第12話 出会

文字数 2,404文字

ヘクトルは、遠い記憶を辿り、言葉を選びながら、エミリーとの出会いについて、話し始めた。

大学生の頃である。
ヘクトルは、その日もサークルの飲み会で泥酔し、研究室に戻った後も、皆で酒を飲み続けた。ウィスキーのボトルが一本もあれば、何時までも時間を過ごすことが出来たのは、ものを知らなかったからに違いない。
一人また一人と眠りにつき、夜の学校に完全な静寂が訪れると、ヘクトルの記憶も途切れ、内臓の破壊工作は小休止した。
どのぐらいの時間が過ぎたか分からないが、やがて、瞼を開いたヘクトルは、世界が明るいことに気付いた。電灯の光ではない。頭上は青空。外である。
当然の様に記憶はない。酒の臭いから逃げたのか、建物の外に出ていたのである。
エントランスの階段の上にだらしなく座り、背中は湿気た煉瓦造の壁に預けている。
座ったまま、寝ていたということ。胸が重いだけではなく、体も痛い。最悪である。
まだ、人影はないので、かなり早い時間。せめてもの救いである。
ぼやけた頭で、目に入る光の変化を無意識に追っていたヘクトルは、やがて、研究室の前の庭園に目を留めた。
一人の女性が、バラを植えているのである。まだ、花は咲いていないが、棘は分かり易い。
何もすることのないヘクトルは、棘だらけの庭を見つめ、作業を進める女性の姿をぼんやりと視界に入れた。
二人の距離は、不審なヘクトルの存在に女性が気付かないぐらいの距離。
寝ている間に見られたかもしれないし、何なら、起こしてくれたのは彼女かもしれないが、そんなことは分からない。
酒が残っていたのか、ヘクトルは心の声を口にした。喉に抵抗がなかったのは確か。
「そのバラの名前は何?」
振返った女性は、特に嫌がるわけでもなく、答えを口にした。
「ニコロ・パガニーニです。」
しゃがんで作業をしていた女性は、体重をかける足を変えた。ヘクトルの次の言葉を待っている様にも見える。口を開いたのはヘクトル。
「パガニーニの左手が、バイオリンの練習のやり過ぎで右手より大きかったって知ってる?」
どちらでもいいトリビアに、女性は顔を横に振って、小さく笑った。
「バラが好きなんですか?」
彼女に話す理由があるとすれば、花のことだけかもしれない。半分、酔っているヘクトルは、適当に言葉を続けた。
「花全般。いくら見てても怒らないからね。きれいなものを見て、悪い気はしない。」
花と女性を重ねている様な妙な不潔感。口にしてから、困ったヘクトルは、目を瞑って、壁に身を任せた。ヘクトルのアイデンティティは、酔っ払いの学生。若さの特権に逃げたのである。
解放された女性は、手元に視線を戻すと、土を盛り、水を撒いた。
水を吸った土が沈むまで二秒。
土を寄せ上げると、堆肥を撒き、支柱を立てる。
十分ほどの間の出来事だったが、ヘクトルはその姿をじっと見ていた。単純に珍しかったのである。
作業を終えた女性は、思い出した様にヘクトルの方を見た。視線が合うのが人間である。
女性は、短い言葉を交わしたヘクトルに会釈をすると、すぐに庭園をあとにした。
おそらくは、次の庭園で同じ事を繰返す。花屋の仕事は、地道なのである。

ヘクトルは、その後も何度か、バラの世話をする女性を見た。
知らないバラを見れば、名前を聞いた。ヘクトルの中で、彼女はバラの名前を聞いていい女性になったのである。
ただ、女性の名前を聞くことはなかった。それ程の関係ではないのである。

ヘクトルが、友人の紹介で、何の準備もなく、他の女性と交際し、あえなく破局した頃、卒業のシーズンがやって来た。
完全に自由な時間は、社会からドロップ・アウトするまで、もう味わえない。
サークルの仲間十四人が選んだ卒業旅行はオーロラ観光。
誰が言い出したかは記憶にないが、時間がものを言うイベントに、堪らなく惹かれたのである。
金のない若者達は、旅の計画だけで酒を飲み、結果、オフ・シーズンを過ぎたばかりの八月末に七日間の旅行を計画した。オーロラの見れるロッジに泊まれるのは三日間。ギャンブルである。
本当の挫折を知らない若者達は、勢いのまま、旅行に出かけ、最初の二日間、何もない空を眺めた。それは、残るチャンスが一日だけと言うこと。
卒業旅行が失敗に終わるかもしれないことに気付いたのはその時。何人かが、暗い空気に気付いたのである。基本、何をしても楽しい筈だが、多分、金が惜しくなったせいである。
その日、遅めの朝食を終えたヘクトルは、女性客の一団がチェック・インしているのを目にした。仲間の何人かは色めき立っていたが、懲りているヘクトルにその気はない。その気があっても、どうもならないが、ヘクトルは笑顔のまま、部屋に戻った。目的は、あくまでオーロラなのである。
そして夜。ロッジに移動してしばらくすると、屋外のガイドが声を上げた。
呼ばれたのは、ヘクトルだけではない。何組もの観光客。
ざわめく一団は、テラスに急ぐと、星の光が残る夜空に目を凝らした。
かすかにグリーン・ホワイトの自然のカーテンが空を覆い始めている。
にわかに人で溢れたテラスは、まだ薄いオーロラに改めてざわめいた。
ターコイズ・ブルーがかった透明のカーテン。
徐々に広がる帯は、不意に濃い色を見せた。
「ブレイク・アップ。」
満面の笑みのガイドが声を上げると、皆は一斉に写真を撮った。
誰もがその美しさに声を上げる中、ヘクトルは聞き覚えのある声に気付いた。しばらく前からそんな気はしていたが、大きな声で確信したのである。
ヘクトルは、知っている顔を見つけた。
庭園の女性である。
それは、きっと奇跡である。
何を話したかは覚えていないが、ヘクトルは女性に近寄り、弱く透き通るオーロラを一緒に眺めた。
その女性に名前を尋ねたのは、その時。彼女が、バラの名前だけを聞く存在ではなくなった時。
それが、エミリーとの出会いである。

思い出す様に喋り続けたヘクトルは、アーサー夫婦の前で、いつの間にか泣いていた。
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