第113話 永遠

文字数 5,523文字

事件のほとぼりが冷めた頃、ヘクトルは、エマを連れて、サミュエルの元を訪ねた。
提案したのはエマである。
サミュエルの周りでは、きっと何かが起きている。マテウスを治したければ、無理にでも会いに行くべき。それが彼女の意見。
結果、ヘクトルは、とっくの昔にスカーレットが終えたお礼参りのために、ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングを訪ねることにしたのである。

サミュエルは、ヘクトルの頼みを決して断らない。
受付で指定された場所は、前と同じ中庭のベンチ。おそらく、サミュエルのお気に入りの場所である。
この地を初めて訪れたエマは、目にするすべての感想を口にした。
笑顔の絶える間のなかったヘクトルは、間もなく、中庭に続く渡り廊下の先、植栽の合間に、自分の姿を見つけた。
ラファエルである。
何処を見ているのか分からないが、とにかく車椅子に座っている。
エマの歩幅が大きくなったのは、それが彼女にとって事件だから。
エマの背を追うヘクトルは、ラファエルについての説明を急いだ。

ラファエルの車椅子を囲み、先に口を開いたのはヘクトル。
「久しぶり。」
ヘクトルは、うっすらと笑みを浮かべるラファエルの右手を軽く握った。
笑顔はラファエルの特技。前回の訪問では過剰な期待を持たされたが、ここまでだった。
しかし、今日の彼は違う。
ラファエルは、ヘクトルに握られた手を軽く揺らした。
「ヘイ!ヘイ!ヘイ!ヘイ!」
ヘクトルは、目を大きく見開いた。
「凄いじゃないか。凄いじゃないか。オー、マイ…。」
ヘクトルの喜び方は、今が奇跡であることをエマに教えた。口を開いたのは彼女。
「初めまして、エマ・ハリスよ。」
エマは手を差し出したが、ラファエルの手はヘクトルの手の中で揺れるだけ。
ヘクトルは、ラファエルの手をエマに預けた。
確かに、これが今のラファエルの限界かもしれない。
「あなたの事は聞いてたわ。疑ってたけど、本当にあなたなのね。」
エマは、軟らかい右手を両手で握り締め、ラファエルの瞳を覗き込んだ。
ヨシュアと同じセルリアン・ブルーの瞳。瞳孔は開いているかもしれない。
一瞬、心の曇ったエマは、しかし、すぐに満面の笑みを浮かべた。
ラファエルの先の長い戦いを思うと、同情するのは違うと思ったのである。
エマは、ラファエルの手を静かに振った。
ただ、温かい気持ちが伝えたい。そのぐらい。
二人が手を握りあった時間は、ヘクトルがエマの顔を二度見るぐらいの間。
エマがその手を放したのは、ヘクトルの視線が気になったからではない。
ラファエルが、空いていた左手を、ゆっくりと挙げ始めたからである。
ヘクトルとエマが笑顔で見つめる中、ラファエルは、左手をエマの胸元まで挙げた。
拳は軽く握られている。
口を開いたのはヘクトル。
「何か、握ってる?」
確かに何かがのぞいている。
エマは、ラファエルに笑顔で断ると、左手をゆっくりと開いた。
二人が見たのは、四葉のクローバー。
少し水分を失ったコバルト・グリーンの小さな葉っぱ。
幸運が訪れるという、皆が知る小さな小さな葉っぱである。
ラファエルから二人へのプレゼント。それで間違いない。
「ありがとう。」
礼を口にしたエマがハグをすると、ヘクトルも口を開いた。
「ありがとう。」
何をどう言おうが、ラファエルの顔は微笑んだまま。彼の本当の気持ちは、誰にも分からないのである。
ヘクトルとエマは、何度も振り返りながら、サミュエルの待つベンチを目指した。

