第98話 攻防

文字数 3,235文字

月のない夜。
コンドミニアムの二階にあるスカーレットの自宅。
窓辺に立つスカーレットは、ある人物からの連絡を待っていた。
メールの手配を依頼したブルーとバイオレットからの連絡である。
手に握るのは、ヘクトル達との交信用に手配した使い捨てのスマートフォン。
すべては、そこに集まるのである。

ブルーとバイオレットは、かつて、ラファエルがつくったローデヴェイクのクローン。
スカーレットが自由にできる、ヒュドールの財産の一部である。
二人が向かった先はR国。選んだのはスカーレット。
あの国が、A国の警察との間に設ける壁に期待したのである。
スカーレットは、闇アプリを信用できる程、楽天家ではない。
常人が真似できない程の金をかける。彼女が信頼できるのは、それだけである。
スカーレットから指示を受けたブルーとバイオレットは、間もなく、彼女の望むすべてを実現に移した。
R国に飛んだ彼らは、現地でエージェントを雇うと、事務所ビルをフロアごと借りた。
エージェントが手配した偽造IDで通話回線の契約。出来るものである。
続けて二人が買い付けたのは大量のパソコン。煙幕は、海外のサーバーをランダムに経由する程度で十分。
あとは、この部屋からメールを自動で送り続けるのである。
個人情報の出所は、IT企業であるヒュドール。無尽蔵である。
例え、足がついても、R国がA国の警察の望みを叶える頃には、二人はA国に戻っている。IDも偽造なので、身元を照会される可能性もない。
必要なのは、エージェントの仲介手数料、偽造IDの手配費用、渡航費、ビルの契約・賃料、パソコンの購入代金にネットの通信料。
迷惑メールを送るためにかける金額ではない。警官の想像を超えるのである。
ブルーとバイオレットには、メールの送信を開始し、R国を出る時に、報告のメールを送る様に伝えた。
真面目な二人が予め伝えてきた飛行機の時間は、もうすぐである。

スカーレットが窓際に立つのには理由がある。
ロレンツォである。
クロスオーバーSUVの運転席に一人で座り、こちらを見ている。スカーレットが気付いてからでも、もう三日。
紙幣の情報からスカーレットを疑っているのは、分かり過ぎる。
ロレンツォを眺めていたスカーレットは、小さく微笑んだ。
視線が合った様な気がしたのである。
窓辺で見つめ合うのは、古い映画の世界だけで十分。
不意に思い立ったスカーレットは、ドライブに出ることにした。
ロレンツォが何処までついてくるのか。それはそれで楽しみなのである。
メルボルン・レッドのクーペに乗り込んだスカーレットは、シャッターを開け、ゆっくりと車道に出た。

流れる車の数は減ったが、開いている店は少なくない。
人の姿の絶えない、いつも通りのこの時間のC市の夜である。
スカーレットがギアを変えた頃、ロレンツォのSUVはゆっくりと動き出した。
距離的に、ロレンツォが目指したのはつかず離れずというところ。
車一台で気付かれずに尾行するのは不可能。それはロレンツォも知っている筈である。
特に行き先を決めていないスカーレットは、ただ、自分を追い続けるロレンツォを楽しんだ。
連邦捜査官を自由にする、ある種の万能感である。
やがて、スカーレットは、信号の変わるタイミングに小さく閃いた。
黄信号に差し掛かる交差点。直交方向の車両は、列を成して待っている。
ロレンツォを撒くチャンスである。
笑顔の止まらないスカーレットは、一端減速すると、信号が赤に変わった途端にアクセルを踏んだ。
間一髪、交差点に入る車両の前に滑り込んだスカーレットは、クラクションを鳴らされるロレンツォのSUVをバック・ミラー越しに眺めた。
快勝である。

スカーレットは、ウイニング・ランの行先を近所のスーパーにした。
遅くまで開く高級店は、スカーレットのお気に入りである。
J国酒はブルーとバイオレットのための祝杯。つまみのスモモも忘れない。
スカーレットがレジで払ったのは百ドル札。お釣りの二十ドル札を見るためである。
この日の紙幣にメッセージは書かれていなかったが、スカーレットは小さく微笑んだ。
確率論的には間違っていないのである。
彼女は、この日に至るまでに、既に一度、メッセージを見ている。
すぐに次に回したが、作戦は、確実に進んでいるのである。

