第107話 伝説

文字数 3,180文字

ヘクトルは、番組に出演する条件を、ゾーイに二つだけ示した。
一つは、議論への賛否の公開投票。
残る一つは、ヘクトルの考える限り、投票の結果を決定づける確かな武器。
一本の動画である。

「何?まだ、動画があるの?」
ゾーイに聞かれると、ヘクトルは小さく笑った。
「ああ。でも、そっちは後にしたい。少し刺激が強いんだ。ネットで流した動画を見た後じゃないと、無理かな。」
「問題は順番じゃないわ。誰がいつ見るか分からないのよ。」
「それは分かってる。まあ、多分、大丈夫だよ。」
「大丈夫かどうかは私が決めるわ。何なの?」
「前半は、ネットで流したクローンの工場の動画だよ。ただ、少し、ぼかしが弱い。」
「何してんのよ。」
「大丈夫。一応、チェックはしたんだ。」
「それで後半は?」
「後半は…。君は、クローン技術最先端研究所から、一回、クローンが脱走した事件を知ってるかな。」
「眠たいわね。あれよ。血だらけで逃げた奴。」
「そう。大丈夫かな。」
「血はちょっと無理かも。」
「建物から出るまでの映像だよ。知ってる?」
「あるのはね。でも、一回、ボスに止められたことがあるから、工場の映像より、そっちの方が問題ね。」
「じゃあ、どうする。」
短い空白がゾーイのシンキング・タイムを教えると、ヘクトルは言葉を続けた。
「最後に、そのクローンが喋る映像もつけた。ただ怖がらせるだけじゃない。クローンがどういう存在か、皆に分かってもらえる動画だ。」
喋るのはゾーイ。
「OK。分かった。もう愛国で引っ掛かる事はないだろうから、出来ないことはないわ。動画を送って。」
ヘクトルは微笑んだ。昔、世話になったゾーイは、やはり頼れる。
彼女は、スカーレットから聞いていた通りの人物なのである。

ヘクトルが教えたURLにアクセスしたゾーイは、動画を睨むと、顔を横に振った。
刺激の塊なのである。
しかし、すべてを多角的に考える彼女は、すぐに自分の直観を否定した。
見るのも耐えられない様なことを、許していい筈がない。絶対である。
問題は、この動画を流す方法。
ブルーの集団を何度か見送ったゾーイは、間もなく結論を出した。
ボスへの報告は、一本目の動画だけにすればいい。
ローガンには、サプライズだとでも言って、紹介だけ頼めばいい。あの男は決して断らない。
調整室の連中は何とでもなる。
すべてはゾーイの責任になるが、彼女が考える限り、ジャーナリストとしては間違っていない。
この動画は、“ガブリエル”が投じた大金に見合う価値を持っているのである。

スカーレットの長い演説が終わると、次はライト教授のエンジンがかかった。
おそらく、専門家の本能で喋り始めた彼は、サイバー戦争に関する講義を延々と続けた。
苦笑するローガンが話しかけた先はヘクトル。
勿論、ゾーイの指示が出たのである。
「ガブリエル。君は、テレビ局に動画を送ったかい?」
「ああ。送った。それを見て、皆に判断してほしい。何が起きてるのか、その目で見て、判断してほしい。」
ローガンは、カメラに向かって、頼りがいのある笑顔を見せた。
その向こうで、ヘクトルとエマが微笑んでいることを、彼は知らない。
「私は、今まで、テレビの前の皆さんと一緒に、議論を聞いてきました。ガブリエルの求めているのは、法廷での議論ですが、きっと、この議論に答えを出すのは難しいでしょう。すべての立場に弱者がいるからです。誰の気持ちになるかで、答えが変わってしまう。私達人間は、何かを伝える前にまず考え、自分の言葉に置き換えて発します。それは、人間が優しくいられる仕組みかもしれませんが、今回の問題では、決していい方向に働いていません。事実を曲げています。皆さんが今見ているのはテレビです。ありのままを、その目で見る事が出来ます。そして、私達は、ガブリエルから真実を知ることの出来る動画を受け取っているのです。それではご覧ください。ケレブルムだけに出来ることが、こちらです。」
笑顔のゾーイが流したのは九十秒の動画。
ゴールドの液体に浮かぶ影は、人間のどこかであることが分かるぐらい。
ほぼ一人の人間のシルエットを持つマザーが何かと縫合されていく映像は、ローガンに席を立たせた。
それでも、調整室のスタッフが映像を止めなかったのは、他ならぬローガンの言葉のせいである。
間もなく、流れたのは、走り方を知らないローデヴェイクの暴走。
皆に逃げられ、壁にぶつかり、叫ぶ彼。
一番怯えているのは、ローデヴェイク自身である。
この男が銃を持って戦争に行くなど、ありえないし、あってはならない。