二人の視界に入ったベンチに座っていたのはサミュエル。そして、隣りには車椅子のクイーン。芝生を歩く小鳥に見入るサミュエルは、動かないクイーンの視線を受けている。
サミュエルが気付いているかは分からないが、傍目には、彼らだけの時間が流れている。
何日でも続きそうな静寂を破ったのはエマ。
「ハイ。」
顔を上げたサミュエルは、優しい笑顔を見せた。おそらくは二人を歓迎している。
口を開いたのはヘクトル。
「久しぶり。」
「ああ。まあ、座るといい。」
頷いたサミュエルは、空いたベンチを指さし、かたちだけ、四人は向かい合った。
サミュエルは、笑顔をつくり直した。
「見たよ。テレビ。議論を求めるのはよく分からんがね。実に凄そうだった。」
ヘクトルとエマが笑うと、サミュエルは言葉を続けた。
「エマに頼んだのは正解だった。さすがだ。」
エマを褒めている様で、彼が褒めているのは自分。
エマが微妙なニュアンスに眉を潜めると、ヘクトルは小さく笑った。
口を開いたのはヘクトル。
「今は何を?」
ヘクトルには、サミュエルに歩み寄る気持ちがあるということ。
すべては、マテウスのためである。
首を傾げたサミュエルは、人差し指を一瞬だけ立てると、説明を始めた。
「まあ、簡単に言うと、寸法の変化のアルゴリズムをつくってるんだ。少なくとも、空間が幾つかあれば、重力の相互作用がキーだ。いくらハイ・スペックの高速度カメラで撮影しても、正確でないことだけは確かだが、ただ、何もしないと進歩がない。まずは測定して基本則をつくり、実測とずれる部分を補間して、モデルをブラッシュ・アップするんだ。」
半分笑ったエマが当たり前のことを聞いた。
「解決できそう?」
「いや。」
サミュエルが即答すると、ヘクトルとエマは素直に笑った。
口を開いたのは、何度か頷いたヘクトル。
「ラファエルと会ったよ。」
サミュエルの答えは早い。
「そうか。どうだった。」
「凄いよ。治ってるじゃないか。」
「あれで?」
「いや、治り始めてる。」
「それは最初からだ。」
「面倒だな。褒めてるんだ。喜べよ。」
口を挟んだのはエマ。
「四葉のクローバーをもらったわ。」
エマは、満面の笑みで、シロツメクサを見せた。
サミュエルが眉間に皺を寄せて動きを止めると、ヘクトルの目は輝いた。
それは、サミュエルの知らないことが起きているということ。
ラファエルが自分で採ったのなら、彼の回復は想像以上である。
不意に目の前にぶら下がった奇跡に、ヘクトルは我慢ができなくなった。
「マテウスのことだけど。」
ラファエルのことで頭が一杯に見えるサミュエルは、ぼんやりとヘクトルの顔を眺めた。
口を開いたのは、満面の笑みを浮かべたヘクトル。
「その後、どうだい?何か、いい方法は見つかったかい?ラファエルにした治療で、何か効果は?」
呆けていたサミュエルは、不意に真剣な表情を浮かべた。口を開いたのは、厳しい目でヘクトルとエマを見据えた後。
「あの子は、クローンと取換えた。」

…。

言葉の意味が分からないヘクトルとエマは、ただサミュエルを見つめた。
三人の時間が動き出したのは、ヘクトルの顔から笑顔が消えた時。
エマは、直後にヘクトルが腰を上げると、彼の腕を掴んだ。
ヘクトルは、サミュエルにつかみ掛かろうとしたのである。
エマを引き離そうとするヘクトルを見ると、サミュエルは静かに呟いた。
「冗談だ。」

…。

「冗談でも、言っていいことと…」
そんな事は言わなくても分かっている筈である。
余りに情けなくなったヘクトルは、言葉を失うと涙をこぼした。
ヘクトルを抑えることに夢中だったエマも、この涙は我慢できない。無理である。
心が共鳴したエマの目から涙が溢れ出したのは一秒後。
「あ◎★わ×☆◇!」
張り上げたエマの声は、言葉にならなかった。興奮で呂律が回らなかったのである。
気を取り直したエマは、とにかく思いつく限りの悪態をついた。
動かないクイーンが見ていても関係ない。
やがて、目元を押さえていたヘクトルが口を開いた。
「いいよ、行こう。ここに来たのが間違いだ。」
「でも、…。」
躊躇うエマに、ヘクトルは言葉を被せた。
「いいよ。もう、いい。」
エマは、黙ったままのサミュエルの顔を睨んだ。
よく見れば、どことなく、ヘクトルと似ている。ヨシュアともである。
なぜなら、遺伝子だけなら親子だから。
冗談でも、こんな事は言えない筈なのである。
ただ、ヘクトルもエマも知らない。
サミュエルが、ラファエルの予想外の回復に恐怖したことを。
それが、サミュエルの管理下にあれば別である。
しかし、ブタとして過ごし、全身麻痺を経たマッド・サイエンティストが、人知れず回復したことをサミュエルに隠しているとすれば、理由は何か。
この短い時間だけで疲れ果てたサミュエルは、少しでもヘクトルを自分から遠ざけたくなった。
彼流のお別れを言ったのである。

ヘクトルとエマは、その足でマテウスの病院を訪ねた。
必要以上に傷つけられたヘクトルを放っておけないエマが、強く望んだのである。
無言の車の旅は長かったが、二人の興奮を静めるには足りないぐらい。
ヘクトルは、車を降りると、それでもルーティンに入った。
エントランスに向かって歩きながら、南端のマテウスの部屋を見つめ、奇跡を祈るのである。
エマに背中に手を添えられた今日のヘクトルは、何度も顔を歪めた。

