第75話 怪物

文字数 3,260文字

ステファヌスは、弁護士を連れて、連邦捜査局の取調室に姿を現した。
部屋にいたのは、彼の逮捕を指揮した陸軍大尉ヒーリーとロレンツォの二人。
ヒーリーとロレンツォが自己紹介をすると、ステファヌスはルールの説明を止めさせた。
彼はすべてを知っているのである。
口を開いたのはロレンツォ。
「G国のR国侵攻、S国の道路陥落事故、A国I州ビル街のVXガス散布テロ、C州の津波テロと誘拐及び殺人事件。証言はほぼ揃っています。あとは、あなたが経緯を喋って、サインをするだけです。それで、すぐに僕達から解放されますよ。」
ヒーリーは、笑顔で頷き、ロレンツォの言葉に力を与えた。
ステファヌスは、首を傾げた。
「核爆弾のことは言わないのが、君達らしい。」
ステファヌスは核爆弾を使える男。それが彼のスケール。
罪状を増やすだけの発言に、弁護士は小さく手を挙げた。
「君達が口にしなかったと発言しただけだ。」
ロレンツォが眉を上げると、ステファヌスは構わずに言葉を続けた。
「君の言った内容からすると、ローデヴェイクとの関係が分かっただけじゃないか。彼はどうした。」
ロレンツォは微笑んだ。囚人のジレンマである。
「僕には何も情報がありません。」
「死んだな。」
察したステファヌスは、少しだけ俯いた。
ほんの僅かな沈黙の後、顔を上げたステファヌスは、F国語で詩をそらんじた。