調整室の電話が鳴ったのはこの瞬間。
かけてきたのは、ゾーイのボスである。

続けて、画面に映ったのは、スーツを着こなしたローデヴェイク。
落ち着き払った彼の表情には、知性と威厳が漂う。オリジナルの彼とほぼ同じ。王者の素質は確かである。
ローデヴェイクは、微笑みを浮かべて、口を開いた。
「こんにちは。僕は元気です。皆、優しいです。僕は、皆が大好きです。」
それは、スカーレットが会話の練習の報告書に添付した動画。
言葉の意味を教えると、ローデヴェイクは照れ笑いを浮かべた。
この男から、脳を奪っていいと考えられる人間はいない。
少なくとも、テレビの前のヘクトルとエマはそう思った。

すべてが分かり易く変わったのは、次の瞬間だった。
ゾーイのボスが調整室に乗り込むと、スタッフ達の勇気の時間は終わった。
スタジオでも、ローガンの指示で取り巻きが動く。軽く締め出されたのはゾーイ。

放送事故の画面がA国中に流れたのは一分ぐらいである。
放送が再開されると、クローンのテロップは消え、スカーレットとライト教授の姿は消えていた。
口を開いたのは、誠実そうな表情を選んだローガン。
「先ほど、機材のトラブルにより、不適切な映像が流れました。大変申し訳ありませんでした。現在、スタッフが全力で復旧に努めていますが、この時間内に先ほどの内容を再開するのは難しい状況です。突然ですが、番組の予定を変更し、ミアから明るい話題を提供したいと思います。なお、冒頭でお願いした投票につきましても、機材に問題があった可能性があります。合わせて、中止させて頂きます。貴重な時間を割いて、投票して頂いた皆さんには、深くお詫び致します。」

ヘクトルは、放送事故の画面の間に、スマートフォンを切っていた。
電話の向こうでゾーイの浴びせられる言葉が、聞くに堪えなかったのである。
口を開いたのはエマ。
「私達はやったわ。成功した。」
ヘクトルは、優しいエマに微笑んだ。
「もう次はないけど、これ以上はなかったと思う。ここから先は、皆が決めることだよ。」
ヘクトルの願いは、あくまでもマテウスの回復。先の見えない戦いである。
煮え切らない空気に、エマは右手をヘクトルに差し出した。
普通に考えれば、成功の握手である。
ヘクトルが手を出すと、エマはヘクトルを引き寄せ、肩を軽く叩いた。
「いい?もう、成功したのよ。次はマテウスの番。」
ヘクトルが首を傾げると、エマは笑顔で追いかけた。
「頑張るのはあなた。ここから先はあなたよ。」
エマがどんな幸運を持ち合わせていようと、ヘクトルの知る現実は厳しい。
決して心に響かない言葉に、ヘクトルは微笑みで答えた。それがすべてである。
お互いの優しさだけは理解した二人は、静かにテレビに目をやった。
笑顔のミアが伝えるのは、本当に明るいニュース。スタジオの笑いは絶えない。
国中の皆が悪夢を見ない様に、スタジオの必死のから騒ぎは続くのである。

次の日の朝。
ケレブルムが報じなかった投票の結果が、ネット・ニュースに流れた。
投票者の数は七千三百万人。議論に賛成する者は投票者の九割超え。
スーパー・ボウル級である。
間もなく、ケレブルムの奇跡は、法廷より先に議会で取上げられ、永遠に続きそうな論戦が始まった。
我らがA国の議会は、民主主義だったのである。
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