第69話 交渉

文字数 3,334文字

残ったのは、エマとアンダーソン夫婦。
三人は、長い行列に並んで、毛布とテントの支給を待った。
皆の顔が疲れ果てている。
濡れている者を選んで、バスタオルだけは先に配っているが、それも順番待ち。
エマの順番が来たのは、エマがマテウスの悲劇を二人に説明し、ビクトリアが号泣し、アーサーが慰め終えた後。長すぎる時間の後である。
ヘクトルが戻ってきたのは、更にテントの設営が終わった後だった。
近付くヘクトルに声をかけたのはアーサー。
「聞いたよ。」
「済まない。心配をかけたね。」
謝るヘクトルに話しかけたのはビクトリアである。
「容態はどうなの。」
「呼吸は安定してるけど、意識が戻らない。医者はベストを尽くしてくれてるみたいだけど。何とも言えない。」
ヘクトルの答えにビクトリアは静かに頷いた。彼女の疑問は終わらない。
「一緒にいてあげられないの?」
「他にも患者がいるから、出ていく様に言われた。それに、今から大変だから、徹夜はよせって。」
ヘクトルの答えは、アーサーの次の疑問を呼んだ。
「今から大変って何だ。山とかそういうのか。」
思わぬ直球に、ヘクトルは顔を横に振った。アーサーは親身になっているだけで、悪気はない。
「いや、そんなんじゃない。可能性の話だけど、最悪の場合は考える様にって。まだ、そのぐらいかな。」
「それじゃあ、…。」
アーサーとビクトリアの心配は止まらない。
どれだけ喋った時だったか、ヘクトルは、一言も発していない人物に静かに視線を向けた。
エマである。
エマは、ただ、黙って、ヘクトルを見つめていた。
気付いてしまうと、もう無視が出来ない。
ヘクトルは、何度か小さく頷いた。それだけで十分。エマが傷ついている事がよく分かったのである。
ヘクトルは、エマに近付くと、肩に手を添え、俯いたエマは、ヘクトルの胸で涙をこぼした。

その夜は、四人だけが同じテントで眠った。
余震の中、非常用照明は消えない。明かりと揺れと興奮のせいで、眠りは浅いまま。
何度も目を覚ました四人は、都度、誰かと視線を合わせた。

しかし、明けない夜はない。
元々、眠っていないヘクトルは、生活音が増え始めると、医療用テントに向かった。
どんな時にも常識を持っていたいのが、ヘクトルなのである。
向かう先は、マテウスが眠っていたテント。
受付で関係者用のバッジを受け取ったヘクトルは、既にごった返している医療用テントエリアの中を急いだ。
ヘクトルの後を追い、彼とは別にパープルの元を訪ねたのはエマ。
十分後。ヘクトルとエマは、二人の患者が、テントから姿を消したことを認めた。

