01 カカシの哀しい話

文字数 4,191文字



 月の力は海を引っぱり、潮汐を起こす。月の力は地を引っぱり、地震を起こす。
 潮汐は、潮は朝方に、汐は夕方に起きる海面の昇降現象。地震は地面の昇降現象。1日2回の潮汐、地震の5%は月の力による。月の力は大きく、地球に影響を与える。
 地球の自転は10万年に約1秒ずつ遅れてる。月と地球の距離は1年に約4cmずつ離れてる。

 大昔の1日は短かった。月は近かった。月の力は、今よりも地球に影響を与えてた。

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 東京都(の隣の埼玉県)にある小さなアパートの、1Kの1室。窓が西側なので陽が眩しい。春分が過ぎたので陽が暖かい。
 ローテーブルを挟み、カカシがチェストに立てかけられてる。田んぼに立つカカシ。かなり不自然。布で作られた頭にマジックでへのへのもへじと書かれてる。体は竹を十字に結わえただけ。陽に陰った口の処の[へ]の字が喋ってる。喋るカカシ。かなり不気味。
 カカシの神様のクエビコさんは、昔は実家の和歌山県の田んぼで陽に晒されてた。今は私のへやで西陽に晒されてる。
 クエビコさんの話を聞きながら、私はスマホを弄る。
 なるほど。カカシは祖神(祖霊)信仰の屋敷神か。

 狩猟や漁撈の時代、人は神様とともに山や海に住んでた。
 山人は、死ぬと霊魂は山奥に隠れて祖神となり、山神と合わさると考えてた。山上他界。海人も、死ぬと霊魂は海の彼方へ渡って祖神となり、海神と合わさると考えてた。海上他界。人は死ぬと神様になった。
 やがて山人は山麓の里に住み、里人となる。そして山の巨岩を置き、木を植える。時々、山神は後裔が気になって里に下り、巨岩や育った高木に憑いて屋敷神となる。人は迎えた山神とともに歌う、舞う。祭を行う。
「そういえば本家も、裏庭に高木がある」
 近所の家も巨岩や高木がある。木陰のためと思ってたけれど、なるほど。

 やがて1年の始まる春に、天から歳神とともに降りてきた山神は、川で里に下り、田んぼの悪神(害獣・害鳥・害虫)を祓う田んぼの神様となる。田んぼにある高木やカカシが憑代(神代)。夏に穂が育ち、秋に稲が実る。田んぼの神様に収穫の感謝祭を行う。そして1年の終わる冬に、田んぼの神様は歳神とともに天へと昇る。
 歳神は歳霊の神様。1年毎にやってくる来訪神。田んぼの神様は稲霊の神様となる。
 年が終わり、カカシを裏庭へ移して燃やす。かかし引き。焚きあげられて天へと昇る。そして年が始まり、歳神とともに雨となって山へと降り、川で里に下る。
 農耕、とくに稲作の時代、山神は、屋敷神、田んぼの神様、稲霊の神様、水神に近い農耕の神様に変わる。
 一説に[カカ][カガ]は蛇の古名。カカシ(カガチ)は蛇神という。



[虫]の字源はヘビの象形文字。語源は水辺(湿地)に棲む小動物。代表格小動物がヘビ。とくに毒のあるヘビで、マムシ。ゆえにマムシは真のムシ、真虫となる。[蟲]が旧字と思われれやすいけれど、[蟲]はいろいろな小動物。水辺や水中に棲む蛙、蝌、蝟、蜆、蛸、蟹、蠍、蝦、蝎など、いろいろなムシ。非実在動物の蛟(ミヅチ)も、非動物の虹もムシ。水辺に集まる鳥は羽蟲、魚は鱗虫。さらに獣(毛のある小動物)は毛蟲。
 ムシの語源はわからない。いつのまにか[虫]は昆虫を表し、ヘビは長虫となり、のちに[蛇]となる。[它]も毒ヘビの象形文字。つまりヘビヘビ。または虫也(ヘビなり)で[虵]。ヘビのほんとうの語源はわからない。マムシは餌を呑みこんで腹の膨れたヘビで[蝮]となる。
 ついで。[昆]は数が多い、群れなすという会意文字。群れなす蟲。昆蟲。

