第23話 再会

文字数 3,426文字

ヘクトルに出来ること。それは彼だけの記憶を辿ることに他ならない。
出来るのは、パトリシアと会うことだけである。
頼みの綱はジェフリー。彼に間を取り持ってもらうのである。
人の縁は、なかなか切れない。そういうものである。
ジェフリーの会社に電話番号入りの手紙を送ったヘクトルは、次の日の夕食時に電話を受け取った。元スター・プレイヤーは、何も気にしないのである。
「近付くなと言った筈だぞ。」
ジェフリーの変わらない答えに笑ったヘクトルは、パスタと戦うマテウスを眺めた。手ごわそうである。
但し、ヘクトルは弁護士で、電話の向こうならジェフリーの身長も怖くない。
エミリーの死の顛末は、無敵のコンテンツである。
ヘクトルは、フル・コースでジェフリーの攻略にかかり、二十分後に陥落に成功した。

待合せ場所は、C州K市の公園。
晴天のその日、ハンドルを握ったのはヘクトル、助手席にはアーサー。当然、サングラスは忘れない。ビクトリアは、後部座席でマテウスのお守である。
長いドライブだが、ヘクトルの醸し出す張り詰めた空気に耐えられなくなったのか、アーサーが口を開いた。
「教えてくれ。パトリシアはどんな娘なんだ。」
ヘクトルは、眉を潜めた。
「どういうって。別れた後に聞くかな。」
アーサーは、小さく笑うと言葉を変えた。
「じゃあ、見た目だけでいい。」
「やだよ。」
「顔だけ。」
「やだよ。」
「体だけ。」
「もっと、嫌だ。〇〇〇〇。」
ヘクトルが頑なに断ると、アーサーは窓の外を見ながら呟いた。
「これだけ、揉めるんだ。きっと、絶世の美女だ。」
古い表現だが、悪い気はしない。アーサーの言葉は続く。
「きっと、目は大きい。野球ボールぐらい。」
「ないよ。」
「ないな。鼻も高いんだろうな。鼻の穴なんて、野球ボールが入るぐらい。」
「ないよ。」
「口も…。」
「よせよ。野球ボールは入らない。知らないけど。」
「続きがあるのに…。」
「絶対によせ。」
あまりのしつこさに、ヘクトルが笑うとビクトリアも笑い、車内に和やかな空気が流れた。
それが、アーサーである。

