14. Previous Outline おさらい。

文字数 3,463文字

あらためてAAAAでの流れとして:Bはボク。

概要:

Bは幼少時を含め,入社後いずれかは次代のAAAを継ぐべき者として自覚の意識を持たされてきた。「父」社長はもとより社長の側近たる管理職の方々がともにこれに協力しました。また、「母」もBに事業相続をさせるための打合せを行い、その場にBを同席させ、また平成13年に中小公庫の関連による経営後継者育成研修への参加をBにさせる等において間接的に同じ意思表示を行ってきたと言える。

Bは入社後に自己の使命をよく意識しその上で新規の取引開拓や海外の赤字取引等の困難な業務のみ全就業期間に従事した。韓国との化粧パフの赤字取引を黒字転換し、○○等鉄道会社との道床○○剤の新規販売をまとめ、スイスやオーストラリア等の海外の新たな販売ルートを確立、自動車のウインドウチャンネル用の植毛バインダーの新規販売、台湾AAAの立ち上げ、新規に○○メーカーや繊維加工メーカーとの商談を成立させるなどした。

「父」社長は平成10年○月○日に死亡した。父は亡くなる前、病床でBを跡取りにと求めたが,父の死亡後,母が代表取締役に就任し、Bは平成○年○月に取締役に就任した。

「父」社長が亡くなったことにより会社は大きな変革を求められる時期が長く続く(10年越えてなおも)。母は,以前に職務上において取引のあった外部の証券マン二人に経営運営の協力を求めた。○○○○(元○○証券)や浅川○○(○○証券)である。

Bは重責の立場も意識され、上記も参加する経営会議等で意見の進言を行った。外部の人間に社長が頼りすぎている事に不安に思う事が多かった。事実、平成13年には上記の浅川主導の会社の上場計画は後日に会社の乗っ取りであることが判明し、計画は取り止めになった。その後、社長のコンサルタントとして会社や個人が参加するも後日会社を食い物にせんとする輩でしかないことが続く。Bは進言を行うが、多くにおいて母は自分の否定と捉えてしまい対立になることが多かった。

Bは,母から取締役を辞任するように求められ,平成18年○月○日付けで取締役を辞任した。

取締役を辞任させられた理由は,実体上社外におりアメリカで生活しているはずのBの妹夫婦が突如、会社に存在するようになったことが原因と考えられる。妹の「○○○」は平成17年の後半から、またその夫「○○○」は平成18年の前半から出社することになる。その年の株主総会ではBは取締役を重任し、同時に妹の夫である○○○が監査役として初めて就任する。Bは事前に監査役として任命することに意見を求められ反対を母に伝えた経緯もある。重任の半年後における辞任の求めであった。

家族間の関係においてBの妻と母(社長)その上に長女(小姑)が加わる。その結果、B夫婦の存在は母にとって邪魔なものになっていったと思われる。この後、母のBへの対応はだんだんと常規を逸した厳しいものになっていく。

Bは,取締役の辞任に伴い,一従業員として再雇用される。

多くの期間において、Bは母に自分は何の仕事をすればいいのかを幾度も尋ねた。その折の回答は、いつも「自分で考えなさい」であった。自由裁量において仕事を作ること、その上での成果が求められるのだと理解し習慣づけられていた。将来を継ぐ者としては当然の課題とも受け取られた。この時も同じ回答であった。


解雇に至る経過:|

父が存命の間、問題はなかった。亡き後の会社の混乱期におけるBと母との良好でない関係とこれが極端に悪く変わっていく流れが平成17年の○月を境にしてある。
上記の取締役辞任関係の記述がこの境にあたる。

平成10年○月から平成11年○月まで東京支店長に就任する。その後,大阪本社に戻されるが,前記の○○を見張るように母に求められる。母は○○を信じて頼っていたが,裏切られたとの疑心があり、その故に呼び戻したのだ。東京への赴任自体は、Bを煙たく思った母と○○の采配であった。