 日本に棲む蛇は、田んぼなどの水辺に棲むアオダイショウ、シマヘビ、ヒバカリ、ヤマカガシ、マムシ。山の森林に棲むジムグリ、シロマダラ、タカチホヘビの8種。そして西南諸島に棲むハブ。9種のうちマムシとヤマカガシ、ハブに毒がある。ヤマカガシは、もとは山の蛇。ほんらいは里に棲まない。餌の蛙に合わせて里に下り、田んぼに棲む。つまりマムシ(のちにヤマカガシも)は田んぼで恐い虫。悪神よりも恐い蛇神。



 昔の全国各地に蛇神信仰があった。
 狩猟や漁撈の時代、冬となって幸(獲物)が減り、春となって増える。
 春となって地下から虫(小動物)が現れる。変温動物の蛇が現れるころに、いろいろな虫、草花も現れる。啓蟄。虫を食べる大動物が現れる。自然の生と死、蛇の脱皮に再生や甦生を重ねる。蛇は変温動物のため、酷寒酷暑の環境、絶食状況で生きられる生命力もある。そして毒。蛇は世界各地に棲み、各地の自然の畏敬と畏怖の象徴となる。
 とくにマムシは卵胎生。蛇のなかで神聖化、特別扱。
「人は裸蟲。人も水辺に棲む小動物なんだ。マムシは、田んぼのなかで裸虫も含めたいろいろな虫の天敵なんだ」
「あ、足もなく、足音もなく這う。獲物を巻きしめる。獲物を、い、生きたまま呑みこむ」
 ちょっと羨ましそう。足がないもんね、歩けないもんね、クエビコさん。
 カカシ、いや、しかし。
「今は、蛇は嫌われてる。昔の蛇神はどうなっちゃったの」
「へ、蛇神は、いなくなる。稲作が始まるまえ、水辺は人にとり山の幸の集まる処だ。蛇神は山の幸を誘う神。やがて田が作られ、稲作が始まる。蛇神は悪神を殺すが、毒で人も殺す。ゆえに祀りあげられる。ま、祀りあげられ、龍神となる」
 祀は形声文字。字源は、[示]は神様に饌(ソナエモノ)を献じる饌台の象形文字。饌は食物であれば贄、生きてれば生贄。語源は神様が顕れ、神意をしめす。神威のしめし。示威。[巳]はヘビの象形文字。ただし十二支の[巳]と語意は異なる。つまり[祀]の語源は、代表格小動物のヘビを神様としてまつる。精霊(自然神)をまつる。のちに祖霊(先祖神)をまつる。[巳]は胎児、新生児の説もある。胎児を、……考えたくないので、パス。
 ついで。祭祀の[祭]。字源は示(饌台)の上で、右手で攫んだ肉を神様に献じる会意&形声文字。やはり饌は生贄、絞めたばかりの血の滴る生肉がよい。語源は祀った神様に饌の命を献じ、じぶんたちの命を長らえるように願う。神様とともに幸=饌=贄を食べて命を長らえる。神賑。賑わいだほうが神様は悦ぶらしい。

