ささやかなカタルシス

文字数 1,204文字

おお、豹真君! 間に合ってよかった。

 降りしきる雨の中、大きなコウモリ傘を差して現れたのは、町内会長だった。これも慌ててやってきたと思しき、長袖のシャツ1枚に作業着を羽織った姿である。

 

どうも……昨日はサボってすいませんでした。
ああ、ほういうんやない。町を出るんやって聞いてな。
 そういう顔は実に寂しそうである。そんな顔を向けられたことがないのか、豹真はちょっと戸惑い気味に、顔を背けた。
世話んなりました。これからひとりでやっていけるんで。
それは、ワシがどうこう言うことやないが……お前さんが誤解しとることがある。それだけは言うとこうと思ったんやわ。
 豹真は面倒臭そうに横目で睨んだ。風はますます強くなり、町内会長の顔までも容赦なく濡らした。
誤解……? いいです、もともと何も信じてないんで。
お母さんから聞いた……お父さんとのことや。
 豹真はまじまじと町内会長を見つめた。言霊使い同士の決闘に敗れた父親のことなど、町内会長が知っているはずもない。いかに衰弱したとはいえ、日常生活を営む分には普通の人とは区別がつかなかったからこそ、結婚もできたのだ。
いったい、何を……?
たいしたことじゃあない……。お前さんのお父さんは、好きあっとるように見えてそうでもなかったお母さんとの結婚を、えらく急ぎはじめてな。所帯を持ってからは、お前さんが生まれてすぐ死んでしまった。でもな、お母さんは幸せだったと言っとったぞ。
それ……いつ?

 豹真の父親との時間の短さを悔いていたかに見えた母親の言葉とも思えなかったのだろう。豹真は怪訝そうに眉をひそめた。

 その気持ちを知ってか知らずか、町内会長は事もなげに答えた。

小さいお前さんを連れてこの町を出る前に、ワシの駄菓子屋に挨拶に来てな。小さなアメを1個、お前さんに買ってやっとったのを覚えとる。

 日が差してきた。通り雨だったらしい。

 町内会長が傘を閉じると、豹真も傘を閉じた。濡れた路面を風が吹き抜ける。それを追うように豹真が遠くを眺めると、その背中からバスがクラクションを鳴らした。

……え? だってまだ……。

 残り1時間を切っているとはいえ、早すぎる。だが、町内会長は、これも事も無げに言った。

前のバスが遅れてきたんやろ。昨日の雨で、道路も何かとゴタゴタしとるらしい。気いつけてな。

 慌てて乗り込んだ豹真は、バスの窓から外を眺めた。発車と同時に、濁流に係る橋を渡って歩み去る町内会長の姿が、故郷の山々と共にもの凄い速さで遠ざかっていく。

 バスのシートに身体を投げ出したまま、豹真はボストンバッグの中から写真立てを取り出して見つめた。

……一生後悔する、っていうのは、大げさだったか。あいつらは案外、あれで幸せだったのかもしれんな。

 豹真の心の中で、写真に映った両親がどう答えたか。それは、豹真本人にしか分からない。

 ただ、目を閉じてハミングしはじめたのは、ビバルディの『春』であった。

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登場人物紹介

檜皮和洋(ひわだ かずひろ)

 父と共に不思議な力を秘めて流浪する少年。頭はそこそこ切れるが引っ込み思案で、自分も他の人も傷つけるまいという思いから、常に重大な決断を回避しようとする癖がある。

 しかし、追い詰められて発する力は地球の大気をも震撼させる。

樫井豹真(かしい ひょうま)

 超自然の力と屈折した思いを秘めた、小柄ではあるが危険な少年。冷酷非道に見えるが、それは自分の力への誇りと、同じ力を持つ者たちへの熱い思いによる。

刀根理子(とね りこ)

 冷淡な言葉の裏に、激しい上昇志向を秘めた少女。自分には厳しいが他人にも厳しく、たとえ年長者でも、直面する問題から逃げることを許さない。物静かだが、時機を捉えれば、やるべきことをやり遂げる。

 ただし、最小限の手間で……。

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