第61話 襲撃

文字数 9,171文字

翌日の午後。エマがハンドルを握るキャンピング・カーは、ヘクトル親子にビクトリア、それにパープルを乗せ、アーサーの職場のあるビルに着いた。
キャンピング・カーにアーサーがいない理由は、彼が既に出社しているから。パートナーへの連絡に忙しいのである。
オフィス街のメインの交差点に面するそのビルは超高層。アーサーのオフィスは、他に抜きんでて背が高いそのビルの最上階である。
庇が大きくせり出したエントランスは無駄の塊。すべてが権力の証である。
エマは、長い庇を横目にスロープを降りると、地下駐車場に車を乗り入れた。

車から降りる五人は、あまりに不揃い。
最初に降りたマテウスをヘクトルが追い、長身のパープルがビクトリアに先を譲る。
軍では考えられない光景に、エマは小さく笑った。

超高層ビルでは、あまりに多くの人が働いている。
警備員に清掃員。改修工事に設備点検。
エレベーターの点検はさすがに邪魔だが、十分すぎる程の系統が動いている。
それは、ビルに命を吹き込む血管の様でもある。
一行は、迷うことなく、目の前に止まったエレベーターに乗り込んだ。
最下階だと、流石に同乗者は少ない。
行先ボタンを必死に押そうとするマテウスに、四人の大人は優しい笑顔を浮かべた。

そして、最上階。
エントランスのインターホンは、アーサーの秘書の部屋につながっていた。
許可を受けて足を踏み入れた部屋には、女性秘書が三人。多忙である。
アーサーは電話中だったが、はしゃぐマテウスの声に気付くと電話を押さえた。
「少し待ってくれ。すぐ終わる。」
「了解。待ってる。」
笑顔で答えたのはヘクトル。
アーサーは、十秒だけ電話に出ると、もう一度、電話を押さえた。
「済まない。長くなる。屋上にいてくれ。」
アーサーの電話の相手は、お客様なのである。
アーサーが目配せをすると、何でも知っているビクトリアは皆に微笑んだ。

間もなく訪れた屋上には、レジャー用具が犇めいていた。アーサーが、時間をかけて私物化したのである。
どれを見ても、品は悪くない。やはり、アーサーはリッチなのである。
エマはベンチ・プレス、パープルはハンモック、ビクトリアはトランポリン、ヘクトルはギターと向き合った。マテウスはいない。
ヘクトルの全身に、悪寒が走った。
そう。マテウスがいないのである。場所が屋上なのが怖すぎる。
「マテウス!マテウス!」
ヘクトルが叫ぶと、ビクトリアがトランポリンを飛び降りた。
「何?マテウスがいないの?」
「ああ、見当たらない。いない。」
慌てる二人を見ると、エマとパープルは何も聞かずに二手に別れた。会話は要らない。行動あるのみである。

怪しいのは、設備の室外機。
何層にも組んだ架台は、子供には迷路に見えるかもしれない。
機械室に階段室。その気になれば、隠れる場所の宝庫である。
数分後、大きな声を出したのはエマだった。
「パープル、来て!」
それは、何か見るべきものがあったということ。
呼ばれなかったヘクトルとビクトリアも、エマの元に急いだ。本能である。

エマがいたのは機械室。
ヘクトルが駆け付けた時、エマはしゃがみ込み、パープルは背後から彼女の手元を覗き込んでいた。
二人の視線の先にあったのは時限爆弾。
粘土と時計と配線から、それ以外を連想することは難しい。
声を上げたのはヘクトル。
「何だよ、それは。」
顔を上げたエマは、一瞬振り返った。
「ニトロ・ゲルよ。」
ヘクトルには分からない説明である。
遅れて現れたビクトリアが息を飲むと、エマは苦笑いを浮かべた。一般人は、面倒なのである。

