第6話 類縁

文字数 4,949文字

マテウスは、タクシーの窓からビルを見上げた。久々の車での遠出に、彼は少しはしゃいでいる。シートを汚さない様に、靴を脱がされた代わりに、自由を得たのである。
一方のヘクトルはというと、自腹をきる気のないメーターを見つめながら、久々の渋滞に疲れていた。
この日、メディカル・リサーチ社に向かっているのは、スカーレットとの縁を断つためである。
あの勝手な女に自分の人生を詮索される覚えはないと言ったら上辺だけ。
正直言って、これから自分が会う相手の中に、彼女に見合う人間はいないのである。
想像だが、きっと皆があの女に好きにされる。確実である。
悩んだヘクトルは、静かに世をすねた。そんなにあの女は偉いのか。
それは、決して、スカーレットのせいではない。
間もなく到着したのは高層ビル。
ガラス・カーテン・ウォールが天を突く同社の頂上は、遥かに遠い。
メディカル・リサーチ社の受付は、吹抜けのエントランス・ロビーのエスカレーターの先。
少なくとも、三歳児の来る場所ではない。
セルロイド人形の様な受付嬢に依頼すると、スカーレットが出てくるまでに大して時間はかからなかった。
ティファニー・グリーンのスーツ。
取敢えず、彼女の所属は、明らかにこの会社である。
「時間通りだろう。」
近付いてきたスカーレットにヘクトルが声をかけると、スカーレットはそのままヘクトルを通り過ぎた。
「ついてきて。」
スカーレットを見つけてマテウスが奇声を上げると、スカーレットは大きな笑みを浮かべた。
三人が向かった先は地下。駐車場である。
ハイヒールの音を響かせたスカーレットは、間もなくメルボルン・レッドのクーペが見えると、キーを取出した。ヘクトルの知る限り、十万ドル以上。
ついさっきヘクトルが抱いた疑問の答えだが、きっと彼女は偉いのである。
スカーレットが運転席に滑り込むと、ヘクトルは助手席に座り、股の間にマテウスを潜り込ませた。マテウスは、もう興奮状態である。
見た目は派手なスカーレットの車には一切の香りがない。多分、彼女は潔癖。
車は滑らかに走り出すと、マテウスが奇声を上げた。
「大人しくしてね。」
スカーレットは、マテウスを優しく注意すると、ただ静かに車を走らせた。
方角から察する限り、行先はヘクトルの産みの親。そう聞かされていた人物の元である。
住所を教えた覚えはないが、もう気にしていられない。
何より、ヘクトルの育ての親は、とっくに死んでいる。
弁護士だった両親は、ヘクトルにとってよい見本だったが、どこかが違っていた。
本人達曰く、進化と愛の矛盾に耐えられない。
謎の理由で、同性の親友同士で形式だけの結婚をしたのである。
それは、ヘクトルに人とは違う家族感を与えるのに十分すぎる事件だった。
揶揄われることもあったが、二人は、ヘクトルがロー・スクールを卒業する頃、その役目を終える様に相次いで死んだ。
両親の名は、リンカーンとカレブ。
今では、ヘクトルの前でその名前を呼ぶ者は一人もいない。
ヘクトルの中では過ぎ去った記憶である。
産みの親のことは聞いたことがあり、住所も姓名も知っていたが、両親の死後、一度、電話しただけ。迷惑そうな口調に、心が萎えたのである。
結果、ヘクトルの両親はリンカーンとカレブだけになった。宿命である。
今、向かっているのは、その産みの親の元。
相手の都合は知らないが、折角なので、何があったのか問いただす。
ヘクトルは、助手席でマテウスの顔を弄びながら、静かに思った。

メルボルン・レッドのクーペが止まった先は、古びたイエロー・オーカーの木造家屋。
芝生もない広い砂地に、ホワイトのペンキを塗った木の柵が打込まれている。
敷地境界にしては、隣家は遥か遠い。その隣家も古く、開発から取残された地域。
どうひいき目に見ても、ヘクトルとは釣り合わない。
電話を出したのは、スカーレット。
「約束したアーキンです。家の前まで来ています。」
スカーレットが電話を切ると、ヘクトルはもの言いたげにその顔を見たがそれだけ。聞くのが怖いのである。
五分後。家を出て、ウッド・デッキから降りてきたのは、五十代半ばの無精ひげの男。
