第93話 別格

文字数 3,553文字

ヘクトルとスカーレットは、サミュエルに呼び出されると、言われるままにヒュドール・リサーチ&エンジニアリングを訪れた。一年半ぶりの再会に、ブタの姿はない。
二人を待っていたのは、椅子に座るサミュエルとクイーン。そして、口元に笑みをたたえたラファエル。皆の希望である。
自分と同じ姿を見慣れているヘクトルには、感動の方が大きい。
「すごいじゃないか。」
挨拶よりも感嘆の声を漏らしたヘクトルは、サミュエルに視線の先を移した。
「やっぱり、凄いんだな。」
何故か、サミュエルが視線を逸らすと、ヘクトルは若い日の自分に歩み寄った。
「人の格好で会うのは初めてだね。」
そうは言っても、激動の人生を歩み続けるラファエルに、誰も敵意はもてない。
ヘクトルは、右手を差し出し、ラファエルの反応を待った。
スカーレットも笑顔で二人を見つめ、自分の番を待った。
温かい気持ちが続いたのは七秒間。
微笑んだままのラファエルの前で、ヘクトルとスカーレットの顔が歪み始めると、サミュエルが口を開いた。
「おそらく失敗だ。」
ヘクトルが目を向けると、サミュエルは小さく頷き、言葉を続けた。
「治療は続けるが、最近、状態が変わらない。当面は、これ以上の回復はない前提で物事を考える必要がある。今日、君達を呼んだのは、それを知ってもらうためだ。」
サミュエルは、ヘクトルが沈黙を守ると、椅子を指さした。
スカーレットは、ヘクトルの背に手を添えると、椅子に誘導した。彼女には、サミュエルに逆らう気はないのである。
二人が腰を下ろすと、サミュエルは足を組み、口を開いた。
「いつか治す。それだけは、宣言しておこう。考えるに、ブタへの移植の時点で、神経の健全性の確認が十分に行われなかったことが大きい。あと、ブタにしては三十年に及ぶ驚異的な長寿だ。何か特別な現象が起きた可能性もあるだろう。ブタの臓器との相互作用もありえる。」
それはヘクトルには関係のないことである。
「マテウスはどうなる。」
意味がないと分かっていても、聞かずにはいられない。
サミュエルは、小さく頷くと即答した。
「現状では、医者の治療に任せろとしか言えない。あるいは、三歳のままの彼の人格はまだ出来ていないに等しいから、クローンをつくって、育て直す手もあるだろう。」
一度首を傾げたヘクトルは、不意に腰を上げた。
断じて、許すことの出来ない暴言が、ヘクトルの体を起こしたのである。
彼が本能のままに向かう先はサミュエル。スカーレットは、二人の間に割って入った。
口を開いたのはサミュエルである。
「冗談だ。」
そんな言葉で、人の心は変わらない。
目を見開いたヘクトルを座らせたスカーレットは、話題を変えた。ヘクトルに妙なことを言わせないためである。
「ドクター・クレメンス。報道の件はどうでしょうか。」
身の危険を冒し、信念を曲げてまで、移植用のクローンをつくったのもそのため。
ヒュドールの金とネットワークを使えば、どうとでもなる筈。
サミュエルなら、容易いことなのである。
しかし、サミュエルは眉を上げ、ただスカーレットを見つめた。喋るのはサミュエル。
「まだ、考えは変わらないのか。」
スカーレットとヘクトルの表情が変わると、眉を潜めたサミュエルは不思議そうに言葉を続けた。
「君は、自分の目的に合うと思えば、脳のないクローンをつくってのけた。その調子でつくればいい。あっという間だ。」
一年半待った末の結末として、あまりに酷い。
サミュエルの人格は、ラファエル程ではないが、オリジナルのローデヴェイクに受けた影響を受けている。歪んでいるのである。
サミュエルは、納得できていないスカーレットに、諭す様に語り掛けた。
「思い出すといい。ヘクトルは、何故、自分のクローンの提供を認めたのか。私の知る限り、この男は人を殺せる男ではない。内心、大量の臓器を別々につくると称賛され、一緒につくると糾弾されるなど、どこかで納得出来ないんだ。君もそうだ。国もそう。つまり、その程度のことだ。それが人の命を救うために当たり前と教えられれば、誰もがそのまま受け入れるだろう。」
サミュエルは、紅潮していくスカーレットを見つめたまま、言葉を続けた。
「それとも、単に、国の指示に従うのが嫌なのか。どうしても嫌なら、時々失敗すればいい。確実に一人は死ぬが、今みたいに計画は止まる。」
サミュエルは、スカーレットを静かに観察した。