平成12〜14年は新規事業開拓本部の部長に就任する。○田,○澤の二人が預けられるが,この二人は技術職のお荷物で社内での評価は非常に低い人物であった。問題社員とも言われていたタイプである。例:○田は毎晩の酒量が多く,パチンコ給料の多くを使い切っている。このことにより新規テーマの技術的な消化は内輪でのみになる。技術本部との関係の遮断が目的であったと思われる。

平成15年○月から新規事業開拓本部は廃部となりBは全事業における事業本部副本部長とされる。立場の名称は立派だが,本部長は母であり,各事業部は既に厳しい予算ベースで実際業務はまわっており、深い関与が出来る余地はなかった。関与は上辺にとどめ,社内の管理体制において調べ,勉強し構想を立てることに時間を費やした。製造原価と生産管理ソフトの採用を社長に進言する。

平成16年○月,IT推進室の室長に就任する。10月○日より原価と生産管理のERPソフトの導入のプロジェクトリーダーを平成18年3月まで担当する。実際は初期導入をもってリーダーの立場を解任させられた。実稼働において満足のいくようにするには,試行と運営等が数年を必要と考えていたので存外であった。実際,ソフトの稼働は一部表層にとどまってしまう。

また同年同月に長く赤字に転落となっている台湾AAAの董事長に就任する。台湾への訪問を多く行う。せっかく立ち上げた子会社が運営の問題でおかしくなっていたので,Bは再建をなんとかしたかった。しかし平成17年○月に解散。母はこの顛末をBが連れて来た台湾人,陳○宗のせいだと非難した。陳○宗は立ち上げにおいて多いに尽力をしてくれたのは事実である。

なぜか平成17年の期中は組織図にBの名前はない。

平成18年○月より仮想的な組織横断的チーム編成による業務改善プロジェクトのセンター長に任命される。推進管理がつとめと認識する。このプロジェクトの発案者は社外から来た顧問職の○○である。社員は日常では実務にあけくれており実際は体裁繕いの感は免れなかった。Bは手空き時間を利用して自ら一つのチームに参加することで少しでも良い結果が出せるように努力した.○○工場の品質改善チームである。ISO9001の内部監査員の講習も自発的に受けにいった。このセンター長は二年を経ずして解任される。

平成19,20年は仕事らしい仕事を与えられなかった。会社の社外顧問宅に出入り,社外交流に参加等において時間を使った。母に仕事を求めることもたびたびしたが,厳しく非難中傷されるだけであった。

平成20年○月より再び新規開発の仕事を与えられるも報告不足の理由によりすぐに解任される。以前の様に自由裁量において動き,なにか形がまとまり,ことが進展した上での報告でいいと考えていた。実際,新規は時間がかかる。

平成20年12月,Bは,母から,社会試験労務士の資格を取得するまで,出社する必要はないと申し渡された。Bは,会社には出社せずに,社会保険労務士の資格を取得する為の予備校に自費で通い,受験勉強をし,平成21年8月,Bは,社会試験労務士試験を受験したが,同年11月、不合格となった。

Bの給与は平成21年の三月に半額にされ、それ以降毎月5%の減額がおこなわれた。また、給与の支払いは10月まであるとのメールが送られた。

平成21年11月○日,Bは,母の自宅を訪問し,会社の仕事に復帰したいと申し出たが,母は,「あなたが来たら,社員がやる気を失う。」などと言い,これを拒否した。そして,母は,Bに対し,「11、12月の給料を保証してあげるから,目の前ですぐ退職届けを書きなさい。」と迫った。しかし,Bは回答を引き延ばし,結局退職届を提出しなかった。

平成21年11月27日付け解雇通知書により,就業規則にある「事業縮小による担当部署の閉鎖」を理由として,同年12月28日付けでBは解雇された。


補記:

退職届を書かなかったのは、辞めるなら会社都合にしてもらわないと困るからだった。
母は、「次のことを考えたら、自己都合じゃないと格好悪いで〜」などと勝手なことをほざいていた。もう別人格だった...。

更には、何とボクには雇用保険が掛けられていなかった。
弁護士を利用せざるを得なかった。本稿は元はそん時に作成されたものです。
弁護士も酷かった。いらぬ金もふんだくられ、状況はいい事なし。
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