公園に着くと、アーサーとビクトリアは、マテウスを挟んで手を握り、遊具を目指した。
パトリシアとの約束の場所、芝生の脇のベンチに向かったのは、ヘクトル一人。
それが、ジェフリーから聞いた、彼女の出した条件である。
ヘクトルは、約束のベンチに、パトリシアの姿を見つけた。聞いていた通りの服装である。
遠目で見る限り、顔立ちも体格も変わりはないが、スノー・ホワイトの肌が、昼過ぎの陽光を照り返している。学生の頃は日焼けしていたので、ほぼ別人である。
ヘクトルは、スプリンクラーの水がきらめく芝生を横切り、ベンチに向かった。
近付くにつれて大きくなる彼女の眼は、慈愛に満ちている。ジェフリーが、事前に言い聞かせてくれたに違いない。
喧嘩がないことが分かっても、それはそれで何から話していいか、分からないものである。
ヘクトルがベンチに腰を下ろした途端、口を開いたのはパトリシア。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
「いや、そういう…。」
「ごめんなさい。私が…。」
暫く謝られたヘクトルは、光る芝生を眺めた。アーサー達を探したのである。
「そんなに謝らないでいいよ。僕は君に嫌なことを聞きに来たんだ。」
パトリシアの答えを待つことなく、ヘクトルは言葉を続けた。
「彼を見て。」
ヘクトルは、遠くでマテウスと遊ぶアーサーを指差した。
「僕と同じ顔をしてるだろ。」
パトリシアは、横切る子供を避けながら、アーサーを探した。
頭の動きが止まったので、目に入ったのは確か。それなりのインパクトを受けた筈である。
喋るのはヘクトル。
「同じ顔をしてる人がいるから、すり替わってたとかそういう話じゃないんだ。その横の女性。彼女は、死んだ僕の妻のエミリーと同じ顔をしてる。エミリーが死んだのは、ジェフリーから聞いたろう?」
パトリシアは、知らない人に似る顔を、目を凝らして見つめた。
振られた後に気付いたが、これがパトリシア。彼女の頭が整理できるまで、時間が必要な筈である。
ヘクトルは、遊具で遊ぶアーサー夫婦とマテウスを、そのまま見つめた。
妙な感覚である。
何故なら、少し前のピウス家が揃っているから。
スプリンクラーの水がマテウスを直撃し、跳ねた水が光を散らす。
アーサーが顔を崩して笑い、ビクトリアが助けようとすると、マテウスが笑いながら足をばたつかせ、皆を水浸しにする。
どこかで見た光景。腹の底から笑った様な、幸せな気持ちに包まれた様な。
はっきりとは覚えていないのは、多分、毎日がそうだったから。
マテウスは、鼻を垂らして笑っている。
興奮している彼は、本当に両親といると錯覚しているかもしれない。
早く、鼻を拭いてやりたい。
ヘクトルは、遠くを見つめて、静かに微笑んだ。
「ヘクトル?」
声をかけたのはパトリシア。彼女の頭は、とっくに整理できていたらしい。
我に返ったヘクトルは、本題に戻った。
「済まない。でも、全く同じ顔の夫婦って、信じられる?」
パトリシアは少し考えると、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「奇跡的ね。運命みたい。二人は、どこにいても、きっと一緒になったんだわ。」
下らない答えである。ヘクトルは即座に説明を加えた。
「それが、他にも同じ顔の人間がいる。全く同じなんだ。」
不気味さが膨らむと、パトリシアは固まったが、想定の範囲内である。
ヘクトルは思い切った。
「同じ顔の夫婦が何かの理由でつくられたんだ。誰かの手で。そのために、何かがされてきた。その筈だ。」
ヘクトルがパトリシアの反応を見守ると、パトリシアは、ただ、ヘクトルの目を見つめ返した。多分、二十秒ぐらい。何を考えているのかは、さっぱり分からない。
ゆっくりと怖くなってきたヘクトルは、話を進めた。
「ジェフリーから盗聴器のことを聞いたよ。」
パトリシアは、顔を横に振ったが、沈黙を守った。
「嫌だと思うけど、その時のことで、何か覚えていることはないか、教えてほしい。大事なことなんだ。」
ヘクトルの力のこもる目を見たパトリシアは、しかし、流れる様に即答した。
「分からないわ。若かったし、何かあっても見えてなかったんだと思う。」
盗聴のことを問い詰められた時のために、予め考えていた答えである。
微かに混ざる恋愛の響きは、ヘクトルのこれまでの狂った会話をまったく無視している。
これがパトリシアである。
ヘクトルは、大きく深呼吸をすると、一線を越えた。
きっと、この先、パトリシアに会うことはない。
「君は、クローン技術で人間をつくるなんて話を信じられるかな。」
パトリシアは、降り立ったハトが飛立つまで黙ると、静かに口を開いた。
「あの子、名前は?」
パトリシアの視線の先にいるのはマテウスである。彼がクローンと何の関係があるとも思えないが、無視する手はない。
「マテウス。」
パトリシアは、大きく頷いた。
「いい名前ね。昔のサッカー選手にいた。パパのお気に入りだったわ。」
ヘクトルも頷くと、パトリシアは言葉を続けた。
「すごく、元気そう。あなたにも似て、…。」
パトリシアは、マテウスを誉め始めた。
親戚の話も交えて、今までのヘクトルの何倍もの時間を費やし、とにかくマテウスを褒めた。
褒めちぎった。
やがて、ヘクトルが返す言葉を探し始めると、パトリシアは、静かにヘクトルを見つめた。
「マテウスを大切にね。」
ニュアンス的に、別れの言葉に近い。だとすれば、ヘクトルの質問は完全無視である。
驚愕したヘクトルは、間もなく、それらしい答えに行き着いた。
きっと、彼女のキャパシティを越えたのである。
ちゃんと説明が出来ないのは昔と一緒。
本能に従う生き物。一緒に遊ぶだけの相手。一緒に苦労の出来ない相手。
それは、自分が思っていた通りのパトリシア。
多分、あとでジェフリーが答えを教えてくれる。
あの日の別れは、決して、間違っていなかったのである。

ヘクトルが車に戻ると、アーサー達が遅れて、車に乗り込んできた。
アーサーは、満面の笑みである。
「見たぞ。あの娘なら、野球ボールが、…。」
「よせ、黙れ。」
「何だ。一体、何を言うと思って、…。」
「いいから、…。」
ビクトリアが釣られて笑うと、マテウスも満面の笑みを浮かべた。
とにかく、皆が笑っていればいいのかもしれないが、少なくとも三人は決して普通ではない。
今日の終わりを意識したヘクトルの頭に浮かんだのは、ラファエルのこと。
ヘクトルが動いたことが伝われば、何かが起きるかもしれないということである。
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