かなりの事を言ったが、スカーレットは声一つ上げない。
彼女は、問題の是非を頭で考えるのではなく、サミュエルに従うという発想でこの場に臨んでいるということ。
付き合う人間を選べるサミュエルにとって、スカーレットは正解なのである。
そうと決めると、サミュエルは、これまでの鞭と同等の飴を探した。勿論、彼の頭に、スカーレットに謝る発想はない。
「いいだろう。君は君だ。好きにするといい。丁度いい子がいる。エマ・ハリスだ。連絡しておこう。」
不幸の連鎖を予感したヘクトルは、黙っていられない。
「エマを巻込む?大体、何故、彼女が丁度良くて、何故、彼女がスカーレットを助けるんだ。」
サミュエルの答えは早い。
「彼女は元軍人だ。勝手な学者の傲慢を、中道に戻してくれるだろう。それに、私が知る限り、理由は分からないが、彼女のスキルは格段に高い。あと、助ける理由。彼女は過去のテロ対応の時に、幾つか罪を犯している。勿論、殺人も含む。取引きで不問にしたが、私には気を変える準備がある。つまり、私にとって、この上なく便利な存在。それだけだ。」
質問に対する答えとして問題はないが、スカーレットの希望には程遠い。
首を傾げたスカーレットは、言葉を選んだ。
「本人が納得してくれれば、手伝ってもらいますが、何か策はないんですか。」
サミュエルは小さく頷いた。
「前も言った通り、策は君の考えた通りでいい。君は私より優秀だ。その代わり、クローンの命を大切にしたい君の行動に感銘を受けたので、プレゼントをしよう。」
サミュエルは、静かに立ち上がり、スカーレットに近付くと、一枚のカードを渡した。
予め、準備していたのである。
「今回の目的に限定するが、自由に使っていい。ラファエルの手術が失敗した時から考えていた。」
金は確かな力である。しかし、スカーレットは確認を忘れない。
「幾らですか。」
「残高を気にしないでいい額だ。あと、ヒュドールの施設も自由に使っていい。」
ほぼ満額回答に等しい。スカーレットは唾を飲んだ。
疲れて見守るだけだったヘクトルは、かすれた声で口を挟んだ。
「悪いけど、僕は力になれそうにない。」
サミュエルは意地悪な笑みを浮かべた。
「私が説明した、エマがスカーレットを助ける理由。あれは、建前だ。本音は違う。彼女はマテウスのことを気に病んでいる。それ以上の理由はない。つまり、君がいないと何も変わらない。」
スカーレットは、動かなくなったヘクトルを見つめた。ヘクトルには悪いが、スカーレットはサミュエルの言葉に逆らう気はないのである。
サミュエルは、ヘクトルの沈黙を許したが、その時間が彼の中の限度を超えると、不意に口を開いた。
「ヘクトル。忘れていたが朗報だ。君を見ていた目。あれは、なくなったぞ。全部、終わった。理由は聞くな。」
それは、本当に唐突だった。
なぜ今、それを口にしたのか、分からない。
何なら、本当にずっと監視していたのである。本人を前にして、それを平気で口に出せるのも謎。
そして、なぜ褒美の様に言われなければならないのか。
幾ら考えても、納得できる答えは浮かんでこない。
確かな怒り以外、何も心にないヘクトルは、やはり腰を上げ、スカーレットに抑えられた。
サミュエルは、鼻で笑った。
全力なら、ヘクトルがスカーレットに抑えられる筈がないからである。
「じゃあ、話は終わりだ。詳しい相談は二人でしてくれ。エマにはヘクトルに連絡する様に言っておく。一年半は長かったが、それに見合う成果はあったろう。幸運を祈る。」
ヘクトルは、サミュエルの言葉の意味を理解した。
サミュエルは、怒りでヘクトルに席を立たせたかったのである。
疲れたヘクトルは、ただ顔を歪めた。
歪んだ笑顔の残るサミュエルは、ヘクトルの顔を覗き込んだ。
「優しい言葉でもかけよう。失敗に失望したのは君だけではない。挑戦に失敗は付きものだが、失敗を恐れて挑戦しなければ、決して成功しない。私は君の目標を決めはしないが、何かしたまえ。何かが変わるかもしれない。」
当たり前の言葉である。
ヘクトルは、気持ちを整理すると、軽く頷いた。
少なくとも、サミュエルは何かをしている。彼は、それを口にする資格を持っているのである。
間もなく、ヘクトルは、自分のものではないその場をあとにした。
スカーレットが、サミュエルへの感謝の言葉を忘れなかったのは、言うまでもない。
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