「ここは小川がせせらぐヴェルトの窪地
 草は銀の切れ端のようになびき
 太陽は山の頂から光を注ぐ
 ここは光あふれる小さな谷間

 若い兵士が眠っている
 口をあけ帽子も被らず首をクレソンに埋めて
 大空の下 草の上にのびのびと横たわる
 青ざめた唇には光が雨となって降り注ぐ

 足をグラジオラスの茂みに埋め
 子供のような笑みを浮かべて若者は眠る
 自然よ この冷たくなった若者を暖めておくれ

 どんな香りももう若者の鼻にただようことはない
 若者は陽光の中で静かに眠る
 手を胸に 脇腹には二つのルージュの穴を抱えて」

いつか、オリジナルのローデヴェイクが口にした詩であることは、その場の誰にも分からない。
詩の冒頭で既に困っていたロレンツォは、取敢えず、すべてが終わるのを待ったのである。
「一応、聞きましょうか。今のは何ですか。」
ロレンツォを黙って見つめたステファヌスは、弁護士を一瞥してから口を開いた。
「幼い頃、私は父と兄に連れられて、鹿を狩りに言った。森の中でうっかり出会うと、鹿は動きを止める。通じる言葉はない。美しいブラック・パールの様な瞳は、おそらく逃げる間合いを計るためだけにこちらを見ている。私は、長く目が合うと分かり合える様な錯覚に幾度となくとらわれたが、鹿が近寄ってくることは一度もなかった。彼らは、常に彼らに必要な距離を保った。分かるか。親しくなるために見つめている者と逃げるために見つめている者だけの時間。決して、両者が交わることはないんだ。」
ステファヌスは、ロレンツォとヒーリーの表情をゆっくりと観察した。謎の演説は続く。
「ただ、そこに追うものが混ざれば、交わりが生まれる。私達の目的が狩りである以上、私と見つめあった鹿を父が仕留めることもあった。鹿を仕留めると、小屋に持っていく。頭を落とし、重い内臓を両手で抱えて一気に引出し、肉と皮の間にナイフを入れ、皮を剥ぐ。肉は原型なく切り分けるが、足はそのままだ。鹿を見つけたご褒美に足をもらうと、蹄や残った毛は大した問題ではなくなる。どう食べるか、それだけを考える。それはもう肉の塊だ。そのまま焼くならソースはどうするか、燻製にするならチップは何にするのか。父の書斎の本を調べたり、調理人に相談したりして、考えるんだ。」
口を挟んだのはヒーリー。
「勤勉ですね。」
口を動かすのを止めたステファヌスは、ヒーリーを静かに見据えてから、ロレンツォに微笑んだ。ヒーリーが気に入らないのである。
「鹿を捌くとき、父がさっきの詩をよく謳った。ランボーの詩だ。最初は、若い兵隊の死を口に出す理由が分からなかったが、兄と私は、おそらく父は鹿の死を若い兵士の死の様に悼んだのだと思った。ただ、その後、兄と二人で初めて酒を飲んだ時、兄が言った。もし、逆だったら。鹿の命を奪い、調理をしながら、誰かの死を思い浮かべ、その死を鹿の死と同じ程度に考えていたらどうしようと。」
ロレンツォの冷めた視線を感じたステファヌスは、目に力を込めた。
「鹿を狩るのはなぜか。食という行為と狩猟行為の乖離による、生に対する尊厳の欠落を嫌い、自ら武器をとって、狩り、捌き、食べる。鹿、命、自然への感謝。神々しくさえある。その行為に、野蛮な戦争による人間の死を重ねる神経は、よくよく考えると狂気だ。それ以来、私と兄はよくその話をした。兄とは仲違いもし、共に多くの仲間を失ったが、死について考えると、よくこの詩を謳った。ほとんどの場合は、鹿を思っていた。常にではないがね。」
話の終わりを感じ取ったロレンツォは、笑顔で応えた。彼の進めなければならない話は、まったく別である。
「話を戻すと、余罪がありますね。核爆弾の話以外にも。」
ステファヌスは、ヒーリーに視線を戻し、気に入らないことを思い出すと弁護士を見た。
「随分、あつかましい言い様だ。大体分かった。私は助からないな。」
ロレンツォは、優しく頷いた。
「VXガスと津波の被害者は、鹿を探しています。大統領が獲物を逃がすとは思えません。経緯は関係ないでしょう。」
ステファヌスは、面倒くさそうに頷いた。
「君達の思う難事件に、関わったのかもしれない。ただ、自分で言うのもなんだが、私の資産はA国ドルで数千億はある。もはや、国家だ。私は、自分の傲慢を恐れ、何かをする時には、常にその問題への回答者として、最適な人材、時には機械にまで相談し、合意を得てきた。どこかの国の法に触れることがあったかもしれないが、相談相手の中には、法を司る者もいた。だからこそ言うが、私は、国家の様に、全てにおいて無罪だ。」
犯罪者が嫌いなロレンツォは、強めの言葉を選んだ。
「子供は?マテウス・ピウスを誘拐したのは?誰か一人でも合意しましたか。」
ステファヌスは、思い出した様に笑った。
「きっと、二つの偶然があった。まずはサミュエル・クレメンスがいなかった。誰かを人質にしようと思った時に、最高の治療が必要な子供がいた。それだけだ。マッチングした。全部、ローデヴェイクの判断だ。おそらく、子供は完治してから返すつもりだったと思う。ローデヴェイクは、そういう男だ。」
眉間に皺の浮かんだロレンツォは、小さく呟いた。
「普通にしてくれないかな。」
ステファヌスの小さな笑いは止まらない。
「考えてみろ。世界の至る所で、似た様なことを繰返している。自分だけの人生を生きているつもりでも、どんな貴重な瞬間も、どんな最低な瞬間も、何なら同じ言葉を口にしているかもしれない。頭に刷込まれたことを、反射神経で繰返している。それが君の言う普通と言う奴。見るに堪えない退屈だ。私からすると、生き物と言えるのか、甚だ疑問だね。」
ロレンツォの言葉は早い。
「人間は、人間らしくするということですよ。いいですか。あなたも人間。人間は法に従うものです。普通にルールに従って下さい。」
ロレンツォは、ステファヌスの答えを待たなかった。
ヒーリーと微笑み合ったロレンツォは、ローデヴェイクの存在に関する質問に入り、ステファヌスの泥沼の世界から抜けられなくなった。
ステファヌスへの尋問は、それから何日も続いた。

皆は元の生活に戻った。
変わったことは、サミュエルが、マテウス救出の代償として、自らの研究を全て国に捧げたこと。
サミュエルとの取引きにより、ロレンツォが継続していたジョン達の誘拐事件の捜査が打切られたこと。
エマが除隊して、プロのライフガードになったこと。
ステファヌスが、全国中継のもとで、公開処刑を執行されたこと。
変わらないことは、アンダーソン夫婦の仲がいいこと。
ピウス家のお茶の品数が増え続けること。
そして、マテウスの意識が戻らないこと。
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