エマは、スマートフォンを取出した。探したのは皮膚科。
まさにこのビルに入っていたのは、超高層ビルの生んだ幸運。
エマは、迷わずに番号をタップした。ツー・コールで出たのは女性である。
「サンパ・クリニックです。」
エマは、爆弾を見ながら言葉を続けた。
「今、この病院の入ってるビルの屋上にいるんだけど、爆弾を見つけたの。どうしても、液体窒素が欲しいんだけど、もらえない?」
間髪入れずに、電話は切れた。悪戯電話と思われたのである。
鼻で笑ったエマは、爆弾の写真を撮ると、病院のアドレスに送った。
タップする瞬間には呪文も忘れない。
「フェアリー・テイル。」
二分後。折り返しの電話に、エマは笑顔でスマートフォンをタップした。
「警察に任せて、この場から逃げてもいいんだけど。」
「ええと、あなたは?」
男の声である。貫禄があるから、年配か、気分を出す責任者。おそらくは医者である。
エマは、自分を見つめる三人を見ながら、言葉を続けた。
「たまたま屋上で爆弾を見つけた高危険度IED処理の有資格者よ。液体窒素をくれれば、今なら、大サービスで応急処置をしてあげる。」
長目の沈黙。考えている証拠に、エマは笑顔を浮かべた。
「警察には…。」
「私から言うわ。あなたが言ってもいいけど、多分、説明できない。」
信じ始めたせいか、ほんの少しだが、男の声が上ずっている。
「こちらでも言います。ただ、液体窒素が応急処置に要るんですね。どのぐらい…。」
交渉は成功である。
電話が終わらないうちに、パープルが液体窒素を取りに走り、電話を切ったエマは、続け様に警察に通報した。

警察の到着より、パープルが運ぶ液体窒素が早いのは当然。パープルの後ろには、病院関係者も何人か見えるが、観客が増えただけである。
エマは、大きく手を振り、パープルを呼ぶと、爆弾の前に陣取った。
腕の見せ所である。
エマの背を見守るヘクトルとビクトリアの間に、アーサーとマテウスが現れたのはこの時。
マテウスは、アーサーの部屋にいたのである。声を上げたのはヘクトル。
「マテウス!」
マテウスは、絶叫しながら笑顔で走り去り、ヘクトルは後を追った
一瞬、振り返ったエマは小さく微笑むと、もう一度、爆弾を睨んだ。
緊張はするが、液体窒素をかけて、冷却するだけ。
医者が応じた時点で、爆弾処理は殆ど済んでいたのである。

最初に到着したのは州警察。エマが機械室の爆弾を処理したと聞いた彼らは、他の階の調査に移った。
爆弾処理班が到着したのはその後。
間もなく、優秀な州警察は、一階のエレベーターとエントランスに仕掛けられた爆弾を発見した。撤去したのは、当然、爆弾処理班。
エレベーター・シャフトを爆破し、ビルを煙突にする。
このビルは、間違いなくステファヌスが狙ったビルなのである。

爆弾が処理できても、エマの心は休まらなかった。
量の少なさが、妙に気になったのである。彼女が頼れるのはパープル一人。
「皆を連れて、キャンピング・カーに移って。私が合図したら、私がいなくても、ここから出るの。いい?」
「おい、ちょっと…。」
口を挟んだのはアーサー。
フェミニストのつもりかもしれないが、エマは素人に口を挟まれる覚えはない。
「黙って!パープル、OK?」
「了解。」
パープルは、即答するとヘクトルとアーサーの背に手を回した。
ビクトリアとマテウスに逆らう意思は見えない。
五人は、エマを振返りながらも、階段室へと消えていった。