昨日も来た病室だが、サミュエルの言葉は冗談としても重すぎる。
ヘクトルの手が止まると、優しく微笑んだエマは、代わりに引き戸を開けた。
目に付いたのは、ホワイトのカーテン。いつも通りである。
細かく瞬きをしたヘクトルは、それでも足を進めると、カーテンに手をかけた。
「オウ。オウ。オウ。」
軽く呻いたヘクトルが後ずさりすると、エマはカーテンを大きく開けた。
いつもなら、静かに眠るマテウスがいる筈のベッドを見ると、エマは大きく目を見開いた。
口を開いたのはエマ。
「ハイ。」
それしか、言葉が浮かばなかったのである。
二人の目の前にいたのはマテウス。いつも通り、そこにいる彼。
だが、しかし、今この瞬間のマテウスは違う。
決して、動かない筈のマテウスは、体を起こし、こちらを見ているのである。
「ハイ。」
エマを真似たのか、小さく声を出したマテウスは布団を払った。動きは悪くない。
慌てたヘクトルは、思わず、マテウスを抱きとめた。ベッドから降りようとした様に見えたのである。
目を見開いたままのヘクトルは、マテウスの顔を触った。
可愛いおでこ。軟らかい頬。小さな鼻。耳も髪も。すべてがマテウスである。
エマも、ヘクトルに好きにされるマテウスの手を、少しだけ触った。
本当にいるのか確かめてみた。そうせずには、いられなかったのである。
夢ではない。目の覚めたマテウスが、そこにいる。
エマが静かに笑い始めると、その微笑みは、ゆっくりとヘクトルに移った。
それは共鳴。
二人は、間もなく、笑いながら涙を流した。
笑いたいと思った訳でも、泣きたいと思った訳でもない。
とにかく、抑えがたい感情の波に襲われたのである。

二人は、泣きながら笑い、何も言わずにマテウスを交互に抱きしめた。
なんて、幸せな日。なんて、素敵な日。
ヘクトルは、無意識に、何度も同じ事を呟いていた。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」
マテウスが黙っている理由は分からない。
思う存分、泣き、笑った二人は、静かなマテウスを見て、もう一度、微笑んだ。
しかし、ヘクトルの笑顔が曇ったのは五秒後。
サミュエルのあの言葉が、今更の様にヘクトルの脳裏を過ったのである。
“あの子は、クローンと取換えた。”
思えば、サミュエルがマテウスのクローンとの交換を口にしたのは、今日が初めてではない。
準備する時間は十分にあった。
最高峰の医療を続けて、状態が変わらなかったマテウスが、こうも簡単に治る理由も分からない。
ヘクトルは、マテウスをもう一度抱きしめると、ゆっくりと体を触った。
肩に腕、掌、足首に脹脛、太腿。
毎日のマッサージで、手に染みついた触感に頼るのである。
寝たきりの子供の状態をクローンで再現するのは不可能。出来たとしても、一緒に生活を始めれば、異常さを隠しきれる筈がない。
ヘクトルは、小さすぎる触感を、何度も何度も確かめた。
エマがただ静かに見守ったのは、ヘクトルが何を考えているのか知るのが怖かったから。
しばらくすると、ヘクトルは何度も頷いた。
触った限りでは、いつものマテウスと全く同じ。マテウスである。
ヘクトルの顔がそれを教えると、エマは何度も大きく頷いた。
エマと笑顔で見つめ合ったヘクトルは、ラファエルにもらった四葉のクローバーを思い出した。

ヘクトルとエマがマテウスを自由にしたのは、それから間もなく。
マテウスは、枕元にあったブレインに手を伸ばした。
「遊ぼう。」
振返った彼は、ヘクトルとエマに笑顔を見せた。
ヘクトルとエマは、満面の笑みを浮かべた。もう、こぼれる程の涙は残っていない。
ヘクトルとエマは、これまでに何人ものクローンと会ってきた。
見た目は同じでも、皆の性格はまったく違うものだった。
同じ環境で育ったパープル達でさえ、完全な別人。
しかし、ブレインを強く求める彼。
その口調、表情の全てがマテウス。
彼は彼である。

マテウスがゲームの準備を終えると、エマは笑顔でマテウスを指さした。
「寝ぼけた頭で私に勝てると思ったら、大間違いよ。」
マテウスの答えは早い。
「OK。叩き潰してやる。」
マテウスの不敵な笑みを見ると、ヘクトルとエマは、笑いが止まらなくなった。
ゲームを進めながら、ヘクトルは少しだけ不安に駆られた。
本当に、マテウスの手足はあんなだったろうか。
絶対の自信はあるが、もしも、クローンと入れ替わっていたらと思うと、不安が消えないのである。
しかし、複雑を帯びたヘクトルの微笑みは、次第に満面の笑みに変わった。
マテウスの笑い声が、彼の不安を和らげたのである。
どんなに、笑い方や話し方を似せても、こうも心が響き合うのは、目の前にいるのがマテウスだから。
親と子の絆は絶対。
親であるヘクトルの気持ちが全てである。
ヘクトルは本当にうれしかった。
マテウスは可愛い。本当に可愛い。
そして、エマも優しくて、素敵だと思った。
ヘクトルは、この時間が、永遠に続いてほしいと思った。
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