第91話 転生

文字数 2,681文字

ヘクトルとスカーレットがサミュエルを訪ねてから、一年の月日が過ぎた。
クローン技術最先端研究所は既に竣工し、引越も間近。研究員自らが荷造りする様は、決して最先端には見えない。
そんな慌ただしい研究所の会議室に並んだのは、所長率いる危機管理委員会の面々。
彼らが見つめる先にいるのはスカーレット。ただ一人である。
ダウン・ライトの照明に照らされながら、口を開いたのは所長。
「ドクター・アーキン。そもそも彼の製作は必要だったのか。」

“彼”とは、ヘクトルのクローン。サミュエルが求めたものである。
サミュエルの提案は、“彼”の死を装って、所外に持ち出すこと。
それだけでも難題だが、その前に“彼”をつくらなければならない。
スカーレットが提案したのは、クローンの製造と加齢技術の最終確認実験である。
当然、サンプルはヘクトルのものだけではない。
スカーレットが選んだ実験の理由は、責任を新組織に持込まないこと。
当然、誰一人として、異論を唱える者はいない。スカーレットは、そういう存在なのである。
すべての書類が流れ、組織的に実験は進んでいく。
データの問題は皆無。ラファエルの技術は盤石なのである。
そして、クローン技術最先端研究所への引っ越しの準備が始まった、ある晴れた日。
スカーレットは、加齢促進中のセルに足を運び、確かな罪を犯した。
クローン技術を確立するためには、日常の向こう側の世界を見なければならない。
それを体現するラファエルの人生が、スカーレットを納得させたのである。
ヘクトルのクローンは、加齢が終わっても目覚めることはなく、報告書には失敗のチェックが入れられた。
すべては、スカーレットの予定通りである。

スカーレットの沈黙が長くなると、所長は質問を変えた。
「君は、問題のあった脳だけを残して、残りを臓器移植に提供してしまったね。それも分からない。」
「尊い命を救うためです。」
「あのサンプルは死刑囚のものじゃないと聞いた。」
「紛れ込んだと聞いています。」
所長は、スカーレットの説明に頷いたが、優しい目はしなかった。
「想像する限りでは、その男のオリジナルが複数の臓器移植を望み、君が金をもらって、それに応えた。それが一番現実的だ。」
「私の銀行口座を調べてもらえば、潔白を証明できます。」
「もう調べた。確かに何もない。我々の調べられる範囲ではね。」
「何を調べても同じことだと思います。」
所長は眉を上げた。やはり、喋るのは所長。
「いいだろう。君らしい。だが、君は、我々がこれだけ丁寧に対応を進める理由を分かっているのか。」
「尊い命がかかっています。当然です。」
スカーレットの理想的な答えに、所長は他の委員と顔を見合わせて笑った。
「再発防止策は読んだよ。ドクター・クレメンスの式の統計に関する部分が、完全ではないって?」
「修正が必要です。」
「その式を正確にするには、確実に失敗する領域まで実験する必要がある。」
スカーレットが頷くのを見ると、所長は不意に語気を強めた。
「ここまで一回も失敗しなかったのに、クローンを殺してまで、わざわざ失敗する領域の実験をする奴はいない。」
居並ぶ委員達は、所長の顔を覗き込んだ。声を荒げるのが事件になる程、所長は温厚なのである。
ざわめきを止めたのは、しばらくスカーレットを睨んでいた所長。
天を短く仰いだ彼の顔からは、力みが完全に抜けている。
「決めた。式の修正は不要だ。あと、新施設の所長は君だ。」
おそらくは、これが青天の霹靂というやつである。
スカーレットが眉を潜めると、所長は言葉を続けた。
「国立先端領域研究機構との間で最初に決めた約束だ。クローンの実験を一回失敗したら、所長は交代する。私はこんな年だからいいが、若い君には丁度いい罰になるだろう。最先端研究所が待っている。頑張れ。」
所長は、勢いよく席を立つと、皆に手を軽く振り、部屋を後にした。
会議は終わり。現所長の時代もである。
ついさっきまで詰問する側だった委員達は、若い新所長にゆっくりと歩み寄った。
会議室が拍手に包まれたのは、それから間もなくのこと。

その頃、ヘクトルのクローンの体は、既に臓器移植センターから盗み出され、ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングに移されていた。
すべては予定通りである。
待っているのは、ブタのラファエルの脳の移植手術。
執刀するのはサミュエルである。
脳の移植は、サミュエルにとって、二度目の経験。
前回との大きな違いは、人からブタになる時と違い、ブタから人になると、問題が分かり過ぎること。何故なら、人間は喋るから。
おそらくは、完全な成功は待っていないのである。

スカーレットを所長に迎えるクローン技術最先端研究所が開所され、クローンの軍事利用計画が秘密裏に中断されたのは、それから二か月後のこと。
スカーレットの計画が想像以上にうまく進んでいく中、ラファエルの容態は、先の見えない状態が続いていた。
ラファエルは、サミュエルが与える光と音には確実に反応する。但し、ほぼそれだけ。
表情と四肢の麻痺が避けられないのは分かっていたが、会話も無理。
痴呆の線もなくはない。
DNA診断がなければ、ラファエルと普通のブタを取違えたと結論していた筈である。
しかし、サミュエルはあきらめなかった。
何もしなければ、すべては終わってしまうのである。
バイオ・フィードバック、神経再生薬に漢方薬、神経の移植、電磁波をつかった神経の成長制御、針灸、マッサージ、温泉療法、音楽療法の組合せは、彼の好奇心を奪わない程度に多い。
分析も退屈しない。身体能力の指標、副作用と食事、睡眠時間、体調、天候、血液検査の結果は、毎日、毎時間増えていく。
一番、手間なのは、効果の時間依存性。データを重ねる間に、すべての効果が重なっていく。
真実は遠いのである。
しかし、数千次元のデータは、サミュエルに何かを期待させた。
全ての条件の総当たりは、金持ちだけに許される特権。サミュエルの一番の強みである。
金に糸目をつけないサミュエルは、やがて、ラファエルに二足歩行をさせることに成功した。
それだけではない。ラファエルには特技が出来た。
笑うのである。
ひきつるが、確かな微笑み。
サミュエルは、改めて自分の才能に感心したが、ここで立止まれるのが彼。
優秀なサミュエルは、努力の代償と自分の理想を冷静に重ねた。
当初の計画がとん挫したことは明らかである。
ラファエルが仮に会話できる様になったとしても、決して、今のサミュエルより優れた回答が得られるとは思えない。
落胆していい筈のサミュエルは、しかし、笑顔のラファエルを眺めると、目じりを下げて微笑んだ。
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