屋上に一人で残ったエマは、遥か遠くの地表を見下ろした。
州警察が見つけたエントランスの爆弾を思ったのである。
ターゲットが通過する時に爆破するのは、実に分かり易い。
しかし、屋上の機械室の爆弾が解せない。
エレベーターが最上階までくれば、ターゲットを殺害できるかもしれないが、途中だと安全装置が稼働する。徹底しないにも程がある。
あるいは、機械室は、爆弾を隠すために、たまたま選んだのかもしれない。
目的は、ビルの屋上を爆破し、火柱を上げること。
何かのメッセージを送りたいステファヌスなら、やりそうである。
但し、これも、爆破で堀をつくった一件と比べると、若干の地味さがぬぐえない。
エマなら、警察が危惧した通り、他の階を何ヶ所か爆破する。ビルを一本丸ごと燃やせば、誰もが目をむくだろう。
この場合、警察と爆弾処理班の総力戦しか、意味を持たない。
エマがやるべきことは、爆弾処理班の支援。おそらく、間違いない選択である。

一つの結論を導き出した時、エマは小さな変化に気付いた。
地上で、車のクラクションが鳴ったのである。それは市街地の日常だが、パープルが車を出した可能性もある。
エマは、屋上から身を乗り出し、強いビル風を吹き上げる遠い地上を眺めた。
音の出所は分からないものだが、この瞬間のエマは一目でそれを見分けた。
それは一台や二台ではないから。
彼女が見ている間にも、クラクションの数はどんどん増えていく。
大小入り乱れる七色の警告音が、地上を埋め尽くしているのである。
クラクションが鳴らされる理由は、大型バス。
あまりに異常なので、最初は気付かなかったが、大型バスが道路を横断し、車両の流れを止めているのである。一台ではない。何台も。しかも、間に道をつくる様に二列である。
端のバスは歩道に乗り上げ、ビルに連なっている。
明らかな非日常が、そこに広がっているのである。

取敢えず、エマは走り出した。向かう先は地上である。
エレベーターは怖いので乗れない。それは咄嗟の判断。
階段室に入ったエマは、階段を駆け下りながら、スマートフォンを手にした。
パープルにリダイヤルである。
「今すぐ車を出して、このビルから離れて。何かが起きてる。」
パープルの答えは、早く、短い。
「了解。」
車内のざわめきが聞こえたので、パープルはもうアクセルを踏んでいる。
エマは、荒い息で見たままを伝えた。
「エントランスを出たら、真っ直ぐ進んで。脇は、歩道までバスが塞いでるの。だから、真っ直ぐ出て、とにかく走って。後で合流する。」
パープルの電話からも、クラクションの音が聞こえてくる。
彼の返事がないのは、アクセルを踏み込んでいるから。
パープルの集中力が試されているのである。

キャンピング・カーの長い車体は、高速で地上に出ると、スロープで腹を擦り、大きく揺れた。ヘクトルに抱かれるマテウスの興奮は、極限状態である。
パープルは、クラクションを鳴らしながら歩道を進んだ。人は流石に逃げるが、ゴミ箱は弾く他ない。ビクトリアは、衝撃を受ける度に、アーサーの腕に爪を立てた。
パープルが見る限り、確かに抜けられる方向は一つだけ。面倒なのは、交差点に迷い込んだ数台のセダンである。
パープルは、エマの言葉だけを信じて、ハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。
避けきれないセダンは押し切る。ここは馬力勝負である。
間もなく、道を切り開いたキャンピング・カーは、エマの教えた道へと走り去った。

エマもパープルも数えなかったが、道を塞いでいた大型バスは、全部で十台である。
ステファヌスの計画では、二列のバスの間は、今から風の道になる。
バスの中には、防護服に身を固めた男が一台に一人ずつ。最後尾のバスの男は、バス班のリーダー。そういう配置である。
今まさにキャンピング・カーを見送った彼は、迷わず無線を手にした。
呼びかけた先は、四百メートル風上のローデヴェイク。SUVにもたれ掛かるVXガス散布班のリーダーである。
「ローデヴェイク。君と同じ顔の男が、車でそっちに向かった。暗いメタリックのキャンピング・カーだ。コピー。」
VXガス散布班は、ローデヴェイクを含めて三人。
苦笑する仲間を前に、ローデヴェイクは短く答えた。
「その車は作戦にはない。その場を動くな。コピー。」
ローデヴェイクは、天高く聳え、警告音を轟かせる高層ビルを眺めた。
足元を疾走してくるのは、キャンピング・カー。無線の通りである。
フロント・ガラスに目を凝らしたローデヴェイクは、確かに自分がハンドルを握るのを見た。
ステファヌスが処分する様に指示したクローンが生きていた。想像に難くないストーリーである。
小さく笑ったローデヴェイクは、スマートフォンを手にすると、車のナンバー・プレートを撮った。
ビルの屋上で爆発が起きたのは、その瞬間である。
ローデヴェイクは、双眼鏡の先を素早く頂上に合わせた。
小さな黒煙が上がっている。炎が上がるのは、もう少し先かもしれない。
「思ったより小さいな。」
ローデヴェイクが呟くと、同じ様に双眼鏡を眺めていた二人が動き出した。
プランの変更に備えるのである。

