88 海岸づたいの土佐神社・後篇

文字数 1,835文字



 土佐国一宮の土佐神社は、土佐国の神話で土左高賀茂大社。葛城一言主神社のヒトコトヌシを祀る。近所に多数のカモ神社が建つ。
 神話で、雄略天皇に嘯(ウソブ)いた、順(マツラ)わなかったヒトコトヌシが土佐国に流されたとある。一説にコトシロヌシさんの神統を継ぐ、オウのカモ族の長の神格化。元社の鳴無神社はヒトコトヌシが流れ着いた地に建つ。参道が海に延びる。
 神話も、史話も時の権力者の事情で書き換えたり、読み変えたり。上書保存が行われたり。壬申の乱で天武天皇に武功が認められたカモ族。天智系皇統に復し、順わなかったオウのカモ族が流されたか。

 土佐の語源は土佐国土佐郡土佐郷に建つ土佐神社。かつて都佐坐神社。当地は台風が多い。いつのまにか土砂(トサ)が溜まってできた地に建つ。本来の祭神は地主神。風神、海の恵み神。志那禰祭は台風後の豊漁祈願の祭。さらに当地は西南日本外帯の秩父帯と四万十帯で土砂災害(深層崩壊)が多い。土砂災害で顕れた露頭(断層)の神様、石神(イシカミ)信仰の地に建つ。のちに台風の神様を鎮め、南海トラフによる地震の神様を鎮める石神(シャクジン)信仰となる。
 天武天皇の時代のまえ、四万十川の砂鉄を求めてカモ族が移ったか、天智系皇統に復した時代のあと、順わなかったオウのカモ族が流されたか。
 または天武天皇に武功が認められたけれど、ヲハリ族と同じく強くなりすぎたか。父の34代舒明天皇の時代に天武天皇はホヒのカモ族と繋がってた。天武天皇は賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の賀茂二社の創建と関わってた。
 ホヒのカモ族が嘯き、天武天皇はオウのカモ族の長に佩剣の献上を強いたか。

 673年に天武天皇が皇位を嗣ぎ、675年に土佐神社の祭神の佩剣が神剣として献じられる。国ツ神に珍しい土佐大神の称号が与えられる。
 675年から686年までに南海トラフの地震。684年に伊豆大島の噴火と畿内五国の白鳳地震。685年に浅間山の噴火。
「い、いずれ神剣は祟る。再び、アユチの社に、け、献じられる」
 だけど台風や地震、さらに噴火は続き、686年に天武天皇は悩みまくり、心労死。

 764年、最後の天武系皇統の46代孝謙天皇(重祚で48代称徳天皇)の時代、ホヒのカモ族の配慮でオウのカモ族の配流は免じられ、ヒトコトヌシは大和国葛上郡に祀られる。本当に、オウのカモ族は許されたんだろうか。ヒトコトヌシは祀られたんだろうか。
 天武系皇統が絶え、天智系皇統が復し、時代は変わる。
 自然災害は天子の不徳で齎されるか、人の恨み、妬み、嫉み、鬼の穢れで齎されるかわからないけれど、平安時代は謀叛と叛乱、鎮圧の時代となる。
 高天原の日神の神威の力が衰え、八幡神の神威(法威)の力に変わる。
 天智系皇統は自然災害よりも人の恨み、妬み、嫉みにおびえる。鬼の穢れとなり、禍い(災い)となる。自然災害となる。八幡神の神言(法言)は謀叛や叛乱を起こす前に誅して(殺して)おきなさい。あとは放生会を行えばいい。佛様に縋ればいい。
 鬼は人でないから。人でなければ殺していい。いや、鬼に化す前に殺していい。

 謀叛と叛乱を鎮めるたびに軍事貴族の武力が強まり、武者が現れる。自然災害を鎮めるたびに佛教の佛力が強まり、僧兵(僧形の武者)が現れる。
 平安時代が終わり、鎌倉時代が始まる。

 崇神・応神・継体系皇統を、正当(正統)な皇統を嗣いだ桓武天皇の時代、オウのカモ族はじぶんの意思で隠れる。ヲハリ族みたい。ホヒのカモ族は、ただのカモ族と名のる。全国各地のカモ族をまとめる。賀茂二社は全国のカモ神社の本社となる。全国各地の贄(産物)を献じる一族となる。太政官内蔵寮の頭の申食国政大夫となる。贄殿は宮所(宮殿)に設けられ、管理を任される。帰順儀礼は、まずはただのカモ族の長に頭を下げる。
 オウのカモ族の祀る神は国ツ神。ただのカモ族の祀る神は天ツ神。



 1224年の台風で土佐神社は壊れる。665年後の、1889年の台風で富士山縦覧場は壊れる。恐るべしスサノヲさん。

『し、神話で最も多い神は、水神。川、滝、湖、泉(湧水)、雨も水神が司る。水神も気儘な神。人のために動かない。山神とともに動く、恵み神であり、た、祟り神である。スサノヲも人のために動く神でない。わかるだろう。気儘にひょいと、いなくなる神、だ。なにも思ってない、考えてない。の、脳髄が、ない』
『ヒドい』

 なんとなくクリスタル、いや、なんとなく伏線回収と、うざい論説は続く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み