アンダーソン夫婦も加わり、受付で抗議を続けたヘクトルを諦めさせたのは、不意に現れた一人の看護師だった。
「ミスター・ヘクトル・ピウス?」
「そうだけど…。」
彼女が、ヘクトルに話しかけた理由は、彼女が見つけたメモに名前が書かれていたから。
メモは、昨夜のうちに収集場に出されていたシーツに挟まっていた。そういう話である。
「ありがとう。」
ヘクトルは、急いでメモに目を通した。エマとアーサーは横から覗き見。ヘクトルに周囲に気を払う余裕はない。
「親愛なるミスター・ヘクトル・ピウス。
君の太陽を預かっている。
エマに次の番号に電話させる様に。
×××-×××-×××
あなたの友より」
ヘクトルは、迷わず、電話を手にした。エマに任せる気にはなれないのである。
しかし、彼のポケットから出てきたのは、返しそびれたアーサーの携帯電話だった。
ヘクトルのすべては、クルーザーに残してきたのである。
パスを知らないヘクトルは、アーサーを振返り、電話を受取ったアーサーは、ロックを解除すると、エマに渡した。
最初から約束を違えるのは得策ではない。
それが、アーサーの判断である。
「大丈夫よ。マテウスを絶対に取り返して見せる。」
エマの言葉にヘクトルは頷いたが、表情には硬さが残った。そうは言っても、改めてエマを頼るのが怖かったのである。
間もなく、エマはメモの番号をタップした。ハンズ・フリー・モードは基本である。
電話の先から声が聞こえるまでにツー・コール。
それはパープルに似た声。ローデヴェイクである。
「おはよう。エマだといいけど、誰?」
「ミス・ハリスよ。」
「よかった、エマだ。ヘクトルだと感情的になりそうで、嫌だったんだ。」
エマは、首を傾げた。
「よく聞きなさい。二人を返さないと、どこに隠れてもあんたを探し出して、見つけた瞬間に頭を撃って殺す。仲間も見つけて全員殺す。」
エマも十分感情的である。ローデヴェイクは、遠くを見ながら笑った。
「顔も分からないのに?でも、悪いお知らせだ。大人の方は解放できない。君が僕の仲間を七人殺した様に、僕も自分の身を守った。」
エマは吠えた。
「七人?ヨシュアの時を足しても五人よ。××××の穴。パープルはケガをしてるの。脳に異常があったら、命に関わるの。マテウスと同じ。」
悪態に疲れたローデヴェイクは、電話を耳から離したが、今一度、対話に戻った。電話を切る訳にはいかないのは、寧ろ、彼の方だからである。
「ちゃんと伝わらなかったみたいだな。人数は、君の数え間違い。それにケガをしてたのは僕だ。××××の穴。僕は彼と同じ人間のクローンだ。入替ってた。彼に似せて、髪を刈るのは正直嫌だった。はっきり言わないと分からないみたいだから言うが、パープルは死んだ。他にも同じ顔の男はかなりいるみたいだから、姿を見たら撃つのは止めた方がいい。」
「〇〇〇〇。」
呟いたエマは、頭を切り替えた。ヘクトルと目が合ったのである。
「マテウスは人質なの?一体、何が欲しいの?」
ローデヴェイクの答えは決まっている。
「サミュエル・クレメンス。」
エマは周囲を見回した。何故なら、何も知らないから。
ヘクトルもアーサーもビクトリアも、皆が不安な表情を浮かべたのはエマと同じ理由。
知っているとすれば、パープルただ一人。
その彼を、ローデヴェイクは殺したのである。
エマは、体から力が抜けていくのを感じた。
「知らないわ。会ったこともない。」
ローデヴェイクの驚きの方が大きい。
「会ったこともないのに、それだけの大金を使って、命をかけてるのか?本当に?」
「嘘はつかないわ。」
ローデヴェイクは、エマの答えに言葉を被せた。
「いや、嘘だ。交渉にならないな。」
冷たい言葉はローデヴェイクのブラフである。
そうと知らないヘクトルは、とうとうエマから電話を奪いとった。
「待ってくれ。ヘクトルだ。」
敢えて避けたヘクトルの登場に、ローデヴェイクの声は明るくなった。これだけの仕掛けで釣果がゼロになることはありえない。
「ヘイ、パパ。大丈夫。マテウスは無事だ。それより、折角、電話を代わったんだ。君がサミュエルの居場所を教えてくれるのか。」
「いや、知らない。」
「何だ、それは。僕達は既に七人を失ってる。冗談は止してくれ。」
「信じないかもしれないけど、僕はおそらくサミュエルに観察されている。こうしてる間も。」
ローデヴェイクは首を傾げたが、二秒で受け入れた。時に金持ちの感覚が狂うことを、彼はよく知っているのである。
「それなら、マテウスを助けにここに来るかな。」
「彼は自分の身を危険に曝さないだろう。」
「だろうね。」
ヘクトルは、自分を見つめる三人と視線を合わせた。
アーサーにビクトリア。それにエマ。
皆の目から、気持ちが伝わってくる。マテウスを救うために、何としても次の展開に進まなければいけない。
ヘクトルは賭けに出た。もう、それしかないのである。
「場所を指定してほしい。何もないところだ。安全が確かなら、彼も姿を見せてくれるかもしれない。」
「随分悠長な話だ。」
「ただ、それしか方法はない。」
それはそれでいいローデヴェイクは、傍にいた仲間に地図を調べさせた。
「三日後の正午。ルート一九〇で北緯三六度五七分、西経一一六度九三分。砂しかない場所だ。来れるか。」
「七日後の正午にしてくれ。彼がどういうルールで、僕達を見てるか分からないんだ。毎日電話を続ける。頼む。」
沈黙をつくったのは、ローデヴェイクの意地悪。
笑顔で緊張を楽しんだローデヴェイクは、綺麗な声を聞かせた。
「いいだろう。七日後の正午に会おう。」
ローデヴェイクは、もう一度、緯度と経度を伝えると、電話を切った。
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