その時、まだ階段室にいたエマは、爆発の衝撃を感じると、無意味に上階を見上げた。
爆弾は残っていたのである。
州警察に、爆弾を処置したと言ったのが間違い。
彼らは、プロの彼女の言葉を鵜呑みにし、全ての爆弾が撤去されたと思い込んだのである。
ビルの倒壊を思えば、最上階の緊急度は低いかもしれないが、後付けである。
自分の責任を認めて、自分だけの禊を終えたエマは、改めて階段を駆け下りた。
手に握るのはスマートフォン。バスのことを、警察に報告しなければならないのである。
911が電話に出るのは早い。
「どんな緊急事態ですか。警察、消防、救急?」
「警察よ。」
「今から、警察に転送します。」
エマは、コール音を聞きながら、階段を駆け下りた。
「警察です。緊急事態の起こっている場所の住所を…。」
ナビの言う通りに来たエマは、住所を知らない。走るエマは、警察と連絡をとるために、知りうる全てを口にした。

数分後、住所の説明に困っていたエマは、地上に着いた。
階段室を走り出ると、警察が見える。棒立ちである。電話は不要と知ったエマは、何も言わずにスマートフォンを閉まった。
しかし、警察が何もしていない様に見えたのは議論のせい。近付いて分かったが、道路の騒ぎと爆弾のどちらを優先するかで、意見が割れているのである。
時間のないエマは、足を止めずに叫んだ。
「絶対、外が先!外よ!外に来て!」
振返る警官達をそのままに、エマはタイル張りのロビーを走り抜け、エントランスから駆け出した。

エマの眼前に広がったのは、左右をバスに挟まれ、クラクションが鳴り響く交差点。
まずは、バスである。
エマは、改めて周囲を見渡した。
左ハンドルで間違いない。まずはそれだけ。
エマは、スターム・ルガーLC9を抜くと、迷い込んだセダンの上に駆け上がった。
狙うのはバスの窓。とにかく、一番近くの一台。
銃声と共に大きな窓が崩れ落ちると、エマは運転席にも銃弾を見舞った。けん制である。
一秒でバスに乗り込んだエマは、ガラスの散らばる座席に身を隠した。

最後尾の男は、表情を変えることなく、ローデヴェイクに連絡を入れた。
「ローデヴェイク。バスに銃を持った女が侵入した。コピー。」
想定の範囲内である。ローデヴェイクは短く答えた。
「プランD。コピー。」
バスに乗る十人が声を揃えた。
「了解。コピー。」
ローデヴェイク以外のVXガス散布班は、SUVからバッグを取出すと走り出した。
中身はダイナマイトである。

座席に身を隠したエマは、銃を構えたまま、運転席の動きを見守っていた。
大したビジョンはないが、一対一なら勝てるかもしれない。間合いが合えば、順番に叩き潰す。それがエマである。
神経を研ぎ澄ますエマは、間もなく何かが擦れる音を聞いた。
彼女の記憶を辿る限り、昇降ドアが開く音に違いない。
鏡を取出すエマの耳に届いたのは、何かが揺れる音。車外である。
装備を揺らしながら走っていると考えるのが普通。しかも一人ではない。
エマの結論。音から分かる彼らの行先は、このバスではない。
顔を出したエマは、バスから遠ざかる男達の姿を見た。
一人ではない。皆がバスを捨てたのである。
このバスだけでない理由は分からない。
幾ら考えても、分からないものは分からないのである。