トマト・レッドのネル・シャツを着た上半身は肩が張り、アスリートというよりは肉体労働者である。
ゆっくりと近付く男の後ろに、同じ年ごろの女が見えたが、一瞬で姿を消した。約束していたのに薄着なので、出てくる気はないだろう。
ヘクトルとスカーレットは、マテウスを残して、車を降りた。
初めての親子の対面である。
間もなく三人が向かい合うと、スカーレットが間を取り持った。
「私がアーキンです。こちらが、ミスター・ヘクトル・ピウス。御子息です。」
スカーレットの話の基準は相手である。ヘクトルは、戸惑いながらも笑顔で右手を差し出した。
「初めまして、お父さん。お元気そうで、嬉しいです。」
他に褒めるところは見当たらない。しかし、ヘクトルの差し出した手は、温もりにつつまれることはなかった。
「ここで終わらそう。」
情が移る瞬間を与えるつもりがない。
元々あきらめていた部分もあったが、余りの言葉に理由を聞く気にもなれない。それは、赤の他人のスカーレットも同じである。
口を開いたのは口髭の男。
「俺達が親子じゃないかって言うんだろう?」
男の方がヘクトルより背は高いが、男は顎を引き、上目でヘクトルを見た。
「気持ちは分かるが、俺はお前の親なんかじゃない。プログラムの半年は預かったが、そういう契約だったんだ。」
一瞬の間を見つけると、スカーレットが口を挟んだ。
「それなら、彼を誰から譲り受けたのか、教えてもらえませんか?」
男はスカーレットを一瞥すると、ヘクトルに目を戻した。
ヘクトルが黙って頷き、答えを促すと、男はそれに応えた。拘る様子は一切ない。
「この子のお父さんだ。」
ヘクトルの口から、当然の感想が漏れた。
「それはそうだろう。」
それは、言葉の綾。
ヘクトルが疲れ切ると、後はスカーレットが確認した。
男がお父さんと言ったのは、リンカーンとカレブである。
整理すると、この夫婦は当時経済的に困窮しており、リンカーンとカレブの指示の下、彼らが連れてきたヘクトルを一度自らの戸籍に入れ、改めて彼らに養子に出すという作業を、一万ドルの報酬で引き受けたのである。
ヘクトルの出生を隠すことが目的と直感的に分かったので、一度、魔がさした時に役所に行き、ヘクトルについて調べたことがあるが、金になりそうな情報どころか、自分の戸籍に入るまでの痕跡は、一切残っていなかった。そういうことである。
後は、もう話すことはない。
ヘクトルとスカーレットが黙ると、男は、ニヤつきながら口を開いた。
「調子はどうなんだ。羽振りは良さそうだな。」
男の視線は、スカーレットのクーペに釘付けである。
マテウスを見られたくないヘクトルは、答えを急いだ。
「あれは彼女のです。」
男の口角がいよいよ上がると、ヘクトルは言葉を続けた。
「僕らは関係ないです。今日で会うのは二度目で、彼女の人探しに付き合ってるだけですよ。」
男は何度か頷くと、ヘクトルを指さした。信じたかどうかは分からない。
この男と半年間過ごしたことすら怖い。
ヘクトルはスカーレットと視線を合わせた。限界である。
「お時間をとらせて、すいませんでした。私達はこれで。」
スカーレットが話を切り上げると、男は鼻で笑って家に足を向けた。別れの挨拶もなし。
きっと、何かの契約があったのである。
足早にクーペに乗込むと、ヘクトルはマテウスを抱きしめた。家族の絆がほしくなったのかもしれない。
スカーレットは、何も言わずに車を出したが、次の行先は、エミリーの育った家しかない。
ヘクトルは、マテウスの頬を弄んでいたが、いつの間にか、力が強くなったのか、マテウスは手を払いのけると、ヘクトルの体を登った。

エミリーの実家は、大学のすぐ近くである。
造園業を営む母親のキャリーは、単身でエミリーを引取った。理由は分からないが、移民の彼女が静かな日常を手に入れた後の決断として、間違ってはいなかったかもしれない。
本当に花が好きな彼女の家の庭は花で溢れていたが、エミリーが死んだ後、何度か訪れた限り、花ガラが残りがちになっている。花の季節の終わりに抗うのが、難しくなり始めているのである。
