第100話 決別

文字数 3,258文字

ヘクトルは、マン先生から久しぶりに仕事を引受けた。
問題は、前に離婚訴訟を担当した先生の妹の新しいパートナー。
彼女の家を出た後も、彼女の資産を使用し続けているのである。
獣医で経済的に困ってはいないが、彼女との一切の接触を断ちながら不動産を占拠し続け、車も返さない。人が話を聞くと、別れ話自体を否定する。年齢も十歳以上若く、明らかに人間性に問題がある。それが、妹の主張。
ヘクトルが知る彼女は、気前の良すぎるコンティンジェンシー・フィーを支払う人物。
下地は十分である。

その日のヘクトルは、問題の獣医と話をするために、R州Nに来ていた。
いつも通りの最低の時間に耐え、連絡先を渡したヘクトルは、通りに早足で出た。
部屋の扉を閉めた時から大音量のジャズで気付いていたが、フロートがまさにすぐ傍を通っているのである。
ここNのパレードはA国最大級で世界有数。
今、近付いて来るフロートも高さが五メートルはある。幻想的な装飾は期待通り。
仮面に仮装。日常を捨てた何処かの誰かが、フロートの上から、通りの群衆を煽る。
揺れるクルーに絶えず声援を送る人波は、フロートの飾りの様である。
イメージ通りの祭りの一部になったヘクトルは、仮装した女性の中に思わぬ人物を見つけた。
ビクトリアである。
会いに行けば、会えない事はないが、この地で偶然出会うのは、確かな奇跡である。
ヘクトルは、両手を大きく振った。
「ビクトリア!」
興奮状態の彼女に、気付く素振りは見えない。それはそれで彼女らしい。
微笑みを浮かべたヘクトルは、人をかき分け、ゆっくりと進むフロートに近寄った。
「ビクトリア!ビクトリア!」
何度呼んでも、結果は同じ。但し、どう見ても本人。
ビクトリアは、笑いながらビーズを投げ続けている。軽快である。
どうせ、返事をしない。そう思ったヘクトルは、その瞬間、大きな魔が差した。
ヘクトルが口にしたのは、絶対に返事をしない筈の別の名前。
「エミリー!」
ヘクトルは、ビクトリアを見つめ続けたが、反応はない。
当たり前である。
しかし、ヘクトルの脳は、更に別の答えを彼に示した。
“違う名前を呼ぶこと自体は、間違ってはいない。”
「アリシア!アンジェリーナ!シャーロット!スカイラー!」
その時、彼女は、何かに気付いた様に動きを止めた。
あの日、ジョンが呼んだ女性の名前。エミリーと同じクローンの名前である。
フロートの上の彼女は、四人のうちの誰か。それは確か。
ただ、それだけである。
彼女は、ヘクトルと目を合わすことなく、また、カーニバルの興奮に戻っていった。
きっと、ジョンはこんな気持ちだったのである。
とにかく、何かつながりが欲しかっただけで、何も考えてはいなかった。
自然と足の止まったヘクトルは、軽く人に押されながら、遠ざかるフロートを眺めた。
彼女について、何も思うことはない。
頭を回るのは、頭の中にあるカーニバルのトリビアぐらい。
ぼんやりと思いを馳せたヘクトルは、間もなく、あることを思い出した。
F国クォーターはダメである。大きいフロートは入らないと言うが、あそこに入ると皆が無茶をする。その日だけは警察も手を出さない。
フロートに乗っているのだから、彼女には問題ではないのだろうが、ヘクトルには我慢できない。
似ているだけならいいが、そうではない。
彼女は、サミュエルが自分と同じクローンと結びつけようとしたクローン。
基本的にエミリー。イブなのである。
彼女が汚れるのは、絶対に嫌。
焦るヘクトルは、人をかき分けながら、早足でフロートを追った。観客を楽しませるフロートは、十分に遅い。
ヘクトルがフロートに追いつくのに二十秒。イブは、まさにヘクトルの頭上にいる。
ヘクトルは、ただ視線を送り続けた。他に出来ることはないのである。
間もなく、イブは、目の合ったヘクトルにフェイクのココナッツを投げてきた。
特にヘクトルだからではない。それが、カーニバルである。
キャッチしそこねたヘクトルは、イブを見つめて、声を上げた。
「アリシア!アンジェリーナ!シャーロット!スカイラー!」
それは、ヘクトルが限界を超えた瞬間。
イブは、ヘクトルが自分の名前を呼んだ事に気付いた。しかも、二度目。
何人かの名前を呼んでいることにも気付いたイブは周囲を見渡し、反応しているのが自分だけだと気付くと、ヘクトルに向かって微笑んだ。
ヘクトルは、取敢えず笑顔を返し、そのままフロートを追い続けた。出来るのは、そこまでである。
ヘクトルがイブを見つめる時間が長くなると、やがて、彼女は立つ場所を変えた。尤もである。
F国クォーターに入ってほしくない。ヘクトルの思いはそれだけだった。

