育を怠ったのだが、あとはすっかり忘れてしまったのだ。』

『ここでも「三の法則」が作用する。
 能動、受動の間に、苦悩という摩擦がなければならない』
『この苦悩が第三の原理へと導く』
『受動的である方が100倍も容易なのは、苦悩も結果も、
 あなたの[内]にではなく〈外〉に発生するからだ』
『全てがあなたの[内側]で起こるとき、初めて[内面]での結果を得る』。

補記:

上記の『外に』は意識しとかなきゃならない。あなたの行い/態度の結果が、身内の〈誰か〉の人生に影響を与えてしまうこととなる。不幸にしてはいけない。


蛇足:

まさかですが…本当に彼方の、まったく無関係な国の話として読まれはしませんでしたよね?
〈ペルシア〉〈ヨーロッパ〉は違う言葉に置き換えられなければなりません。
*例えば、戦前の近代日本においてはとか、先進国(欧米)ではとか、パリは東京に...

少し前...NHKのドキュメンタリー番組で、敗戦直後の日本の市井における混乱を見た。
精神的支柱をへし折られ、その魂は地へとあの時点で堕ちたのだ。
赤線の整われ方は、上記のままであった。

本能なるものの支配力を侮ってはなりません。他人の子を我が子の如く思ってくださる男性は稀な存在です。ほとんどゼロ(0)。受胎は、ホントーに愛し愛される関係においてのみ意義を持つことを肝に銘じておいて下さい。老婆心より。

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