エマは、空になった運転席に走った。キーは抜かれている。
ハンドルカバーを叩き壊し、配線を結線するのは訓練済み。
エンジンがかかると、エマは、初めてフロント・ガラスを見た。
車高は高いが、前のバスとの距離は短い。脇に詰めるセダンも狂っている。
動かす方法が浮び様のない状態である。
エマは、強くハンドルを握って、深呼吸をした。
アクセル以外、彼女の味方はいない。

その瞬間のエマの無謀な挑戦を思いとどまらせたのは、また別のバス。
おそらくは最後尾のバスが、セダンの中に突っ込んできたのである。
躊躇いなく踏まれたアクセルが、衝突音と摩擦音を奏でる。
キャンピング・カーの時より、明らかにセダンの数は増えているが、バスの方が車体は大きい。スケール・アップである。
エマが何をする間もなく、バスはセダンを押し切り、速度を落とすことなく、歩道に乗り上げた。
ただ、止まらない。
バスはエントランスを目指し、長い庇の下にもぐった。車高が高すぎるのは、そこが歩道だから。庇の底をルーフがこすると、火花と共に、また新しい音が鳴り響いた。金属の軋む音。
事態が理解できないエマの目の前で、バスはエントランスのガラスを突き破り、とうとうロビーに姿を消した。
コンマ五秒で衝撃音。
エマの認識では、直進していれば、エレベーターに突っ込んだ筈である。

戦場でもなかなか見ない光景に、エマが身を乗り出した時、エントランスから三人の人影が現れた。
後方に向かって何かを怒鳴る彼らは、防護服に身をまとっている。
明らかにテロリスト・グループである。
エマは目を凝らした。
男達が首から下げているのは、フル・フェイスのガス・マスク。危ない奴である。
間もなく、一人が手元を動かすと、エントランスから、爆音とともに炎が広がった。
黒煙の混ざるオレンジの炎。
歩道に降るのは、建物の破片の雨。割れたガラスは、光だけなら美しい。
壊れる物が多すぎるのか、爆音にも波が生まれる。
エマは、本能で身をかがめたが、間もなく次の異変に気付いた。
割れた窓からバスに吹込む風が、唸る様な強風に変わったのである。
事態は、刻一刻と変わりつつある。
エマは、もう一度、逃げていく男達を見た。
彼女の中で繋がったイメージ。
ガス・マスク+風+逃げる
もう答えは出ている。
彼女は、逃げなければいけないのである。
エマは、バスから、セダンの上に飛び移ると、空に向かって発砲した。
「今すぐ、車を捨てて!バスから離れて!」
皆の目だけは集まるが、誰一人として動く気配はない。
周囲を見渡したエマは、その人数を改めて意識した。
これは無理。自分一人では助けられない数である。
最低限の義務を果たしたエマは、ボンネットから飛び降りると、列から抜けた。
このバスの間は、絶対に危険である。
エマは、隣りの通りに抜けると、パープル達に指示した方向に向けて、全力で走った。

一方で、エマの警告を受けたドライバー達は、アクセルを踏みはしたものの、何台かの衝突を目にすると、警察の救援を待つ道を選択した。
抜けられないなら、車に留まる。銃声や爆破の続く車外に出ないのは、人間として当たり前である。

すべてを眺めていたのは、ローデヴェイクただ一人。
風が強くなるのを感じた彼は、素早くガス・マスクを装着した。
仕上げの時間である。
車道に止めたSUVのトランクを開け、噴霧器を作動させる。
すべては予定通りである。
何も目には見えないが、気持ち、細かい霧が強風に流されていく様な気もする。
ビルまでは四百メートル程。
騒動が呼んだ黒山の人だかりが、交差点を包んでいる。
ローデヴェイクを通り過ぎる人々も、逃げるよりは、寧ろビルに近付いていく。
自分が死ぬという発想がないのである。
ローデヴェイクは、野生からかけ離れた無力なビルを眺めた。