とうとう、ヘクトルはパレードの終点まで歩ききった。
ヘクトルにとって、何よりの幸運は、フロートがF国クォーターに入らなかったこと。
彼の心配は、杞憂に終わったのである。
何をするでもなく、次から次に到着するフロートを眺めていたヘクトルは、不意に背後から声を掛けられた。
「ハイ。」
振返った先にいたのはイブ。体格のいい男二人と一緒である。彼女の声は、エミリーと同じである。
「やあ。」
ヘクトルが微笑むと、男達は首を傾けた。確かな壁である。口を開いたのはイブ。
「何か用?」
用などないが、それを言うのも怪しい。男達の表情を伺ったヘクトルは、まずは笑顔を返した。
「いや、知った子かと。多分、人違いだ。」
しかし、ヘクトルがついて歩いた距離はあまりに長い。
イブの表情が曇ると、ヘクトルは発想を切り替えた。
どうせ駄目なら、試してみればいい。イブに共通する事実を口にすれば、何かが変わるかもしれない。
「ひょっとしたらだけど、君は孤児じゃないか。」
口に出すと予想外に重い言葉である。
イブが眉を潜めると、一人の男が一歩前に出た。明らかに、アプローチを間違えたのである。
喋るのはヘクトル。
「君とは初めてだ。僕はヘクトル。名前は?」
「レヴィだ。」
「よろしく、レヴィ。君の名前は何だったっけ?」
ヘクトルが話しかけたのはイブ。流れで名前を聞いてみたのである。
レヴィの顔が歪むと、もう一人の男も、足を前に進めた。
ヘクトルは、笑顔で両手を挙げ、ゆっくりと後ずさりした。
「済まない。いや、やめる。やめる。本当に関係ないんだ。君もそう思っただろうけど。」
ヘクトルの謎の言い訳に、三人は顔を見合わせた。
ヘクトルは、挙げていた両手の人差し指と中指をクロスさせた。
「幸運を。」
ヘクトルは、三人から早足で離れた。とにかく、逃げるしかないのである。
百メートル程離れたヘクトルが振返ると、彼らはまだこちらを見ていた。
何かを話しているかもしれない。
ヘクトルは、両手を口にあて、大きい声で叫んだ。
「F国クォーターに近付くな!!」
来年のことが、気になったのである。
レヴィが足を進めると、ヘクトルはやはり早足で逃げた。

人混みを縫うように進みながら、ヘクトルは考えた。
サミュエルは、何人のクローンをつくったか、結局言わなかった。
ただ、偶然に会う程度はいる。
あるいは、今日の出会いはサミュエルの仕組んだ事かもしれない。
ラファエルの回復に失敗した彼ならやりそうだが、それは間違っている。
情が移るとしても、彼女は、絶対にエミリーではない。
彼女の世界に、ヘクトルの気持ちを持ち込んではいけない。
ヘクトルが、別のイブと一緒になることなど、絶対にないのである。

やがて、ヘクトルは早足を止め、土産物屋の並ぶマーケットに入った。
何処を見ても、カーニバル一色である。
ヘクトルが買ったのは、事務所のための御菓子に自分のためのチコリ・コーヒー。
そして、マテウスのためのワニのフィギュア。
レジで百ドル札を払うのは、最近のヘクトルの習慣。
ヘクトルは、戻ってきた二十ドル札を観察した。
普通に何も書いていない紙幣に驚きはない。
ヘクトルは、パレードが集めた人の群れに目をやった。
メッセージ入りの紙幣が自分のところに回ってきても無駄である。
自分以外の誰かの元に回り続けるのが正解。
すべては上手くいっている。
ヘクトルは、自分にそう言い聞かせながら歩き出した。
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