ささやかなカタルシス
文字数 1,204文字
降りしきる雨の中、大きなコウモリ傘を差して現れたのは、町内会長だった。これも慌ててやってきたと思しき、長袖のシャツ1枚に作業着を羽織った姿である。
豹真の父親との時間の短さを悔いていたかに見えた母親の言葉とも思えなかったのだろう。豹真は怪訝そうに眉をひそめた。
その気持ちを知ってか知らずか、町内会長は事もなげに答えた。
日が差してきた。通り雨だったらしい。
町内会長が傘を閉じると、豹真も傘を閉じた。濡れた路面を風が吹き抜ける。それを追うように豹真が遠くを眺めると、その背中からバスがクラクションを鳴らした。
残り1時間を切っているとはいえ、早すぎる。だが、町内会長は、これも事も無げに言った。
慌てて乗り込んだ豹真は、バスの窓から外を眺めた。発車と同時に、濁流に係る橋を渡って歩み去る町内会長の姿が、故郷の山々と共にもの凄い速さで遠ざかっていく。
バスのシートに身体を投げ出したまま、豹真はボストンバッグの中から写真立てを取り出して見つめた。
豹真の心の中で、写真に映った両親がどう答えたか。それは、豹真本人にしか分からない。
ただ、目を閉じてハミングしはじめたのは、ビバルディの『春』であった。