「い、いつのまにか蛇は蕃国(トナリノクニ)の龍となる。地下から現れる蛇でなく、天上から現れる龍となる。蛇神(幼体)は龍神(成体)となる。日神の、ミ、ミサキ神となり、雨を誘う神となる。降りて山神となり、田の害虫(蛇神)を殺す田の神となる。龍神になれなかった、お、堕ちこぼれ蛇神は田に立たされる。タダのカカシとなる。カカシは蛇神の成れのはてだ。ずっと立たされる。廊下にずっと立たされ、せ、先生に忘れられた生徒の、気分。何年も立たされると、なぜ、立たされるのかわからなくなる。い、今はもっと酷い。誰もいない里で、ずっと立たされる」
 ちょっと、なにを言ってるのかわからないけれど、[カカシの里]のことだろうか。
 ミサキ神。主神を導く御先(御前)の神様。主神の顕れる前に、吹く風に乗って顕れる随神。使い神。
「風神(風邪神)は台風の神様(疫神)スサノヲさんのミサキ神。西の風神は悪き神、東の風神は良き神。なるほど」
 話を聞きながらスマホを弄る。検索技術はクエビコさんに鍛えられる。検索履歴は女子大生の持つスマホと思えない。
「そ、そういえば、神話で、スサノヲの子神に、ウ、ウカノミタマの神が、いる」
 スサノヲさんの子神の宇迦之御魂神……。スマホを弄る指が止まる。
 そうだよね。スサノヲさんも男神。妻神はいる。神話で書かれてる。
「イ、イナタマ(稲霊)の神。トシタマ(歳霊)の神の、妹神だ。スサノヲも、ミ、ミケ(御饌)の神というからな。フ、フシミの社に祀られてる」
 伏見稲荷大社。東京都西東京市に東伏見稲荷神社がある。京(ミヤコ)の東にある都(ミヤコ)の西にある市に、なんと東町がある。なんかくだらない。
「へ、蛇神というが、出自は不明、だ。天台宗にとりこまれ、辯才天と合わさる。知(才)を司る辯才天も、辨財天となり、財宝神、さらに戦勝神、ち、鎮護国家の神となる。神佛の複雑化合体だ。もうなんの神か、わからない。脳髄が、弱すぎる。笑え……」
 うーん。たしか神話で、スサノヲさんは……。
「お、おい、き、聞いてるのか」
「あ、聞いてない」
「ツ、ツクヨミ、最近、オレを神と、お、思ってないな。対応がぞんざい」
「そ、そうね。神様と思ってるけれど、おびえてない。うやまってない。だいたい、クエビコさんは、ツクモ神、カカシの神様なんでしょう」
 ほんと聞いてなかったので、ごまかそうと強気で言い返す。
「な、なるほど。オレは人に作られた、か、神だ。いや、1度目は人か、意識も記憶も曖昧。2度目、3度目は、オ、オオクニに作られた。ハッキリと意識も記憶も、ある」
 クエビコさんの布で作られた頭が垂れる。
「いじけないで。はい、笑って」ごまかそうと顔を横にひっぱる。
「い、畏怖も、畏敬も、同じ感情だ。わからない存在に、お、おびえる心。うやまう心。つまり超越な、隠然な存在に、人の力の及ぼない絶対な存在に、か、畏まる心」
 超越、隠然でない、クエビコさんは……。
「タダのカカシ。喋るだけのカカシ。だけど仲のいいカカシ」ごまかす。
「…………」クエビコさんが目の処の[の]の字を細めて睨む。
「チョーつまらない話、マダマダ終わらないの」
 私の隣で、ローテーブルに臥せてたワカヒコくんが頭を上げる。そして欠(アクビ)。
「…………」クエビコさんが口の処のへの字を曲げて凹む。



 龍は古代中国で江南(長江の南域)に棲む鰐(揚子江鰐/鼉龍)の神格化。神獣。降雨時に川面に頭を現し、鳴く。絶滅後、イメージだけが稲作とともに伝わった。
[龍]は[竜]の旧字体だけど、新字体の[竜]のほうがさきに使われた。実物のワニが滅んだため、見たことのないため、リュウのイメージの元は、じつはヘビ。[竜]は頭をデコったヘビの象形文字。さらに体もデコった[龍]。ヘビがデコった蛟(竜)となり、天に昇り、さらにデコった龍となる。
 ついで。麒麟も、見たことのないキリンのイメージの神格化。または見たことのあったかもしれないシバテリウムの神格化。麒麟は行ったことのない、または行ったことのあったかもしれない善政を、行った皇帝(黄帝)の前に顕れる神獣。ややこしい。
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