第7話 警告

文字数 4,320文字

夕日が沈み、三人はJ国食レストランに入った。
スカーレットは、国際会議で訪問して以来、J国の文化を愛しているらしいが、知ったことではない。
一方のヘクトルは、一刻も早く、スカーレットから逃げたかったが、マテウスの空腹の歌があまりに壮大になると、手間のかからない方の答えを選んだ。
エントランス脇のイケスを見ながら、竹の並ぶ店内を進み、窓際のソファに腰かけると、スカーレットが口を開いた。勿論、ヘクトルとマテウスが横並びである。
「彼女、本当に何も言わないのね。」
ヘクトルは、罪悪感を欠片も見せないスカーレットを睨んだ。
「彼女の忘れたい過去だろうし、きっと本当に忘れたんだ。キャリーにとって、エミリーは本当の娘なんだ。」
注文を終えた後も、マテウスの破壊工作以外、そのテーブルには何も起きない。
子供の存在を無視すれば、重い空気である。
やがて、プレートが運ばれてくると、スカーレットは箸を器用に持ち、握り寿司を口に運んだ。
会話のない食事が十分程続いた頃だろうか。
ヘクトルは、マテウスの頭が船をこいでいるのに気付いた。どこでも寝られるのは子供の才能である。
頬を抑え、口の中を見て安心したヘクトルは、平和な食事へと戻った。目の前にスカーレットがいようが、至福のひと時である。
その目の前。
対面していたスカーレットは、ゆっくりと大きく揺れた。普通ではない。
スカーレットは、重力のままに空いた隣席に崩れ落ちた。
「ヘイ。」
呼びかけは無意味。スカーレットに必要なのは救急車である。給仕を探し、勢いよく立ち上がったヘクトルの目の前は、しかし、潮が引く様に真っ暗になった。

ヘクトルは夢を見ていた。
自分を見る男が二人。死んだ両親である。
石鹸石の壁付暖炉の炎の前に立つのはリンカーン。
ネオ・クラシズムのブラウンのソファにゆったりと腰掛けるのはカレブ。
壁には、彼らが幼い頃から勝ち取ってきたトロフィーや盾。
ヘクトルを含む一家三人の額入りの写真。見慣れた光景である。
二人はじっとヘクトルを見つめている。
優しい眼差し。
二人の名を叫んだつもりが、声は出ない。
会いたかったのだろうか。
ヘクトルが自問した時、二人が順に微笑み、ヘクトルは目を覚ました。
そう。目を覚ました。肉体的には。
ヘクトルは、一度大きく開いた目をすぐに細め、周囲をゆっくりと見渡した。
そこは、細長い部屋。
ヘクトルは椅子に座っている。感覚的にその筈である。
コチニール・レッドの絨毯。
同じ色のカーテンが壁と天井を覆っている。素材はベルベットだろうか。
強烈なココナッツの香りがすることも気になる。
そして、ヘクトルは認識した。
目の前にいる年老いたエミリーとブタを。
怖くて目を細めたのは、そのせい。気付いたのではなく、認めたのである。流石に知らない振りをするにも限界がある。
ブタの存在は余りに大きいが、ヘクトルの目は、エミリーに釘付けになった。
彼女は死んだので、これも夢の可能性が高い。
話しかけようとしても声が出ないのはさっきと同じ。
少し違うのは、ヘクトルの両腕が後ろで縛られていること。
動かすと、手首にはっきりと圧を感じること。
声は出ないが、喉に感じる抵抗はリアルである。
これが夢でない時の恐怖。おそらくは命の危機である。
しかし、あらゆる可能性を探るヘクトルの脳は、また一つ重要なことに気付いた。
マテウスがいない。
叫びたいが、声は出ない。
本能が、夢と信じたいヘクトルの体を突き動かす。
体を大きく左右に揺らしてみる。当然、上下にも。
無駄なあがきであったとしても、自分が自分でいるために必要なことである。
しばらく続けた抵抗は、やがて、びくともしない椅子のせいで、ゆっくりと治まっていった。
何をどうしようと、駄目なものは駄目。ヘクトルは、十分頑張ったのである。
自分の中で何かに納得したヘクトルは、この数十秒間気になっていたことを確認するために、改めてエミリーとブタを見た。
一人と一匹が全く動いていない様に見えたのである。
更に数十秒後。ヘクトルは、一つの結論に辿り着いた。
実際、彼らは全く動いていない。瞬きもしていない。但し、息はしている。ブタの腹は隠せないということ。
ヘクトルに、その姿が何故かリンカーンとカレブに重なって見えた時、後ろから男の声がした。深くて響く、所謂いい声である。
「これ以上詮索するな。」
少し古い言い方。男が発したのは、この一言だけだった。
ヘクトルは力を振り絞って体を揺らしたが、待っていたのは、やはり暗闇だった。
今度は物理的な手段。唯一、自由に動く頭に袋をかけられたのである。
自分の息の臭いを意識したヘクトルは、頭を振り続けた。分かっていても、止まる訳にはいかない。沸き起こる恐怖が、勝手にそうさせるのである。
まもなく、暗闇のヘクトルは溶剤の強烈な臭いに包まれた。
何分経過した頃であろうか。
ヘクトルは気を失った。