ローデヴェイクの視界に入る人影が踊り出したのは、それから間もなく。
鼻を押さえる、口を押える、胸を押える、しゃがみ込む。
毒薬の力は本物である。
交差点のセダンは、二段構え。
車中でパニックを起こし、外に出て、猶更強いガスにやられる。動きのアクセントである。
恐怖心は、また、違ったアプローチを見せた。
無臭のVXガスでは、自分の症状が分からない。目にした症状は出ると、自己暗示をかけてしまうのである。待っているのは、発狂。
ローデヴェイクは、視線の先をエントランスに移した。
口元を押さえる幾つかの人影が見えたのである。
警察や爆弾処理班も混ざる彼らの殆どが流血しているのは、バスの爆発のせいで間違いない。
しかし、彼らが肩を組む様は、命拾いをした様にさえ見える。
ローデヴェイクは、眉を潜めた。
毒物の濃度が一番濃いエントランスを通るのは不正解なのである。
一人が痙攣し始めたのは、それから数秒後。
痙攣は死の兆候。彼は、おそらく死ぬのである。
切なくなってきたローデヴェイクは、ビルの上階に目を移した。
高層階で窓を開け、騒いでいる人間が見える。おそらくは何かのパニック。
事前の計画では聞いていない二次災害が、今から始まる。
地獄を見届けるつもりのないローデヴェイクは、仲間の元を目指して、静かに歩き出した。

その頃、エマは、全力で走り続けていた。
パトカーや救急車、消防車が、何台も横を通り過ぎると、エマは、元の通りに戻った。
勿論、キャンピング・カーと合流するためである。
パトカーの列は途切れることを知らない。
どこかで見た様な光景に、エマの頭は例によって考え事を始めた。
ヨシュアが死んだ時もこうだった。
あの時もよく走り、階段を昇り降りしたが、これほどの規模ではなかった。
今回は何人死んだのか。
たくさんの人を、泣かせてしまったかもしれない。
ただ、それだけではない。それは他人の事。
自分は、今回は街中で発砲してしまった。
また、捕まるのは嫌だ。自分は悪くない。絶対に間違っていない。
エマは、自分に言い聞かせながら、とにかく走った。

走り続けたエマは、やがてキャンピング・カーを見つけた。
車体の凹みは、想像以上。
窓から覗くパープルの長い手で皆の無事を確信すると、エマは徐々に走るペースを落とした。

呼吸を整えながら車内に入ったエマは、皆の視線を一斉に受けた。
口を開いたのは、笑顔のエマ。
「皆、生きてるわね。」
ヘクトルは思わず腰を上げた。
「本当に済まなかった。こんなことになるなんて、思わなかったんだ。」
確かに、アーサーを救うと言い出したのは彼であるが、事務所に来たがったのはアーサー。
ヘクトルは、勝手に背負っている。
エマは、笑顔のまま、ヘクトルと片手でグー・タッチをした。
アーサーが謝らないのは、ビルの仲間の安否が気になるからで間違いない。
「ビルはどうなった?」
真剣な表情のアーサーに見つめられると、エマは肩をすくめた。
「そのうち、ニュースでもやるわ。」
彼女も詳しいことは知らない。正確な情報もなく、爆破と毒ガスを教えるのは残酷過ぎる。
それがエマのジャッジである。

六人を乗せたキャンピング・カーは、ようやく西海岸を目指して走り出した。
ビクトリアが点けたテレビは、どのチャンネルもビルの報道。
その時点で死者三人、重傷者四十二人、体調不良を訴えた者は四千人超え。
I系のテロリスト・グループが、犯行声明を出したらしいが、絶対に嘘である。
とにかく落胆したアーサーは目頭を抑え、ビクトリアはその肩を抱いた。
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