実のところ、ヘクトルは、最近の彼女に会うのは、あまり好きではない。寧ろ、嫌いである。
何の話をしていてもエミリーの話になり、やがて号泣する。
マテウスを呼んで強く抱きしめ、マテウスが痛がる。
ひどく泣くことが、エミリーへの愛情の示し方ではないと一瞬思ってしまい、罪悪感に苛まれる。
これの繰返しなのである。ただ、義理の息子の心を冷めさせる程、彼女の泣き様は常に酷かった。
家に着き、バインドウィードの這う壁のベルを押すと、笑顔のキャリーが玄関に現れた。
「いらっしゃい。待ってたわ。初めまして、スカーレット。」
「初めまして。」
ここでも連絡済みである。キャリーの笑顔が自分達親子に向けられると、ヘクトルも笑顔を浮かべた。
「久しぶり。」
「大きくなったわね。」
そうは言っても、家族だけに許される会話は愛おしい。
キャリーはこれから絶対に号泣するのに。騒いで、何もかもを台無しにするのに。
ヘクトルの想像を他所に、キャリーはスカーレットに最高の笑顔を見せ、マテウスの背中を押すと、皆を客間に誘導した。
キャリーの煎れる紅茶は相変わらず可もなく不可もないが、ヘクトルの紅茶好きを覚えていることは確かである。マテウスを意識したクッキーはとにかく甘い。
口火を切ったのはスカーレット。
「キャリーさん。初対面で本当に失礼だと思いますが、あなたはお嬢さんを養子に迎えていますね。」
スカーレットの目は、澄んでいる。
哀れなキャリーの笑顔が固まるのが分かり過ぎる。
何が始まったのか分からないのである。
ヘクトルは、クッキーを持たせて、マテウスを遠ざけた。
「私達は、彼女がどこからもらわれてきたのか知りたいんです。」
スカーレットが静かに言葉を続けると、キャリーはヘクトルを一瞥した。
何も出来ないヘクトルが顔を横に振ると、キャリーは諦めた様に口を開いた。
「分かりません。」
彼女の答えは、かつてヘクトル達が聞いた時と同じ。絶対に通じないセリフだが、答えを拒絶している意味では正しい。
そこで終わらないのが、スカーレット。
「彼女を引取った時の状況が異常だったとしても、戸籍に嘘はつけませんよね。」
俯いたキャリーは、目を閉じた。
「分かりません。」
同じ言葉の繰返しである。首を傾げたスカーレットは、もう一歩踏み込んだ。
「あなたは、お嬢さんを戸籍上の実子にしていなかったんじゃないですか?」
ヘクトルも以前に知って驚いた事実であるが、彼でも知りえたことをスカーレットが知っていても不思議はない。
自分でも一度尋ねたことがあるが、隣りで他人が口にすると響きはきつい。
キャリーの沈黙が続くと、スカーレットの詮索は更に深い世界に踏み込んだ。
「あなたは移民ですよね。」
キャリーが身を縮めるのが分かる。
「一緒に来たグループの何人かは、ギャング団に入りましたよね。」
ヘクトルの見守る中、キャリーの目から涙が落ちた。いつものコースである。
「もう、そのぐらいで。」
ヘクトルが割って入ると、スカーレットは語気だけは弱めた。
「当時、ギャング団同士の抗争がありましたよね。その後、あなたが妊娠したという話も知っています。」
キャリーは、エプロンを顔にあてた。
スカーレットは、優しい声で残酷な問いかけを続けた。
「お嬢さんは、ギャング団のボスの指示で、誰かと交換した子供ではないですか?」
スカーレットの口にする情報は、ヘクトルの想像を超えた。
「もう、やめてくれないかな。」
泣き続けるキャリーのためにヘクトルが最低限の義務を果たすと、スカーレットは視線を一度逸らした。ため息交じりの最後の言葉は、スカーレットの気持ちを吐露する意味しか持たなかった。
「その知人の所在が知りたいんです。」
キャリーは、とうとう大声で泣き出した。それが、いつも通りの彼女。
ヘクトルが苦手なキャリーの姿がそこにある。
ヘクトルは、デジャ・ヴを感じた。
クッキーを手にしたマテウスも、隣りの部屋からこちらを見ている。
ヘクトルは、キャリーの肩を抱いて慰めた。
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