スカーレットは、助手席に買い物袋を置くと、自宅に向けて車を走らせた。
ロレンツォがいなければ、大して時間はかからない。
間もなく到着した家の前に、ロレンツォの車はない。
きっと、ロレンツォは怒っている筈である。もう来ないかもしれない。
スカーレットは、窓辺の恋人を追出したことを少しだけ後悔しながら、車を駐車場に入れた。
コンシェルジュの前を通り過ぎ、自室の鍵を開け、部屋の灯りを点ける。
限りなく繰返してきたルーティンの後、スカーレットは、リビングに立つロレンツォを見つけた。
「こんばんは。」
息を止めたスカーレットは、悲鳴を上げなかった自分を、心の中で褒めた。
ロレンツォが顎を小さく上げると、スカーレットは扉を閉めた。他に想像できる動きはない。
連邦捜査官がこれ以上の無茶をする想像はしない方がいい。それは絶対に避けたい恐怖なのである。
口を開いたのはロレンツォ。
「車は裏にとめた。驚いたかな。」
スカーレットが、表情を変えずに頷くと、ロレンツォは小さく微笑んだ。
「僕も驚いた。自分でも、こんなことをする男とは思わなかった。それは?」
ロレンツォに指差されると、スカーレットは酒とスモモを見せた。
「危険物ではないね。」
スカーレットが沈黙を選ぶと、ロレンツォは、眉間に軽く皺を寄せた。
「僕は、君が軍事機密を漏洩しているスパイだと思ってる。」
スカーレットが頷くと、ロレンツォは言葉を続けた。
「あと、僕は君が思っているより、確実に酷い男だ。僕もコントロール出来ない。負けで終わる事は多分ない。冗談でも変なことはしない方がいい。これは警告だ。」
スカーレットは、ロレンツォの頭の先からつま先まで眺めた。いつ見ても、身なりはいい。
この男なら、几帳面に相手をいたぶるかもしれない。
スカーレットは、静かに口を開いた。
「コンシェルジュは?」
彼女が一番気になったのは、彼の裏切りである。
ロレンツォが首を傾げると、スカーレットは質問を重ねた。
「鍵は?」
ロレンツォは、笑顔でピッキング・セットを見せた。
「コンシェルジュは、連邦捜査局を信じるいい男だ。そして、鍵は壊れていない。君が引越す理由はない。」
丁度その時、テーブルに置いていたスマートフォンから、メールの着信音が鳴った。
使い捨てのスマートフォンは、スカーレットには似合わない。
ロレンツォの目は、途端に悲しみの色を帯びた。
「出来れば、次からは出かける時に一声かけてほしい。手間が省ける。」
彼は、何にせよ、自首を求めている。知らない仲ではないのである。
「その必要があるかは、管理官に聞いておくわ。」
スカーレットが、その日初めての微笑みを返すと、ロレンツォは小さく笑った。
上官に言いつけられるのは上手くない。
首を傾げたロレンツォは、足を進めると、スカーレットの横を通り過ぎた。
「僕の気持ちは前に言った通りだ。二度は言わない。」
ロレンツォが扉の前で立止まると、スカーレットは静かに口を開いた。
「来るたびに警告ね。」
何度か頷いたのはロレンツォ。
「手錠をかけさせるのは止めてくれ。知った人間を捕まえるのは、本当に疲れるんだ。」
スカーレットは小さく微笑んだ。
「考えておくわ。」

残されたスカーレットは、ロレンツォが部屋を出ると、メールを確認した。
それは、ブルーとバイオレットからのメール。無事に出国したのである。
胸をなでおろしたスカーレットは、しかし、ネットを検索した。
探したのは盗聴器専門の探偵会社。
ロレンツォが何もしないとは、思えないのである。
部屋に入れる業者は、それなりのグレードでないと我慢できない。
納得できた業者は千ドル超え。
連邦捜査官は暇ではない。スカーレットの遊びの代償は、高くついたのである。
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