目が覚めたヘクトルは、スカーレットのクーペの助手席に座っていた。
車中には誰もいない。
咳ばらいをすると、声を感じる。元通りである。
しかし、ヘクトルは、手首にローズ・ピンクの筋を見つけた。擦痕である。
ヘクトルは、思い出した様に、勢いよく後部座席を振返った。
探すべきはマテウス。
何がどうだろうと、時間が跳んでいるのは確かである。
ヘクトルは、後部座席に誰もいないことだけを知ると、車外に目を配った。
店内に向かう人影に混じり、ティファニー・グリーンのスカーレットが不自然に動いている。
駐車場で、屈む人間は少ない。
ヘクトルは、車を出ると、スカーレットに駆寄った。
「一体、何があったんだ?」
スカーレットは、ヘクトルを二度見すると背を伸ばした。
「分からない。私も車で目覚めたの。あなたの隣りで。」
ありそうな話にヘクトルは小さく頷き、言葉を返した。
「マテウスは?」
「分からないの。今、探し始めたところよ。」
スカーレットの答えは早い。彼女は焦っている。ヘクトルと心は同じである。
ヘクトルとスカーレットは、二手に別れて、車の下を覗いて回った。そのぐらいしか、マテウスの隠れられる場所はない。
二分で無駄を知ったヘクトルは、スカーレットに手を挙げると、一人で店内に向かった。
気を失った人間を、誰にも知られずに車に移動するのは不可能。
店員に聞くのが、一番だからである。
スカーレットも後を追い、二人は、先を行く客を押しのけ、店内へと急いだ。
そして、早足のヘクトルとスカーレットがイケスまで来た時。
二人は、ソファ席で、崩れたカリフォルニア・ロールを食べるマテウスを見た。
明らかに無事。健康体である。
目を見開いたヘクトルは、何も言わずに、マテウスに駆寄った。
「マテウス。」
周囲を気にして、小声でヘクトルが呼びかけると、マテウスは、カリフォルニア・ロールの残骸をヘクトルに差し出した。ヘクトルが止まると、マテウスは、その手を強く握り、開いた。ヘクトルは、そんなものは食べない。
親子の再会に安心したスカーレットは、自分の役目を思い出した。
店員。彼らは、絶対に怪しいのである。
スカーレットは、脇を通り過ぎようとした一人を捕まえた。
「待って。」
J国人らしく、男は会釈した。
「すぐにお伺いします。もう少しお待ちください。」
スカーレットは、男の腕に軽く手を添えた。逃がす気はない。
「教えて。さっき、あの席の親子をこの店から出したのは誰?見たでしょう?」
動きを止めた男は、訳の分からない言葉を口にした。おそらくは日本語。
黙って、耳を傾けていたスカーレットは、やがて大きな声を出した。
何があったかは分からないが、彼女はJ国に行ったことがある。
J国語が分かるのである。

店員を解放したスカーレットは、しずかにマテウスの待つテーブルに戻った。
気まずいが、子供の食事を待つのは大人の義務である。
永遠に感じたその時間が過ぎると、スカーレットは勢いよく席を立ち、マテウスを抱いたヘクトルも続いた。
目指すのはヘクトルの家。ドライブの再開である。
街灯のない何処までも続く道路の先を眺めたスカーレットは、ライトをハイ・ビームにした。
他の車はいない。暗闇の世界である。
やがて、マテウスが眠りにつき、先に沈黙に耐えられなくなったのはスカーレット。
「あいつらは、きっと金をもらったのよ。」
ヘクトルも同感であるが、苛立つスカーレットからは言葉が溢れ出す。
「大体、アジア系には見えたけど、J国人かは怪しいわ。A国の国際空港全部に高い壁をつくってあいつらを…。」
聞くに堪えないが、J国語で、余程なことを言われたのである。
やがて、喋っているのが自分だけだと気付いたスカーレットは、助手席を一瞥した。
膝の上で眠るマテウスを見つめる姿に、沈黙の理由は不要である。
微笑んだスカーレットは、静かに言葉を続けた。
「一体、何だったのかしら?ただ、眠らせて、何の得が?」
顔を上げたヘクトルは、スカーレットの顔を探った。小さな疑問が湧いたのである。
「眠っただけ?」
ハンドルを握るスカーレットは、ヘクトルを一瞥した。一瞬だが、目が合う。ターコイズ・ブルーの瞳は大きい。
「ええ。眠っただけ。」
短く答えたスカーレットは、対向車線に車を見つけるとライトを下げ、もう一度ヘクトルを見た。
「あなたには、何かあったの?」
ヘクトルはありのままを話した。隠し事をする理由はない。
「ブタと老けた動かないエミリーがいた。調べるなとだけ言ってた。」
異常すぎる答えであるが、眉間に皺を寄せたスカーレットは、言葉尻だけで会話を進めて見せた。
「エミリーが?」
ヘクトルが顔を横に振ると、スカーレットは質問を重ねた。
「どんな男?」
知る筈のないヘクトルが、また顔を横に振ると、動きでそうと知ったスカーレットは沈黙を守った。
まもなく、沈黙を破ったのはスカーレット。
「他に何か気になることはなかった?」
状況が飲み込めないスカーレットは、ヘクトルにすべてを投げたのである。
他にはココナッツの香り程度しか気にならないヘクトルは、やはり顔を横に振った。
ハンドルを握りながら、何度かヘクトルの顔を見たスカーレットは、小さく頷くと口を開いた。
「誰かに何かが伝わったのよ。きっと何か変化があるわ。」
それは、今日の成果の総括。彼女の人生は、こうして、毎日、前進していくのである。
しかし、それはスカーレットの人生。
スカーレットから逃げるために付き合ったヘクトルには、変化した先は関係ない。
そもそも、詮索などしたくない。ヘクトルにとって、迷惑でしかないのである。
スカーレットの言葉はやがて呟きになり、やがて、マテウスの寝息だけが車中の空気を揺らした。
一つだけ言うなら、ヘクトルは、スカーレットとの絶交についても、明確な会話をしなかった。
疲れていたのである。
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